もふもふたちは恋の話がお好き
一ノ谷鈴
第1章 あの人に近づきたい
第1話 ……前途多難、かも
「エリカ。俺は、君を妻とした。だが君のことを愛するつもりはない」
私の夫となった人は、花嫁衣裳のわたしを見るなりそう宣言した。とても静かな声で。
「君が望むなら、いつでも離縁しよう」
まったく予想もしていなかった言葉に、ぽかんとしながらも必死に言葉を探す。
「えっ、そんな、わたしはあなたの妻としてここに」
「……妻など不要だ」
そうして彼は、ヴィンセント様は、わたしのほうを見ることなく出ていってしまったのだった。
この結婚は、両親が決めたものだった。
お相手であるヴィンセント様は男爵の位を持つ騎士。武勇に優れ、いくつもの戦いで目ざましい功績を上げてきた方だ。
彼は先だっての大きな戦いでも大いに活躍され、その褒美として陛下は彼に新たに伯爵の位を与えられた。それも当然と断言できるくらいの、すごい働きだったらしい。
それに伴い、彼に妻をめとらせるべきだという話になった。彼は二十七歳になるけれど、今もなお独り身だったのだ。社交の場にも一切姿を現さないから、令嬢たちと知り合う機会もなかった。
そうして、伯爵家の娘であるわたしに白羽の矢が立ったらしい。両親は栄誉なことだ、しっかり彼にお仕えしなさいと言っていたけれど、気のせいかその言葉がちょっと白々しかった。
ヴィンセント様は、きっともっと武勲を立てる。そんな相手と縁をつないでおくのは我が家にとって得になると、そんな計算が透けて見えるようだった。
でも、政略結婚なんて貴族では当たり前だ。嫁ぐ先が、十も年上の男性であっても。相手の顔どころか、人柄について何も分からなくても。
わたしが彼について知っていることはほんのわずか。友人たちが教えてくれた噂話。
ヴィンセント様はその武勇で陛下に重んじられているものの、貴族たちとはちっとも打ち解けようとしない。それどころか、貴族を見下しているらしい。
噂が本当だなんて思ってはいない。でも、ヴィンセント様に親しみを覚えることもできなかった。
わたし、どうなっちゃうのかな。わたしは悩みを誰にも打ち明けられないまま、こっそりとため息をついていた。
そしてあっという間に、わたしが嫁ぐ日がやってきた。
ヴィンセント様の意向により、婚礼のたぐいは一切なし。花嫁衣装をまとったわたしが、嫁入り荷物と共にヴィンセント様の屋敷に行く。それだけ。
そうしてわたしは、満面の笑みを浮かべた両親に見送られ、たった一人で馬車に乗り込んだ。どことなくすっきりしない気分を抱えたまま。
昼間は馬車に揺られて、夜は宿で休んで。ほぼずっと、無言のまま。
そんな旅が数日続いたある朝、わたしは豪華絢爛な花嫁衣裳を身に着けた。金銀の糸でたっぷりと刺繍の施された白いドレスは、見た目よりずっと重かった。
その日の夕方、ついに目的の屋敷にたどり着いた。森に囲まれた質素で古い建物に、おそるおそる足を踏み入れる。
屋敷の中は、意外にも居心地がよさそうだった。やはり質素だけれど、よく掃除が行き届いているし、ちょっとした飾り物なども趣味がいい。
がちがちに緊張していた心が、少しだけほぐれるのを感じた。そうしていよいよ、ヴィンセント様が待つ応接間への扉をくぐる。
夕日の差し込む部屋の奥に静かにたたずむ、一つの人影。
かぶっているヴェールが邪魔でよく見えないけれど、とても大きな人だということは分かった。がっしりしていて、確かに強そうだ。
ヴィンセント様は立ち尽くしたまま、何も言わない。仕方なく、彼のほうに近づいていく。花嫁衣裳のすそが立てるさらさらという音だけが、応接間に響いていた。
「止まれ」
不意に、ヴィンセント様が短く言う。低くどっしりとした、豊かな響きの声だ。手を伸ばしても届かないくらいの距離を開けて、わたしたちは向かい合う。
間近で目にしたヴィンセント様は、鋭さと強さを感じさせる、落ち着いた雰囲気の男性だった。
黒い髪はとてもつややかで、こちらを見ている目は冬空のような明るい青灰色だ。がっしりとして男らしく、まるで大きな狼のような人だった。
彼は眉をひそめて、こちらをじっと見ている。ちょっとだけ怖いけれど、不思議と彼から目が離せない。わたしは何も言えずに、ヴィンセント様に見とれていた。
そうしたら彼は、いきなりあんなとんでもない宣言をして去っていったのだ。
愛のない政略結婚なんて、珍しくもない。それは分かっていたけれど、まさか自分がその渦中の人となるなんて。
やるせない思いに手をぎゅっと握りしめたら、ぷつんという感触がした。花嫁衣裳の繊細な手袋、その縫い糸が切れたようだった。
君を愛するつもりはない。妻など不要だ。そう言い切ったヴィンセント様は、それからも徹底してわたしを避け続けていた。
あいさつをしても、無言で会釈してすぐに立ち去ってしまう。お喋りしませんかと声をかけても、忙しいからと追い払われてしまう。食事は一緒にとってくれるけれど、その間もずっと無言だ。
本人が何も喋らないのなら、周りに聞いてみよう。そう思って、使用人たちとも話をしてみた。あなたたちから見たヴィンセント様はどんな方なの、と尋ねてみたのだ。
けれど彼らの返事はこんなものだった。自分のことについては何も話すなと、そうヴィンセント様から命じられておりますので。結局、こちらも空振りだった。
何日かそんな風に過ごして、ようやくわたしは思い知った。ヴィンセント様は、わたしのことを本気で拒んでいる。
彼は、いつでも離縁するといった。わたし、実家に帰ったほうがいいのかもしれない。でもわたしは、そうしたくなかった。
政略結婚とはいえ、こうして夫婦になったのも何かの縁だと思う。拒まれたからさようならだなんて、寂しすぎる。
でもこれ以上無理に踏み込んでも、もっと嫌われるだけだと思う。進むこともできず、戻ることもできない。
「使用人のみんなは良くしてくれるし、居心地自体は悪くないのにな……」
自室で一人そんなことをつぶやきながら、窓の外をぼんやりと眺める。そこには、屋敷の裏手に広がる森が見えていた。豊かな緑は、胸の中の寂しさを少しだけ癒してくれた。
「……ヴィンセント様……どうして、口もきいてくれないのかな……そんなにわたしのことが、嫌なのかな……」
初めて会った時、彼は困ったような、苦しそうな顔をしていた。でも、わたしを忌み嫌っているような、そんな様子はなかった。少なくとも、わたしはそう思った。
どうして彼は、あんな顔をしていのだろう。どうして彼は、わたしを避けるのだろう。その理由を知りたいのに、どうしようもない。
泣きそうになって、あわてて首を横に振る。その時、森の奥のほうに何かおかしなものが見えた。
「今の……何だろう。真っ白くて大きな……」
獣にしては白すぎるし、人間にしては大きすぎる。その何かが気になって、部屋を抜け出す。
裏手の森には、賊や大きな獣はいない。散歩に向いた安全な場所なのだと、そう使用人のみんなから聞いていた。だから、あの何かを追いかけても大丈夫。きっと。
足音を忍ばせながら屋敷を飛び出し、森の中へ足を踏み入れる。森の中の細い道を、転ばないよう気をつけながら急いだ。あの白い何かがいたのは、確かこっちだったと思う。どこかなあ。
そんなことを考えながら大きな木を回り込んだ、その時。
『ほう、こんなところに若い娘とはな。珍しい』
突然、そんな声が聞こえてきた。
若いような年を取っているような、何ともつかみどころのない男性の声だ。とても愉快そうに、くつくつと笑っている。
「誰か、いるんですか?」
『おっと、気づかれたか』
そんな言葉と共に、白い大きな影がぬっと目の前に現れた。
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