第2章 ずっとそばにいたい

第16話 泣きたくなるくらいに幸せ

 そうして、わたしはヴィンセント様のすぐそばにいられるようになった。一緒にいる時間も増えていったし、会話も増えていった。


 といっても、ヴィンセント様が何かにつけて緊張しているのは相変わらずだった。単に元々口下手で、女性の扱いが得意でないだけだったみたい。


 だから自然と、わたしが話すことが多くなっていた。


 実家のこと、家族のこと、今までの生活のこと。そんなあれこれを思いつくまま話し、ヴィンセント様が小さく微笑みながらうなずく。それはとても幸せな、穏やかな時間だった。


 今日もわたしたちは、居間でのんびりしていた。いつもよりほんのちょっと話が弾んだのをきっかけに、ずっと温めていた考えを口にしてみる。


「ヴィンセント様、ひとつお願いがあるんですが……お料理を教えてもらえませんか?」


「君が、か? 特に必要ないと思うが」


「ずっと思ってたんです。ヴィンセント様みたいに、おいしい料理を作れるようになりたいなって」


 そう言ったら、ヴィンセント様は口を閉ざして考え込んでしまった。迷っているような顔だ。様子をうかがいつつ、もう一言付け加えてみる。


「それに、いつかヴィンセント様の好物を作ってあげられたらなあ、って……前にわたしの好きなものを作ってもらった時、とっても嬉しかったので」


 ヴィンセント様は青灰色の目を見張って、まじまじとわたしを見た。


 居心地の悪い沈黙の後、ヴィンセント様が大きく息を吐く。


「……分かった。君はか弱く見えて、意志はやけに強いな。俺の守りを無理やり突破してくるだけのことはある」


「あ、ありがとうございます?」


 気のせいかちょっぴりあきれているような声に、悩みつつも頭を下げる。でもそろそろと顔を上げたら、ヴィンセント様は小さく笑っていた。


 ああ、なんて優しい笑顔なんだろう。言葉も忘れて、つい見入ってしまう。初めて彼に会った時は、こんな笑顔を向けてもらえるなんて思いもしなかった。


 嬉しさで胸がいっぱいになる。あれ、目の前がぼやけてきた。


「ど、どうしたエリカ、なぜ泣くんだ」


 ヴィンセント様があせっている。どうやらわたしは、感激のあまり涙ぐんでしまったらしい。ハンカチを取り出して目元をぬぐい、ヴィンセント様に笑いかける。


「嬉しくって、つい。……ヴィンセント様の素敵な笑顔が見られたから」


 そう素直に答えると、ヴィンセント様は苦いものでも飲みこんだような顔をしてまた黙りこくってしまった。わたし、何か良くないことを言ってしまったのかな。


 どうしようとおろおろしていたら、ヴィンセント様がまた口を開いた。


「……そうか。本当に俺は、駄目だな。笑顔一つでこんなに喜ばれるほど、君を苦しめていた」


「えっ、駄目なんかじゃないです。事情があってのことだったんですから」


 考えるより先に、そんな言葉が飛び出していた。するとヴィンセント様は、思いもかけない反応を見せた。


 彼は一瞬あっけに取られたような表情をすると、くしゃりと笑ったのだ。まるで泣いているような、そんな笑顔だった。


 彼の笑顔に、自然と目が吸い寄せられる。耳がかっかと熱くなる。


 そのままわたしたちは、無言で見つめ合っていた。近くの鏡のほうから、小さな笑い声が聞こえた気がした。




 その数日後、お昼前。わたしたちは二人一緒に厨房にいた。ヴィンセント様はいつものエプロンを、わたしは真新しいエプロンを身に着けて。


 このエプロンは、なんとヴィンセント様のお手製だ。厨房に入るなら必要だろうと、彼があっという間に縫い上げてくれたのだ。


 メイドのエプロンみたいなフリルはついていない、とても質素なものだ。でも胸元に、小さな花の刺繍がされている。桃色の小花が房のようになった、愛らしい花だ。すっごく可愛い。


 わたしも裁縫はできる。でも、間違いなくヴィンセント様のほうが腕前は上だ。今度、お裁縫も習ってみたいな。


 この間編み物は教えてもらえたけれど、難しくてまだちゃんと覚えられていない。そっちをもう一度教えてもらうのが先かも。


 真新しいエプロンをまとって浮かれているわたしに、ヴィンセント様はびしりと言い渡した。


「料理では刃物や火を使う。不慣れなうちは、必ず俺の指示に従ってくれ」


「は、はい!」


「危ないと思ったら、自分の身を守ることを優先してくれ」


「はい……?」


「いざとなったら、俺を盾にするといい。俺のほうが頑丈だからな」


「……あのう、料理って、そんなに危ないんですか? なんだか、戦場に出るような気分です……」


「確かに、戦場かもしれないな。だが誰も死ぬことのない、そしてうまいものまで手に入る、素敵な戦場だ」


 その言い回しが面白くて、ついくすりと笑ってしまう。それにつられるようにして、ヴィンセント様も微笑んだ。


「それでは、料理を始める」


 おごそかな低い声で、ヴィンセント様がそう宣言した。




 神経を集中して、息を止めて。卵を作業台にこんこんと打ち付けて、そっと開く。ボウルの中に、まあるい黄色がつるりと転げ出た。


「はあ……ようやくちゃんと割れました。でも失敗してしまったのはどうしましょう……」


 隣のボウルには、割るのに失敗してつぶれてしまった卵が三つ。申し訳なさにしゅんとしていると、ヴィンセント様が小さく笑った。


「気にするな。割り損ねたものにも、使い道はある」


 そう言いながら、ヴィンセント様は慣れた手つきで野菜を薄切りにしている。ニンジンが紙のようだ。


「すごい……ヴィンセント様、どうやってそこまでうまくなったんですか? わたしも、そんな風に包丁を扱えるようになりたいです」


 思ったままそう答えると、ヴィンセント様は苦笑しながら答えた。その間も、彼の手は野菜を美しく切り続けている。


「単に俺は、必要に迫られて上達しただけだが……練習を続けていれば、君にもできるかもしれないな。さあ、まずはもう一つ卵を割ってみろ」


「はい!」


 意気込んで卵を手に取り、さらに別のボウルに割り入れる。


「やりました! 二つ続けてちゃんと割れました!」


 思わず飛び跳ねてしまって、子供っぽかったかなとあわてて動きを止める。おそるおそる、ヴィンセント様のほうを見た。


 彼は笑っていた。とても楽しげに、声を上げて。こんな無邪気な顔、できたんだ。


 ちょっとだけぽかんとして、それからつられるようにして笑う。そうやって笑っていられるのが、とても嬉しかった。




 やがて、今日のお昼ご飯ができあがった。わたしが生まれて初めて焼いたベーコンエッグ、ヴィンセント様が作ってくれたサラダとマッシュポテト、それにパンと果物。いつもの昼食より質素だけれど、とってもおいしそうだ。


 それらの皿がずらりと並んだ食卓をうっとりと眺めていると、隣の厨房からヴィンセント様が現れた。両手に皿を持って。


「……それと、これも」


 彼が手にしていたのは、小ぶりのオムレツだった。二つの皿に一個ずつ、ちょこんと乗っている。


「君が割り損ねた卵で作った。口に合うといいが」


 きれいにまとまったそのオムレツには、刻んだ玉ねぎとチーズらしきものが混ぜられている。とってもいい匂いだ。すごい、あの卵がこんな素敵なものになるなんて。


「うわあ、とってもおいしそうです……お腹、すいちゃいました」


「ああ、それでは食事にしようか」


 そうしてとてもなごやかな空気の中、二人っきりの食事が始まった。


「このサラダ、知らないハーブが入っていてとってもおいしいです。トウモロコシの入ったマッシュポテトも初めてです。ぷちぷちして面白い……」


「どちらも俺の故郷では普通に食べられていたものだが、気に入ってもらえてよかった」


 そう言ってヴィンセント様が、ベーコンエッグを一口食べる。どきどきしながら見守るわたしに向かって、彼はゆっくりとうなずいてくれた。


「ああ、こちらもよくできている。初めてだとは思えない」


「あ、ありがとうございます……」


 その一言がとても嬉しくて、泣きそうになってしまった。目元を押さえてうつむくと、ヴィンセント様のおろおろした声が聞こえてきた。


「頼む、泣かないでくれ。そ、それに食事が冷める」


「は、はい」


 頑張って涙を引っ込めて、今度はオムレツを食べてみた。ふわふわの卵、さくっとした玉ねぎ、コクのあるチーズ。


「これも、とってもおいしい……ヴィンセント様って、本当にすごいです」


 わたしの言葉に、ヴィンセント様は小さく咳払いして視線をそらした。照れくさそうな表情で。


「その、余りものや細切れの食材で料理をするのは得意だ。だから君がまた失敗しても、俺はそれをちゃんとした料理に作り変えてみせる。無駄にはしない」


 こちらを見ないまま、ヴィンセント様は続けた。


「だから、その……これからも、安心して料理に挑戦するといい。……君と厨房に立つのは、楽しかった」


 少し遅れて、言葉の意味が理解できた。ヴィンセント様も、わたしと一緒に料理することを楽しいと思ってくれていたのだ。


「はい!」


 だから明るくそう答えて、もう一口オムレツを食べた。なんだかさっきよりもさらに、おいしく思えた。

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