第二話    レオ・メディチエールの表の顔 ①

「あいたたた……すいませんね、先生。診察時間ギリギリに治療してもらって」


 診察台の手前に置かれていた丸椅子に座っていた中年男性は、自分の怪我を治療してくれた青年に対して苦笑交じりに頭を下げた。


「いえいえ、こちらとしては一向に構いませんよ。病気や怪我に苦しむ人達を助けるのは神に仕える身として当然のことです」


 笑顔で応対したのは紺色の貫頭衣と脚衣を着用していた青年である。


 年齢は二十歳ほどだろうか。


 両耳が隠れる程度に伸びた亜麻色の髪に、澄み切った青空を想起させる碧眼。


 口髭や顎髭などは綺麗に剃られており、顎に向かって鋭利になっていた顔立ちは人気役者のように端正である。


「ですが、これからは気をつけてくださいよ。些細な怪我をしない一番の治療法は日頃からの注意力に神経を尖らせることなのですから」


 階段から落ちて左腕を骨折したという中年男性に青年は微笑を浮かべると、接骨処置の締めとして中年男性の腕と首を三角巾でしっかりと結んだ。


 青年の名前は、レオ・メディチエール。


 サン・ソルボンス修道院の施療院で働く修道士ではなく、都市の治安を守るために日々訓練と警備に勤しむ修道騎士団に属していた騎士であった。


 しかし、ここはサン・ソルボンス修道院の敷地内に設けられた施療院の三階である。


 一階部分は仕切りをなくした大部屋になっていて、二階は薬用箱や予備の寝具用品が納められている。


 そして三階部分は半ばレオ自身の診察部屋兼私室と化し、修道女が対処できない重症患者を治療する役割を担っていた。


 そんな診療室兼私室は部屋の隅まで清掃が行き届き、三十を有に超える寝床が設置されている一階部分とは違って簡素な部屋だった。


 一個の診察台に寝床が五つ。


 壁の手前には様々な医学書が収められている本棚が設置されている。


「クラウディア。ちょっと来てくれ」


 恰幅のよい中年男性の治療を終えたレオは、本棚の前で書物の整理に追われていた女性に声をかけた。


「どうしたの?」


 レオの呼びかけに女性はすぐに駆けつけてきた。


 波打つような髪型が特徴的な金髪の女性である。


 白雪の如き柔肌に桃色に染まった唇が艶かしかったが、顔立ちにはまだ大人に成りきれていない幼さが残っていた。


 年齢はレオよりも二、三歳は年下だろう。


 足元まで垂れた薄布の上からゆったりとした袖口の貫頭衣を着用していた修道女であった。


「医療棚の中から鎮痛薬を持ってきてくれないか? まだ幾つか残っていたはずだから」


「分かりました。他にも何か用はない?」


「今のところはそれだけで構わないよ」


「では、すぐに用意しますね」


 クラウディアは中年男性に軽く微笑むと、機敏な足取りで医療棚に向かっていく。


「相変わらず、クラウディアさんは美人ですな」


 患者たちの間で美人だと評判だったクラウディアの後姿を眺めながら、今しがた接骨処置を受けた中年男性がレオに同意を求めた。


「そうですか? 別に普通だと思うのですが」


 中年男性の下卑た意見をレオはさらっと否定した。


「いやいや、相当にクラウディアさんはいいですぞ。色街の中でも群を抜く美しさです。店に立てば客足は途切れないでしょうな」


「相変わらずですね。また女遊びを始めたのですか?」


「女遊びとは聞き捨てなりませんな。私はただ今日を食うにも困っている女性を助けるために相応の対価を与えているだけで」


「それを世間では女遊びと言うのですよ。まったく、女性の身体を金で買うなど考えられません」


 中年男性は口の端を吊り上げる。


「ならば今度、先生も一緒にどうです? 私の行きつけの店は美女揃いですよ」


 レオはきっぱりと断った。


「そんなことよりも治療は済みましたから帰宅されてはいかがです? それとも他に気になる場所でもありますか?」


「う~ん、そう言えば腰痛が酷くなってきたような気が……」


「では女遊びを控えてください。それで貴方の腰痛はすぐに改善に向かいますよ」


 レオは的確に中年男性の腰痛原因を指摘するなり、クラウディアが持ってきてくれた鎮痛薬を手渡して早々と追い返した。


 好色家として有名だった中年男性が階下に消えたことを視認すると、レオは診療台の上に並べていた紙に午前中に治療した患者たちの診察結果を書き記していく。


 修道騎士としては別に医者の仕事も兼ねていたレオは、請け負った患者の病状を詳細に書き留めておき、後で修道院の二階に設けられていた図書館に保管されている医学書と照らし合わせすことも仕事の内と心得ていた。


 そうすることで今まで不治の病と恐れられた病気の治療法が発見されることもあるからだ。


 それに近年では異国から高度な製紙技術が渡来してきたため、一昔前まで高級品の一つだった紙が安価になり診察結果をすべて書き留められるようになった。


(まったく世界は恐ろしい速度で進歩していくな)


 と、レオが羽筆の尻柄でこめかみを掻いたときだ。


「レオ、そろそろ一休みしたらどう? あんまり根を詰めると身体によくないわよ」


 クラウディアが水の入った木製のカップを持ってきてくれた。


 施療院の裏には建築作業員に頼んで掘ってもらった井戸がある。


 そこから汲み上げてくれた水だ。


 ローレザンヌの井戸水は国の中でも不純物が少ないことで有名であり、安全かつ美味しい水を求めて移り住んでくる料理人なども多い。


「ちょうど喉が渇いていたんだ。いただくよ」


 レオは羽筆を診察台の上に置くと、クラウディアからカップを受け取って喉を鳴らしながら一気に飲み干した。


 仕事で火照った身体に冷たい井戸水は何よりのご馳走だった。


 ビールやワインも美味いが身体のことを考えるとやはり不純物がない水が一番である。


「ありがとう、お陰で生き返った」


 空になったカップを診察台の上に置き、レオは安堵の息を漏らした。


「どうする? 昨日のように昼食はここに届けてもらいましょうか?」


「そうだな……」


 水を飲んで一服したレオは食事を取るかどうか思案した。


 先に食事を取ってもいいが、午後の診察が始まる前に午前中の診察結果を書き留めておきたい。


 そんなことを思っていると、レオはクラウディアの顔色が悪いことに気がついた。


「少し顔色が悪いな。疲れが溜まっているのか?」


「いえ、そんなことないわ」


 などとクラウディアは柔和な笑顔で否定したが、騎士団とは別に医者も兼任していたレオに体調の誤魔化しなど通用しない。


 レオは医者の目つきでクラウディアをざっと目察した。


 鼻先まで伸びている前髪に隠れてこそいるが、血の気が引いたようにクラウディアの顔が青白く染まっていた。


 呼吸も普段よりも浅く早くなっているような気がする。


「クラウディア、奥の寝床にちょっと横になれ。衣服を脱いでうつ伏せになるんだ」


「え……は、裸で!」


 クラウディアは目を大きく見開き、続いて両頬を真っ赤に染めて振り返った。

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