第20話 あ、人間のお友達ですか
よく晴れた午後。わたしはヴィンセント様と一緒に、彼の私室の掃除をしていた。
「雑巾がけって面白いですね。拭いたら拭いただけ、きれいになっていくのが」
「そうだろう。君が家事をやりたいと言い出した時はどうしようかと思ったが、思った以上に上達が早いな」
「ありがとうございます。ヴィンセント様に褒めてもらえて、とっても嬉しいです」
「……本来、貴族の令嬢は家事などしないものだし、君をおかしな道に引きずり込んでしまったのかもしれないとは思わなくもないのだが……君が満足しているのなら、それでいい……のか?」
「おかしくなんてないですよ。平民の女性は普通にしていることですよね?」
「ま、まあ、そうだが」
「大切な家族のためにせっせと働く、わたしだってそうしたいだけです」
胸を張って、机の上を拭く。力を込めて拭き上げたその表面は、顔が映るくらいにつやつやになっていた。
こんなにきれいだと、ネージュさんが飛び出してくるかもしれない。そんなことを思ってしまうくらいにぴかぴかだった。
わたしは最近、ヴィンセント様から料理や裁縫だけでなく家事も教わっている。
平民の家には使用人がいないのが当たり前だ。普通は母親や妻が、家族みんなの身の回りの世話をする。ヴィンセント様は平民の出ということもあって、使用人がいることに慣れていない。
だからこの屋敷では必要最低限の使用人しか雇っていないし、しかもヴィンセント様の私室の掃除は、全部自分でしているのだそうだ。
だったら、わたしがヴィンセント様の私室の掃除を手伝えばいい。わたしはヴィンセント様の妻なのだから、彼の身の回りの世話をしたっていいはずだ。
そう主張して、今度は掃除も教えてもらうことにしたのだ。もちろんヴィンセント様の手際には遠く及ばないけれど、それなりにこなせているとは思う。
そんな訳で、わたしたちは二人で雑巾がけをしていた。机、本棚、窓枠と順に拭いていたら、いきなり部屋の扉が開いた。
「やあ、ヴィンセント。君、幻獣を飼ってるんだって? 噂で聞いたよ」
そんな言葉と共に現れたのは、細身で背の高い男性だった。ちょうど、ヴィンセント様と同じくらいの年に見える。貴族には見えないけれど、身なりは豪華だ。商家の人かな。
「ブラッドか。突然現れるのはやめてくれと、いつも言っているだろう」
そう言いつつも、ヴィンセント様の顔はとても穏やかだった。
「分かってはいるのだけれど、君を驚かすのが楽しくてね。つい」
「つい、ではないだろう。エリカが驚いているぞ」
「ああ! なるほど、こちらの麗しい女性が君の奥方か」
ブラッドと呼ばれた青年は、軽やかにわたしに向き直る。
「初めまして、奥方殿。エリカ殿、と呼んでもいいかな? 私はブラッド、君の夫の友人にして副官だ。今後ともよろしく」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」
戸惑いながらそう答えると、ブラッドさんは明るい茶色の目を楽しそうに細めてにっこり笑った。ちょっとなれなれしくはあるけれど、嫌な感じはしない。
ヴィンセント様はどちらかというと近寄りがたい雰囲気をまとっているけれど、ブラッドさんはとても人懐っこそうだ。二人は友人みたいだけど、まるで似ていない。
「まったく、こんな美人をもらったのなら、きちんと手紙にそう書いてくれ。心の準備をせずに出会ってしまったから、愛らしさに息が止まるかと思った」
そして非難するような口調でそんなことをヴィンセント様に言い放っていたブラッドさんが、急に声をひそめる。彼はきょろきょろしながら、目を輝かせていた。
「ところで、幻獣はどこかな? 前に戦場で出会った、あの白くて大きくてやけに毛の長い狼だろう?」
「ああ、雪狼のことだな。確かにあれは幻獣で、この屋敷にしょっちゅう出入りしているが……飼っている、というのは違う。それに、あと二頭いる」
「そうなのか!? どうか、彼らに会わせてはもらえないだろうか」
子供のような表情のブラッドさんに、そっと声をかける。
「ええ、いいですよ。それでは雪狼……ええと、ネージュさんっていうんですけど……を探しにいきましょうか」
そうしてわたしたちは、三人一緒に部屋を出た。わたしが先に立って、きょろきょろしながらみんなを探す。
「あっ、ブラッドさん、こちらです。ちょうど、トレがくつろいでいます」
「トレ?」
「幻獣の一匹、草色の大きなネズミの名前だ」
「本当はトレーフルって名前なんですけど、トレって呼んでくれって、本人にそう言われたので」
そんなわたしの言葉に、ブラッドさんが戸惑っている。
「本人にそう言われた……? もしかして、そのネズミは話せるのか?」
「ええっと……」
ちらりとヴィンセント様に目で合図を送ると、彼は小さくうなずいた。どうやら、ブラッドさんには話しても大丈夫みたい。
「……なぜかわたし、幻獣の言葉が分かるみたいなんです」
「俺にはただの鳴き声にしか聞こえないが、彼女が幻獣たちと意思の疎通ができているのは確かだ」
それを聞いたブラッドさんの反応は、予想外のものだった。彼は目を真ん丸にすると、顔いっぱいに笑みを浮かべたのだ。
「素晴らしい! 幻獣と話すことができるだなんて、なんともうらやましい!」
あまりにもあっさり信じてしまったことに、今度はこちらが驚く番だった。
「……こいつは、昔からこうなんだ。気にするな」
苦笑しながら、ヴィンセント様がこっそりつぶやいていた。
トレに声をかけていたら、通りがかったネージュさんとスリジエさんがひょっこりと顔を出した。『知らない匂いがするな』『面白そうじゃの』などと言いながら。
ブラッドさんは大喜びで、みんなを順に見渡している。彼があまりにも感動をあらわにしているからか、みんなのほうは少々引いているようだった。
「ようやく会えたな、雪狼! あの日あの戦場で、ヴィンセントを守ってくれてありがとうと、私はずっとそう君に伝えたかったのだ!」
そうやって深々と頭を下げるブラッドさんに、ネージュさんが目をぱちくりさせている。
『……ああ、思い出した。どこかで見た気がすると思ったら、あの時のあいつか。おれの尻尾に触りたがっていた命知らず。……おかしなところは、相変わらずのようだな』
『確かに変わった男のようじゃのう。しかし、わざわざ礼を言うとは律儀で良い』
『トレのこと見ても驚かない。喜んでる。変なヒト』
それらの言葉を一言一句変えずにそっくりそのまま教えたところ、ブラッドさんはさらにはしゃいでしまった。
そして三人の許可を取った上で、順になで回している。それはもう、力いっぱい。
『ヴィンセントのほうがなでるのはうまいな。というか、毛をかき分けるな気持ち悪い』
『こっそり羽根をむしろうとするでない。なに、記念に欲しいじゃと? ……エリカ、お主が持っておるものを分けてやれ。お主、わらわの抜けた羽根を集めておろう』
『わしゃわしゃしないで。くすぐったい。このヒト強引』
ちょっと迷惑そうなこの言葉を伝えようかどうしようか悩んでいたら、ヴィンセント様がブラッドさんを止めていた。
「もう少し節度を持て、ブラッド。幻獣たちが困惑しているぞ」
「だが、私は触りたい。あの見事な毛並み、美しい翼。あんなに素晴らしいものに触れずにいられようか」
「まったく……。お前は獣とみるとすぐに触りたがるが、そのせいで獣に避けられているんだと、何度言ったら分かるんだ」
「分かってはいる。だがそれでも、迫らずにいられない。そういうものだろう? ちょうど、男女の仲のように」
「おい、話がずれているぞ。だいたいそういったことは、俺は不得手だ」
「そうか? あんなに可愛らしい奥方と、こんなに仲良くやっているというのにか?」
「な、仲がいい……そう見えるか」
「照れるのと苦悩するのを同時にやってのけるとは、意外に器用だなヴィンセント。普段の君はあんなに不器用なのに」
ヴィンセント様とブラッドさんは、とても気楽にお喋りを続けている。いつもよりもヴィンセント様がくつろいでいるようで、それが嬉しくもあり、うらやましくもあった。
そんな思いを隠しながら微笑むわたしの前で、二人はなおも仲良く話し込んでいる。隣のネージュさんが、おかしそうに笑いながらあくびをしていた。
それからしばらく、みんなで和やかにお喋りして。やがて、ブラッドさんが帰る時間になってしまった。
後ろ髪を引かれながらも帰っていくブラッドさんを、ヴィンセント様と二人で見送る。ネージュさんたちは、一足先に裏の森に戻っていた。
そうして玄関まで来た時、ブラッドさんがふと何かを思い出したような顔をした。
「そうだ、エリカ殿に話しておきたいことがあるのだった」
彼は玄関から離れたところで、そっとわたしを手招きする。そちらに歩み寄ると、彼は内緒話をする時のような声で言った。
「エリカ殿。ヴィンセントのことを、どうかよろしく頼む。彼は不器用だが、根はとてもいい男なのだ」
その声には、ヴィンセント様のことを心配しているという思いがありありと表れていた。ああ、二人は本当にいいお友達なんだな。そう思いながら、力強く答える。
「はい、もちろんです!」
「……もっとも、わざわざ頼む必要はなかったかもしれないな。貴族として生まれ育ちながら、笑顔で雑巾を手にし、拭き掃除に精を出せる君は、きっと既に彼の良き理解者なのだと思う」
「あ、えっと、それは……」
ちょっぴり恥ずかしくなって、下を向きそうになる。でもすぐに、顔を上げた。
恥ずかしがるのは違う。だってわたしは、ヴィンセント様と共に家事ができることを、とても幸せだと感じているのだから。
「……わたし、これからもヴィンセント様のそばで、彼と共に生きていきたいって、そう思っています」
胸を張って答えたわたしに、ブラッドさんはそれは嬉しそうな笑みを向けてくれた。その肩越しに、少し照れ臭そうに微笑んでいるヴィンセント様の姿が見えた。
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