第9話 お出かけ、楽しみです!
それからヴィンセント様は、時々手料理をふるまってくれるようになった。
つい作りすぎてしまったからだとか、雪狼にふるまうついでだとか言っていたけれど、どんな理由であれ彼の手料理を食べられるのはすごく嬉しかった。
そのまま料理についての話ができれば良かったのだけれど、わたしは料理のほうはからきしだ。でもお裁縫なら得意だし、いつかヴィンセント様とお裁縫の話ができたらなあとは思う。
ネージュさんのおかげで、ほんのちょっとだけヴィンセント様に近づけた。わたしも、もっと頑張ろう。いつかきっと、ヴィンセント様と笑って過ごせるようになるんだ。
そう意気込んでいたら、またネージュさんが面白いことを言い出した。いつものように裏の森でお喋りしている時、突然に。
『おまえは嫁いできてから、ずっとそこの屋敷にいるのだろう。そろそろ、出かけたいと思わないか? 思うだろう? なあ?』
「ええっと……思わなくもないですけど、それよりも今は、ヴィンセント様と仲良くなるほうが先ですし」
『そう言うと思った。おまえのその二つの思いを同時にかなえる、いい案があるぞ』
ふわふわの白い毛をそよがせながら、ネージュさんがにやりと笑う。また、何かをたくらんでいるのかな。この前みたいに。
けれど、あの時はネージュさんに助けられた。なら彼の思いつきに、もう一度乗ってみるのもいいかもしれない。
知らず知らずのうちに、わたしも微笑んでしまっていたのだろう。ネージュさんの笑みが、さらに深くなった。
そうしてわたしは、屋敷の裏の森のさらに奥を歩いていた。隣には無表情のヴィンセント様、前には上機嫌のネージュさん。
「……雪狼……何を考えているんだ」
わたしのほうを見ることなく、ヴィンセント様はそんなことをつぶやいている。それも当然ではあった。
ネージュさんがわたしに指示した内容は、こんなものだった。
ヴィンセントに丸一日休みを取らせて、おれのところに連れてこい。みんなで出かけるぞ。もしあいつがごねるようなら、おれたちが出会ったその日のことをばらすぞ、と言ってやれ。
なんだか脅しているみたいだなあとも思ったけれど、ひとまずそのままヴィンセント様に伝えてみた。
ヴィンセント様がすっと青ざめ、呆然と立ち尽くした。それから力ない声で、ぼそぼそと答えてくる。
「……分かった。明後日なら、休みを取れる」
「あ、あの……顔色がものすごく悪いですけど……やはり、わたしと出かけるのは……嫌ですか……?」
「い、いや、君は悪くない。雪狼が何やらたくらんでいるらしいのが、気にかかるだけで……」
「その、でしたらやっぱり、お出かけはなしにしますか? もしネージュさんが余計なことを話したら、わたし頑張って耳をふさぎますから」
「いや、出かけよう。一度君の提案に乗ったのだ、今さら白紙に戻すなどできない」
そんなやり取りを経て、今にいたる。ヴィンセント様って、とっても真面目だ。
『さあ、着いたぞ』
ネージュさんは大きな泉の前で足を止めた。澄んだ水をたたえたそれは、まるで鏡のようだった。
と、ネージュさんはぺたりと地面に伏せて、驚くべきことを口にした。
『さあおまえたち、おれの背中に乗れ』
「えっ!?」
「どうした、また雪狼が何か言ったのか」
「は、はい……ネージュさんが、背中に乗れって。わたしたち、二人とも」
戸惑いつつもそう伝えると、意外にもヴィンセント様は興味を持ったように目を見開いた。
「確かに、雪狼なら俺たち二人を同時に乗せられるだろうが……本当に、乗ってもいいのだろうか」
『いいから早く乗れ、ヴィンセント。エリカ、おまえもだ』
仕方なく、ネージュさんの毛をつかんで背中によじ登る。ヴィンセント様も、すぐ後ろに腰を下ろした。ヴィンセント様が近い。ちょっとどきどきする。
普段、ヴィンセント様はわたしが近づくと態度がおかしくなる。肩に力が入ってしまうし、目も泳いでしまう。そうしてわたしが離れると、あからさまにほっとした顔をするのだ。
でも今は、ネージュさんの背中に乗ることで頭がいっぱいらしい。こうしてわたしが見つめていても、気にしている様子はない。嬉しいな。
『よし、じゃあしっかりおれの毛をつかんでおけよ! 落ちたら面倒なことになるからな!』
言うが早いか、ネージュさんはすっくと立ち上がって泉に飛び込んだ。わたしたちを乗せたまま。
溺れちゃう、と思わず身構えて、ぎゅっと目を閉じる。わたし、泳いだことなんてないのに。
けれどじきに、妙なことに気がついた。息ができる。おそるおそる目を開けて、驚きに声を上げた。
「うわあ……」
そこは不思議な場所だった。地面を埋め尽くすのは、大小様々な鏡の破片。とても広くて、壁も天井も見当たらない。ただの薄闇が広がっているだけだ。
不思議で、幻想的な場所。ちょっと怖いけど。
「ここは……いったいどこなんだ……」
『驚いたようだな、ヴィンセント。いやあ、ここに連れてきたかいがあった』
わたしたちを乗せたまま、ネージュさんはたいそう愉快そうに笑った。それから得意げに、説明を始める。
ここは『鏡の異空間』とでも呼ぶべき場所なのだそうだ。ネージュさんは鏡や水面などから、この空間に出入りすることができる。これが彼の、幻獣としての特殊な能力らしい。
『鏡から鏡へ、おれは移動できる。もっとも体が通り抜けるくらいの大きさは必要だから、意外に通れる場所は少ないのだがな』
その説明をヴィンセント様に伝えると、ヴィンセント様は驚きに小さく息を吐いた。わたしの髪に吐息がかかって、ちょっとくすぐったい。
「なるほど、そういうことだったのか……」
感心したような声で、ヴィンセント様がつぶやく。
「あの戦場で出会ったお前が、ある日突然遠く離れた俺の屋敷に姿を現した。どうやってここまで来たのか、どうやってここを知ったのか、ずっと不思議に思っていたんだ」
ネージュさんに語りかけるヴィンセント様の声はとても優しい。うらやましいな。
『さて、納得したところで、そろそろ目的地に向かうぞ。おまえたちの驚く顔が、今から楽しみだ』
そう言って、ネージュさんは近くにある大きな鏡に飛び込んだ。
目の前に、まばゆい光があふれる。頬をなでる優しい風、緑の匂い。
『どうだ、美しい場所だろう』
そこは、一面の花畑だった。背の低い小さな花が、びっしりと地面を埋め尽くすようにして咲き誇っている。
振り返ると、澄んだ水をたたえた小さな泉が見えた。おそらくわたしたちは、そこから出てきたらしい。
ネージュさんはわたしたちに背中から降りるよううながすと、にんまり笑ってとんでもないことを言った。
『人間の男女は、こういった美しい場所で仲睦まじく語り合うものなのだろう? ここでなら、おまえたちの話も弾むに違いない。我ながら名案だ』
「えっ、もしかしてそのためだけにわたしたちをここまで連れてきたんですか!?」
「エリカ、雪狼は何と?」
あわてふためくわたしに、ヴィンセント様が真剣な様子で尋ねてくる。
どう答えよう。そのまま言うのは、ちょっと恥ずかしいし……などと考えていたら、ネージュさんは一人で泉に飛び込んでしまった。『後で迎えにくる。仲良くするんだぞ!』という言葉だけを残して。
そうして後には、大いにあせるわたしと、首をかしげているヴィンセント様が残された。
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