第29話 会いたかった、ずっと!
地面に鼻をつけていたネージュさんが、不意に動きを止めた。
『ん? これは……』
それから顔を上げ、遠くに目をやる。彼の視線の先には、森に囲まれた岩山があった。
『あちらのほうから、新しい匂いが流れてくる。行くぞ』
そう言うと、ネージュさんはわたしを見てあごをしゃくった。
急いでスリジエさんにまたがると、ネージュさんは岩山に向かって走り出した。そのすぐ後を、スリジエさんがぴったりとついていく。トレは足元の草むらの中に、沈み込むようにして姿を消していた。
二人とも、全速力で走っているようだった。わたしは二人の足手まといにならないように、しっかりとくらをつかんで、スリジエさんの背中にしがみつく。伏せたわたしの頭のすぐ上を、木の枝らしきものが何度もかすめていった。
どれだけそうしていただろう。いきなり、ネージュさんの声が響いた。
『いたぞ!』
弾かれたように顔を上げると、大きな岩の陰に身をひそめているヴィンセント様の姿が目に飛び込んできた。片足を放り出すように伸ばして、地面に座り込んでいる。
今までずっとこらえていた涙が、一気にあふれ出す。足を止めたスリジエさんの背中から滑り落ちるようにして飛び降り、ヴィンセント様に駆け寄った。
スリジエさんから離れたことで、見えずの霧からも出てしまったのだろう。ヴィンセント様が目を丸くして、わたしを見た。ずっと見たいと願っていた、愛おしい顔。
「……エリカ……?」
呆然とするヴィンセント様の前でひざをつき、正面から彼の顔を見る。
「ご無事で、よかった……わたし、ずっと心配で」
言葉にできたのは、そこまでだった。後はもう、ただの泣き声になってしまっていた。
ここは戦場で、敵の兵士がきっとどこかにいる。だから、大きな声を上げてはいけない。必死に口元を押さえ、声を殺す。早く、早く泣き止まなくちゃ。そう思いながらも、もう涙が止まらなかった。
そうやって震えていたら、優しい温かさに突然包まれた。ああ、これはヴィンセント様の腕だ。どうやら彼は、泣き止まないわたしを抱きしめてくれているらしい。
ここは戦場だ。それは分かっている。でも今だけ、ほんの少しだけ、この懐かしい温かさにひたっていたいと、そう思った。
『で、おまえはどうしてこんなところにいるんだ? 戦場にしては、敵も味方もいないじゃないか』
どうにかこうにかわたしが泣き止んだ後、ネージュさんがほんの少しいらだった声でそう言った。スリジエさんの見えずの霧に改めて全員で入っているので、小声で話すくらいならたぶん大丈夫だろう。
「……奇襲を受けたんだ。俺たちが草原の中ほどに進軍してしばらく経った頃、いきなり地面がはじけ飛んだ」
「あの、地面がぐちゃぐちゃになっていたところですね……」
「おそらくそれは、総大将である俺を狙ったものだったのだろう。俺は爆発に巻き込まれて、吹っ飛ばされた」
『ようそれで生きておったのう。落ちた場所がよかったのかえ?』
「そうかもしれない。爆発の衝撃で気を失って、気がつけば近くの森の中にいた」
厳しい顔でため息をつきながら、ヴィンセント様が答える。その間も、彼は片足を投げ出したまま座っていた。
「あの、もしかして、足を……?」
「ああ。骨は折れていないが、ひどく痛めてしまった。俺が目覚めた時には人の気配がなくなっていたから、ひとまず身を隠せるところに移動したんだ」
『それが、ここだったということか。確かに、これだけ爆発地点から離れていれば、すぐに見つかることもないだろうな。人間はおれのように鼻がきかないからな』
得意げに言うネージュさんに、ヴィンセント様が小さく微笑む。それから視線を落として、ふうと息を吐いた。
「できることなら、早く味方と合流したかったのだが……この辺りにも、敵の偵察兵がうろうろしていてな。この足では、見つかるとまずい。そのせいで、中々移動できなかった」
『ただいま。ヒトがいっぱいけんかしてるところ、見つけたよ。ここからもっと北。ずっと北』
ちょうどその時、周囲の様子を探りにいっていたトレが帰ってきた。明らかに不機嫌な顔をしている。
そして彼の報告を聞いて、ヴィンセント様の表情も険しくなった。
「北、か……やはり、押されているな。ブラッドはどうしているのか……」
「あ、あの、これ、どうぞ」
大急ぎで、ブラッドさんからの手紙を差し出す。ヴィンセント様はそれに目を通すと、ぎゅっと口を引き結んだ。
「こうしてはいられない。すぐにみなと合流しなければ」
そうして岩壁に手をついて、立ち上がろうとする。
「駄目です、まずはその足を手当てしないと」
『手当てが終わったら、わらわが乗せて運んでやる。じゃから少々落ち着け』
『人間の匂いが近づいてきてるな……急いだほうがいいぞ。敵かもしれないからな』
ネージュさんのその言葉に、緊張が走る。見えずの霧で隠れているとはいえ、気配や物音は隠せない。それに霧の中に入ってこられたら、もう隠れられない。
持ってきていた荷物を開けて、中から傷薬と包帯を取り出す。ヴィンセント様の足は、足首を中心にひどく腫れ上がっていた。うう、痛そう。折れてないといいんだけど……。
『これ、あげる。薬』
腫れたところに傷薬をせっせと塗っていると、トレが打ち身に効くという薬草を生やしてくれた。よくもんで、さらに上から貼りつける。仕上げに、包帯をしっかりと巻いた。
「……ありがとう、みんな。一人でないというのは、いいものだな」
わたしの肩を借りて、ヴィンセント様がゆっくりと立ち上がる。その顔には、さっきまでとは違う穏やかな笑みが浮かんでいた。
「もっとも、君がここまで飛び出してきたことについては、言いたいこともあるが。それについては、戦を終えてからだ」
「はい。ですから、無事に屋敷に戻りましょう。みんなで」
自然と、わたしも笑顔になっていた。
二人一緒にスリジエさんの背にまたがると、小さくなったネージュさんが、わたしのすぐ前に飛び乗ってきた。トレは小さな足で草地を踏みしめて、胸を張って立っていた。
『それでは、みなで行こうかの。この馬鹿馬鹿しい戦とやらをさっさと終わらせて、のどかな日々に戻るために』
そうして、スリジエさんはふわりと舞い上がった。
わたしたちを乗せて、スリジエさんは心持ちゆっくりと飛んでいく。姿は見えないけれど、トレも異空間からわたしたちを追いかけているはずだ。
けれどしばらくして、ヴィンセント様が声を上げた。
「止まってくれ、スリジエ! ……そこの林に、近づいてくれないか。あの大きな木が生えている辺りだ」
その言葉に、スリジエさんがふわりと止まった。ヴィンセント様が言ったほうに目をやると、遠くの木々の隙間に人影らしきものが見えた。十人以上はいるだろうか。
『ふむ……追われておるのかの? 追っ手のほうが、ずっと多いようじゃが』
「逃げているのは味方だ。助けたいのだが……手を貸してくれないか」
『それは構わんが……あれだけの人数、さすがにわらわの見えずの霧でも隠し切れんぞ?』
「ならば、俺をここで降ろしてくれ。彼らと合流し、共にブラッドのところに向かう」
「だ、駄目です! その足では!」
軍の総大将としての責任感、あるいは仲間への責任感からなのか、ヴィンセント様がとんでもないことを言い出した。味方を守りたいのは分かるけれど、今の彼では危険だ。
「俺は行かなくてはならない。俺の配下が危機にさらされている。ならば彼らを守るのが、俺の役目だ」
ヴィンセント様の声には、少しのためらいもなかった。と、スリジエさんがすうっと下がっていく。林のほうに向かって。
『うむ、その心意気や良し。ならば、わらわが特別に手を貸してやろうかの』
『だったら、おれも本気を出すか。威圧するもよし、軽くひっぱたいてやってもよし。そうすれば追っ手など、簡単に追い返せるな』
そんなことを話している間にも、追っ手の声がどんどん近づいてくる。それを聞いて、ネージュさんがふふんと笑った。とっても楽しそうな、そんな声で。
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