第17話 ええっと……幻獣……珍獣?

 ヴィンセント様に料理を習ってからというもの、わたしはヴィンセント様にべったりになってしまっていた。


 料理を教わったり、裁縫を教わったり。そんな理由をつけて、ほぼ一日中彼と過ごしていた。


 幸せだった。嫁いできた頃の戸惑いは、ほんわりとした温かさに置き換わっていた。


 そんなある日、ヴィンセント様がものすごく真剣な顔で言った。


「たまには、外で過ごさないか。前に雪狼に乗っていったあの花畑など、どうだろう」


 突然のことにぽかんとしているわたしに、ヴィンセント様はちょっと早口で続ける。


「……夫婦なら、連れ立って出かけるのは当然のことだと思う。ただ俺は、人の多いところはどうにも苦手でな」


「いいですね。前の時は緊張してしまって、あまり風景を楽しむことができませんでしたから」


 ヴィンセント様が、遊びに誘ってくれた。それが嬉しくて、にっこり笑って答える。


「それにわたしも、静かなところのほうがいいです。そのほうが、ヴィンセント様とのお喋りを楽しめますから」


「そう言ってもらえると助かる。では、前と同じように雪狼に運んでもらおうか。……断られないといいが」


「きっと大丈夫です。ネージュさんたち、わたしたちの関係を心配していましたから」


 そうして二人で屋敷の裏手の森に向かい、ネージュさんとスリジエさんのもとを訪れた。


『なんだ、久しぶりだな? まったくおまえたちときたら、仲良くなったとたんにおれたちのことを放ったらかして』


『二人だけでよろしくやっておるようじゃのう。それはよいとして、わらわたちがどれほどお主らに心を砕いてやったのか、もう忘れてしもうたのかの』


「……エリカ、彼らは何と?」


「ええっと……すねてます。わたしたちが顔を見せなくなったから」


『おい、誰がすねているって?』


『子供扱いするでないわ』


 しかし二人がそれ以上騒ぐことはなかった。ヴィンセント様が機敏な身のこなしで二人に近づき、それぞれの首の辺りを軽くかきはじめたのだ。


「放っておいてすまなかった。これからはまた、ここに顔を出すと約束しよう」


『くそ、こいつなでるのがうまいんだ……ああ、そこ、そこがかゆい……』


『確かにのう。そこへもってきて、このかぐわしい香り。まったく、たちうちできぬわ』


 うっとりしながらヴィンセント様になでられている二人の姿は、実家で飼われていた犬や猫そっくりだった。


 でもそんなことを口にしたら、二人とも間違いなくへそを曲げてしまう。なので黙って、三人を眺めていた。平和だなあ。そんなことを思いながら。




 そうして、ネージュさんたちにまた花畑に連れてきてもらった。久しぶりに訪れたそこは、少し姿が変わっていた。


 あちこちに背の高い草むらができているし、咲いている花も春先のものより大きくて色鮮やかだ。夏が近づいている、そんな雰囲気だった。


 わたしとヴィンセント様はそこの一角、背の低い草が生えている辺りに腰を下ろし、のんびりと話していた。


 ちなみにネージュさんとスリジエさんは、意味ありげな含み笑いを残してさっさと散歩に出てしまった。


 屋敷でお喋りするのも楽しいけれど、こうやって心地良い風を感じながら話すのもとても楽しい。というか、ヴィンセント様と一緒ならどこだって楽しいのかも。


 やがて話が途切れ、ゆったりとした沈黙が訪れる。ヴィンセント様は空を見つめ、静かにつぶやいた。


「……思えば、俺に家族ができたのは久しぶりだな」


 小首をかしげて、じっと言葉の続きを待つ。ヴィンセント様が、わたしのことを家族だと言ってくれた、そんな喜びにひたりながら。


「前にも話したと思うが、俺は父親の顔を知らない。そして母とは、十三の年に死に別れた。俺が今二十七だから……ああ、一人で生きてきた時間のほうが長いのか」


 その言葉に、息をのんだ。十四年。そんなにも長い時間を、ヴィンセント様は一人で生きてきたなんて。


 そろそろとヴィンセント様に近づいて、彼の大きな手を取る。その皮の硬さに、彼が過ごしてきた過酷な年月が表れているような気がした。


「これからは、ずっと一緒です。一人ではありませんから」


「……そうか」


 それきりわたしたちは、ただ黙っていていた。そよ風が草原を渡る音、どこかで小鳥が鳴いている声、そんなものを聞きながら。


 とても安らぐ、けれど同時に妙に落ち着かない時間だった。嫌な感じではない。ただ胸の辺りがくすぐったいような、そんな気分なのだ。


 そろそろ何か、別の話題を探したほうがいいのかなあ。そう思ったまさにその時、すぐ近くで素敵なものを見つけた。


 わたしたちのすぐそばに、クローバーの一群れが広がっていた。その中に一本だけ、四つ葉があったのだ。


「あ、四つ葉のクローバーですよ、ヴィンセント様」


「本当だな。幸運を運ぶのだったか。……摘んで帰ったらどうだ」


「はい、そうします」


 笑顔でそんなことを話し合って、四つ葉のクローバーに手を伸ばしたその時。


 いきなり、よく分からない毛の塊がぬっと突き出てきた。それも、クローバーの茂みの中から。地面から生えてきた? まさか。


 あっけに取られているわたしたちの前で、その何かは四つ葉のクローバーをくわえ、ぷちりとむしり取る。


「なんだ、これは……黄緑色の、ネズミ……にしては大きすぎるな。馬……にしてはあまりにも小さいし」


 のんびりと四つ葉を食べているその生き物は、何とも言えない不思議な姿をしていた。


 大きさは犬くらい、体つきはずんぐりとしている。顔は長く飛び出していて、お尻は丸い。細い手足の先には、水かきのついた指がついている。そしてその毛皮は、春の若葉の黄緑色。


「……ああ、思い出した。カピバラだ。海の向こうにいるという珍獣。一度、絵を見たことがある。……いや待て、あれはこんな色をしていなかったな?」


 混乱し切ったわたしの耳に、ヴィンセント様の声が飛び込んでくる。というか、ヴィンセント様も訳が分かっていないみたい。カピバラって、初めて聞いた。


 と、その何かがわたしの手に目を留めた。四つ葉のクローバーを摘もうと手を伸ばして、そのままになっていたのだ。


『あれ、もしかしてこれ、欲しかった? ごめんね。トレ、気づかなかった』


「トレ?」


 子供のような、澄んだ高い声。とてもゆったりとして穏やかな、極端にのんびりした話し方。見た目同様、つかみどころのない声だった。


『うん。いい匂いがして、こっちにきた。そうしたら、おいしいのを見つけた。だから、出てきたの』


「そうなの……」


 呆然としていると、ヴィンセント様がわたしに声をかけてきた。


「どうしたエリカ、もしかしてそれが何か喋っているのか? 俺には奇怪な鳴き声しか聞こえないが。ネズミのような、鳥のような……」


 その言葉に、ようやく落ち着きを取り戻す。わたしには言葉が分かるけれど、ヴィンセント様には分からない。だったらきっとトレは、カピバラではなく幻獣だ。それなら、突然地面の中から現れたことにも納得がいく。


「はい。クローバーを食べるために出てきたとか、そんなことを言っています」


 ヴィンセント様にそう説明して、トレと名乗った生き物に向き直る。


「ええっと……トレさん、でいいの? わたしはエリカよ。こっちの人はヴィンセント様」


『トレの名前はトレーフル。でもトレって呼んで。さん、いらない。それより、アナタにおわびする。クローバーのおわび』


 そう言うと、トレはとことこと歩き出した。その小さな足が踏みしめた地面から、何かの芽が生えてきた。それはあっという間に大きく伸びて、可愛らしい花を咲かせる。


 今までに見たこともないその花は、桃色と白のレースでできたような花だった。あまりの美しさに声を上げると、トレは鼻をひこひこさせながら得意げにあごをそらしていた。


『特別な花、あげる。どうぞ』


「あ、ありがとう……綺麗ね」


「……そうか、その不思議な力……やはり幻獣か。しかし、何とも変わった姿だ。言うならば、草鼠……だろうか」


 首をかしげているヴィンセント様に、トレがとことこと近づいていく。今度は、花は生えなかった。


『トレ、ネズミじゃない。このヒト失礼。でも、いい匂いする。トレが追いかけてきたの、この匂い。トレ、ヴィンセントの匂い好き』


「うむ? 気のせいだろうか、草鼠になつかれたような気がするのは」


 トレにすりよられて戸惑うヴィンセント様と、わたしのすぐそばで揺れている素敵な花。


「……のどかですねえ……」


 自然と、そんなつぶやきがもれていた。

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