第2話 はじめまして、白いもふもふさん

 わたしの目の前にいるのは、大きな大きな白い狼だった。屋敷にいる一番大きな馬よりも、さらに一回り以上大きい。しかも狼にしてはやけに毛が長く、ふかふかだった。


 真っ白な毛に全身を包まれたその姿は、間違いなく狼なのに、何か違う生き物のようにも見えた。友人の屋敷にいた、毛の長い猫に似ているかもしれない。


 ともかく、さっき自室の窓から見た何かは、きっとこの狼なのだろう。


 それはそうとして、この狼、喋っていたような。気のせいかな。気のせいだよね。そんなはずないし。


 それにあの毛、ふわふわしていて……柔らかそう。触ってみたいな。


 あまりにびっくりしたせいか、逃げることも忘れていた。やけにのほほんとした考えが、次々と頭に浮かぶ。と、狼は大きく口を開けて笑った。


『……全然怖がらんな。変な女だ』


「わっ、やっぱり喋った!」


 わたしが叫ぶと、狼が首をかしげた。とびきり大きな頭がぐりんと動いて、ふわっふわの毛が軽やかに揺れた。


『おい、そこのおまえ。もしかして、おれの言葉を理解しているのか?』


「は、はい。あなたの言葉、分かります」


 あわててそう答えると、狼は目を真ん丸にした。宝石みたいな青い目だ。


『……長く生きているが、おれと話せる人間なんて、初めて見たぞ』


 呆然としている狼に、いそいそとお辞儀をする。話せるのなら、ちゃんと名乗っておかないと。


「あの、わたしはエリカです。そこの屋敷に住んでいます」


『……おまえ、やっぱり変だな。まあいい、ご丁寧にどうも。おれはネージュ、今はこの森で暮らしている。おまえたち人間は、おれたちのことを幻獣と呼んでいるな』


「えっ、幻獣ですか! 生まれて初めて見ました……」


 幻獣とは、野の獣とも家畜とも違う、不思議な生き物だ。見た目も変わっているし、様々な特殊な力を持っている。とても珍しいので、一生に一度でも見られたら幸運だと言われている。


 そんな存在に、こんなところで出会えるなんて。ヴィンセント様に近づけずに落ち込んでいたことも忘れそうなくらい、嬉しい。


「不思議な力を持つって聞いていましたけど、まさかお話できるなんて……」


『ああ、それはおれの力じゃないぞ。おまえが変わっているだけだ』


「変わっている、んですか? あの……わたし、普通だと思います……」


 わたしはごく普通の伯爵令嬢として生きてきた。変だとか何だとか、そんなことを言われたことはない。納得がいかなくてうつむくと、あわてたような声が上から降ってきた。


『おっと、すまん。悪く言うつもりではなかったんだ。頼むから、泣くな。ほら、おれの毛皮に触っていいぞ。わびの印だ』


 泣いてはいなかったのだけれど、あのふわふわには触りたい。顔を上げて、ネージュさんのほうに一歩踏み出した。目の前に迫る白いふわふわに、両手を伸ばす。


「あっ、すごく柔らかい……ふわふわ……素敵……」


『そうだろう。おれの自慢の毛並みだぞ。あのヴィンセントも、時々世間話のついでに触っていく』


「ヴィンセント様が!?」


 幻獣がいただけでも驚きなのに、ヴィンセント様と会っているなんて。今日は次から次へと、驚くようなことばかりだ。


「……あの、ヴィンセント様とお知り合いだっていうのなら……あの人のこと、教えてもらえませんか?」


 そう頼み込んだら、ネージュさんはむむうとうなり、それからわたしを見下ろした。


『……そもそもおまえ、何者だ? あいつの屋敷に住んでいるとか言ったが、使用人か?』


「わ、わたしは」


 ごくりとつばを飲み込んで、緊張しながら答える。


「わたしは、ヴィンセント様の、……妻、です。ですから……夫のことを知りたいと、そう思うのは当然ですよね」


『ああなるほど、おまえがあの、押しつけられたとかいう嫁か。あいつがあんなに嘆いていたから、いったいどんな恐ろしい女が来たのかと気になっていたんだが……なんだ、可愛らしい女じゃないか。変わってるが』


 ネージュさんは楽しそうに笑いながら、そんなことを言っている。しかしわたしは、それどころではなかった。彼の胸毛をしっかりとつかんで、ぐいぐいと引っ張る。


「あの、お願いです、教えてください! ……ヴィンセント様は本当に、嘆いておられたんですか? その、どんなことを、言っていたのでしょう……」


 ヴィンセント様が、陰でわたしのことを嘆いていた。その言葉が、ぐさりと胸に刺さる。必死にすがりながらも、涙がじわりと浮かんできた。


 と、大いにあわてた声が降ってきた。


『あ、こらおい、泣くな! ……嘆くというか、愚痴っていたというか……ともかく、おれの口から言えるのはそこまでだ。気になるなら、本人に聞いてみろ』


「だって、ヴィンセント様はずっとわたしのことを避けていて、話すどころかあいさつだってできなくて、わたし、ヴィンセント様のこと、もっと知りたくて、なのに」


『だから泣くな、頼むから!』


 気がついたら、涙の粒が頬を転がり落ちていた。嫁いできてからずっとこらえていたものが、ぽろぽろとあふれ出していく。


 最高にふわふわの白い毛をにぎりしめたまま、声を殺して泣き続ける。ネージュさんは困っていたようだけれど、何も言わずにそこにいてくれた。




 そうして、わたしが泣き止んで。


『まったく、嫁をここまで泣かせるとは……さすがに、見過ごせんな』


 ネージュさんが深々とため息をついた。とびきり大きなそのため息が、わたしの淡い金の髪をふわりとなびかせた。


『このままだとおまえ、泣きべそかいたまま実家に戻ってしまいそうだからな……おれとしても、せっかくの話し相手がすぐにいなくなるのは面白くない』


「……ネージュさん?」


『少しだけ、手伝ってやる。ただおれはあくまでもきっかけを作るだけだ。そこから先は自分でどうにかしろ。分かったな』


 いったい何をどうすればいいのかまったく分かっていなかったけれど、ひとまずこくりとうなずく。


『よし、ならばおまえに策を授けてやろう。よく聞けよ……』




「あの、これが本当に『わたしとヴィンセント様の関係を改善できるかもしれないとびきりの策』なんですか?」


 ネージュさんと出会ってから数日後、わたしは裏庭の奥の森でネージュさんと話していた。彼がわたしに、毎日ここに来るように言ったのだ。それも、昼食のすぐ後に。


『ああ。おまえは今まで、ろくにヴィンセントと顔を合わせることすらできなかったのだろう? ならばこれが、最善の策だ。……たぶん』


「たぶん、って、そこで弱気にならないでください……」


『ああもう、大丈夫だ。いちいち泣きそうな顔をするな。こうやって待っていれば、じきに好機がやってくる』


「信じてますからね……」


『ああ。おまえはいちいち涙ぐまずに、どんと構えておけ』


 そうやって、いつものようにあれこれとたわいのないことを話す。と、ネージュさんが口を閉ざして屋敷のほうを見た。


『……どうやら、好機が来たようだな。ほら、ここに隠れてじっとしていろ。おれがいいと言うまで、絶対に出るんじゃないぞ。動くのも喋るのもなしだ』


 そう言って、ネージュさんがぺたりと地面に伏せる。彼は鼻面をくいと横にしゃくって、脇腹を指し示した。


 やっぱり訳が分からなかったけれど、大急ぎでふかふかの毛の中にもぐりこむ。


 驚いたことに、彼のふわふわの白い毛はわたしをすっぽり包み込んで隠してしまうだけの長さがあった。しかもその中は、お日様の匂いがしてとても居心地がいい。こんな時じゃなかったら、ここでお昼寝したいくらい。


『よし、きっちり隠れたな。ぎりぎり間に合った』


 何に間に合ったのか、わたしはすぐに知ることになった。足音が近づいてきて、朗らかな声がしたのだ。


「……ああ、ここにいたか、雪狼」

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