第3話 ごめんなさい、不意打ちです

 聞こえてきたのは、間違いなくヴィンセント様の声だった。どうやら彼は、ネージュさんのことを『雪狼』と呼んでいるらしい。ぴったりの名前だ。


『やっと来たか、この女泣かせめ』


 ネージュさんはいきなりそんなことを言っている。あれでは罵倒だ。しかしヴィンセント様は嬉しそうな声で笑っていた。ああそうか、ヴィンセント様にはネージュさんの声が聞こえていないんだ。


「歓迎してくれているのか? いい子だ」


『いや、あきれているな。だいたい、誰がいい子だ。おれはおまえの倍以上生きているのだぞ。少しは年上を敬え。こら、雑に首をかくな、毛並みが乱れる。ぐぬぬぬぬ、くそ、気持ちいい』


「はは、お前は可愛いな。こんなに大きいのに、まるで犬のようだ」


 まったく想像もしていなかった状況に、小さく丸まったまま必死に笑いをこらえる。


 ヴィンセント様は親しげに話しているのに、ネージュさんは好き勝手言い放題だ。会話がまるでかみ合ってない。でも、楽しそうだ。


 そしてそれ以上に、胸が苦しかった。だって、ヴィンセント様の声はとても優しかったから。わたしは一度だって、あんな声をかけられたことはない。


 うっかり泣き出さないように、ぎゅっと口を押さえる。まだネージュさんは、出てきていいと言っていない。だからわたしは、ここに隠れていなくては。


『で、おまえはなんだって、嫁をないがしろにしてるんだ?』


「どうした、雪狼。どことなく辛そうだが」


『おまえがエリカを泣かせているからだろうが』


 その言葉がヴィンセント様に届いたはずもないのに、ヴィンセント様は切なげなため息をついた。


「いや、そう感じるのは、俺自身が暗い気分だからか」


 そうつぶやくヴィンセント様の声は、ひどく悲しげだった。


「……俺は、妻などめとるつもりはなかった。そもそも俺には貴族の家の長なんて……とても務まらない」


 ネージュさんは何も言わない。わたしも唇を引き結んで、次の言葉を待つ。


「それなのに、貴族たちは無理やり俺に妻をよこしてくるし……俺は何度も断ったというのに」


 深々としたため息が、ネージュさんの毛にもぐったままのわたしのところまで聞こえてきた。


「俺では彼女を幸せにできない。俺と彼女では、生きる世界が違う。彼女は一刻も早く、実家に戻るべきだ。そうして彼女にふさわしい幸せを得るべきだ」


 思いもかけない言葉に、はっと息をのむ。彼は、わたしのことを案じてくれていたんだ。だからこそ、わたしを遠ざけていたんだ。たったそれだけのことが、とてつもなく嬉しい。


「……どうにかして、彼女の不利益にならないように送り返せないか考えているのだが、うまくいかない」


『当の本人は、帰るつもりなどないようだぞ? 的外れなことで悩むより、彼女にきちんと向き合え、この堅物』


「励ましてくれるのか、雪狼」


『あきれているんだ、馬鹿』


「ありがとう、雪狼。……それにしてもこの見事な毛並み、その堂々たるたたずまい。いつ見てもほれぼれするな」


『そうだろう、そうだろう。もっと褒めていいぞ。……その褒め言葉のひとかけらでいいから、エリカにかけてやればいいのに』


 相変わらずかみ合わない会話に続いて、ヴィンセント様の笑い声が聞こえてくる。温かくて朗らかで、聞いていると胸がぎゅっと苦しくなる。


 今、彼はどんな顔で笑っているのだろう。彼の笑顔が見たい。その笑顔をわたしにも向けて欲しいなあ。


「貴族は苦手だ。何を考えているか分からないからな。その点お前とは、言葉がなくとも通じ合える。俺は、良い友を得た。どうかずっと、俺のもとにいてくれ」


『そういう口説き文句はエリカに言ってやれ、こそばゆい。あと、勝手に友にするな』


 やっぱりずれている会話がおかしくて、うっかり小さく笑ってしまう。いけない、きちんと毛の中に隠れていなくては。あわてて、頭をぎゅっとネージュさんの脇腹に押しつけた。


 その拍子に、髪飾りがネージュさんのふわふわの毛に引っかかってしまった。一番お気に入りの、宝石飾りのついたリボンだ。


 ヴィンセント様にばれないように毛を外してしまおうと、髪飾りにそろそろと手を伸ばす。


 その拍子に、引っかかっているところが外れた。けれどそのままリボンがほどけて、わたしの髪からも外れてしまったのだ。


 リボンをたなびかせながら、ころんころんと宝石飾りが転がっていく。ネージュさんの毛の外側、ヴィンセント様の立っているほうへ向かって。


 あれが見つかったら、わたしがここにいることがばれてしまうかもしれない。こんなところで盗み聞きしているのを知られたら、今度こそ嫌われてしまう。


 もちろんこれは、ネージュさんの指示でやったことではあるけれど、それを証明するのは多分無理だ。なぜかわたしはネージュさんと話せるんです、などと主張したら、頭がおかしくなったと思われるかも。


 どうか、髪飾りがヴィンセント様に気づかれませんように。そんなわたしの祈りも空しく、ヴィンセント様の笑い声が止まった。


「雪狼、どうしてお前がこれを持っている?」


 どうやら、ヴィンセント様は髪飾りを見つけてしまったらしい。急に緊迫感を漂わせて、彼はネージュさんに問いかける。


「これは彼女のものだろう? お前、彼女に出会ったのか……? まさかとは思うが、お前は彼女に危害を加えてはいないだろうな」


『人聞きの悪いことを言うな、堅物。おれは人畜無害な幻獣だぞ。人間を食ったりするものか』


 そう答えて、ネージュさんが少し考え込む。


『ま、これもきっかけと言えなくもないか。おいエリカ、ここからはおまえが頑張れ』


 いったい何を頑張れというのか。もう、さっきから分からないことばかり。


 どうしよう、と困っていたら、いきなり視界が開けた。目の前には、ぽかんとした顔で立っているヴィンセント様。


 どうやらネージュさんはいきなり立ち上がって、そのまま一歩横にどいてしまったらしい。地面に座ったわたしの姿は、ヴィンセント様から丸見えになっていた。


「……なぜ、君がここに」


 わたしは何も言えずに、ただヴィンセント様を見上げていた。




 草地に座り込んだわたしと、わたしを呆然と見つめているヴィンセント様。そしてそんなわたしたちを、ネージュさんがにやにやしながら眺めている。


 あわてて立ち上がってスカートについた草を払っているわたしに、ヴィンセント様がそろそろと髪飾りを差し出してきた。とても、ぎこちない動きで。


「あ、ありがとうございます」


 髪飾りを受け取る時に、ほんの少し手が触れた。すごく大きな、がっしりした手。彼に触れるのは、これが初めてだ。彼の上着の袖口に、ネージュさんの白い綿毛が何本かくっついていた。


 そういえばさっき、ヴィンセント様はネージュさんのことを撫でまわしていたような。ちょうど、犬か何かを可愛がる時のように。


 そんなことに親しみを感じてしまい、つい口元に笑みが浮かぶ。けれどそれがいけなかったのか、ヴィンセント様はすっと手を離し、機敏な動きで背を向ける。


「……さっき聞いたことは忘れろ」


 わたしがどうしてここにいるのか聞きもせずに、ヴィンセント様は立ち去っていく。ああ、やっと彼の新たな一面を見られたと思ったのに。やっぱり、話せなかった。


 返してもらった髪飾りをぎゅっとにぎりしめた時、ネージュさんがいきなり動いた。


 彼は助走もなしに、いきなりぽんと高く跳ねた。そうしてヴィンセント様の目の前にすとんと着地し、帰り道を体でふさいでしまったのだ。


『逃げるな、弱虫堅物』


「どうした、いきなり道をふさいで。……仕方ない、こちらから」


 ヴィンセント様は戸惑いつつも、道を外れて森の木々の間を無理やり通り抜けようとする。そんな彼の行く手に、またネージュさんが先回りする。右へ左へ、せわしなく。


『おい、エリカ。おまえも黙って見ていないで、今のうちに思ったことを言ってやれ』


 その言葉に、我に返る。そう言えばさっき、ネージュさんは『ここからはおまえが頑張れ』とか言っていた。


 わたしは、ヴィンセント様に避けられていることが悲しくて、ヴィンセント様とろくに話ができないことが悲しくて、そうしてネージュさんに泣きついたのだった。


 今ならば、ヴィンセント様に声をかけることができる。ネージュさんが退路を断ってくれている、今なら。


 髪飾りをにぎりしめたまま、ゆっくりとヴィンセント様のほうに近づいていく。緊張でひざが震える。でも、今逃げたらもう好機はやってこない。


「あ、あの、ヴィンセント様!」

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