第5話 夫の密かな苦悩
ヴィンセントは自室に戻り、椅子にどっかりと腰を下ろした。顔を両手で覆って、深々とため息をつく。
彼は困り果てていた。今自分が置かれている状況、その全てに困惑していた。
「どうして、こうなったのか……」
辺境の村に生まれ、幼い頃から剣を得意としていた彼は、十三歳の時に志願兵となり村を出た。天涯孤独の彼を引き留める者はいなかった。
この国は資源に恵まれている。そんなこともあって、常に周囲の国々から狙われていた。国境での小競り合いから本格的な侵略まで、この国は長きに渡って戦いに巻き込まれていたのだ。
だから、兵士はいつも必要とされていた。年齢を理由に入隊を拒まれるようなことはなかった。
彼はあっという間に武功を上げて、騎士となった。彼がまだ十五歳の時だった。前例のない、異様な速さでの出世だった。
それでも彼は、戦い続けた。大切な祖国を守るために。勇猛な彼の戦いぶりに、他の兵士たちは大いに奮い立った。決してひるむことなく勇敢に戦い続ける彼は、いつしか『剣狼』と呼ばれるようになっていた。
そして彼が二十歳を過ぎた頃、彼に男爵位を与えるという話が出た。
既に剣狼の名は軍に広く知れ渡り、彼は英雄のように崇められていた。そんな彼に地位を与えることで、軍全体の士気は確実に上がる。
飛び抜けた武功を上げることができれば、貴族となることも夢ではない。そう、兵士たちに示すことになるからだ。
ヴィンセントは難色を示していたものの、結局周囲に押し切られた。そうして貴族となった彼は、この屋敷に移り住んだ。人里離れた緑豊かなこの屋敷を、彼は気に入っていた。
しかしそれでも、彼そのものは変わらなかった。周囲の国が攻めてくるたびに、兵を率いて出陣し、国を守る。貴族らしい暮らしとは、まるで無縁のまま。
ところが、そんな彼の暮らしはまた大きく変わってしまった。こともあろうに王や上位の貴族たちが、よってたかって彼に新たな地位と妻を押しつけようとしたのだ。
新たな地位については、まだ無視することもできた。男爵だろうが伯爵だろうが、彼のなすべきことに変わりはないのだから。しかし、妻のほうはそうもいかない。
自分には、戦うことしかできない。妻などもらっても、幸せにすることはできない。自分は傷を負って戻ってくることもある。もしかしたら、戦場から戻らないかもしれない。
そうなった時に、残された妻はどれほど嘆き悲しむだろう。そのさまを想像しただけで、彼は辛くてたまらなかったのだ。
だから彼は、妻を迎えることを全力で拒み続けていた。しかし最後には、王直々に説得されてしまったのだ。こうなると、もう拒否することもできない。
そうして、あのすみれ色の目の乙女、エリカがやってきた。人懐っこい子犬を思わせる彼女にほだされそうになりつつも、ヴィンセントは心を鬼にして突き放した。
いずれ彼女とは別れるのだから、情が移ってしまってはいけないと、そう自分に言い聞かせて。
折を見て、彼女の不利益にならないような理由を用意し、平穏に離縁する。彼は、そう決意していた。それなのに。
「まさか、あんな話を聞かれてしまうとは……」
力なくつぶやいて、ヴィンセントは両手で頭を抱える。まっすぐな黒い髪が、がっしりした手の下で乱れていた。
「しかも、あそこまで食い下がってくるとは……」
彼の袖をつかんでいた手の小ささ、後ろから聞こえてくる凛とした声を、彼は思い出していた。
それまで彼は、彼女にずっと冷たく当たってきた。それなのに、彼女は、妻として彼を支えたいと言い切った。その言葉には、ひとかけらの迷いもうかがわれなかった。
「……しかし、約束してしまったからには、少しくらい話をしなくてはならない、か」
そうして、もう一度彼はため息をつく。純粋な困惑だけをたたえた、そんな表情で。
ちょうどその時、執事が彼を呼びに来た。晩餐の準備が整ったのだ。
ヴィンセントは機敏な動きで立ち上がると、小さく身震いした。これから、エリカと顔を合わせる。
どんな戦場に出た時よりも緊張した様子で、彼は自室を出ていった。
そうして、ヴィンセントは晩餐の席に着く。エリカと二人、向かい合って。食器が立てるかちゃかちゃという小さな音だけが、広い食堂に響いていた。
エリカは気づいていないようだったが、ヴィンセントはずっと迷っていた。今こそ、彼女との約束を果たす好機なのではないか。しかし、何を話していいか分からない。
子供の頃から戦いに明け暮れていたヴィンセントは、女性に、それも育ちのいい貴族の女性相手の話題など、何一つとして持ち合わせていなかったのだ。
悩みに悩んで、彼はおそるおそる口を開く。
「……その、エリカ」
「はいっ!!」
名を呼んだだけだというのに、エリカは元気よく返事をして背筋を伸ばした。その頬が、ほんのりと赤い。可愛らしいな、とヴィンセントはそんなことを思う。
「……君は、雪狼とは親しいのだろうか」
雪狼ことネージュは、今のところ二人の間の、たった一つの共通した話題だ。
「はい、たぶん親しいと思います。前に、森の中を歩いていたら偶然出会ったんです。それから時々、あの森で会っていました」
「そうだったのか。しかし、なぜあいつの毛の中にもぐりこんでいたんだ?」
「それは……えっと、嫌がられなかったので、つい」
エリカの言葉は真実ではなかったけれど、ヴィンセントはそのことを見抜けなかった。彼はかすかに、おかしそうな笑みを浮かべた。エリカが目を丸くして彼に見とれる。
「なるほど。あいつの毛並みは素晴らしいからな、気持ちは分かる」
「はい、ふかふかでした! ……そうやってもぐっていたらヴィンセント様が来てしまって、出るに出られなくなってしまったんです」
「頼むから、次はすぐに出てきてくれ。おかげで、恥ずかしいものを聞かれてしまった」
「恥ずかしくなんてないです。ヴィンセント様、ネージュさ……あの子と仲がいいんだなって思いました。悩みを相談できる人がいるのはいいことだなって」
「そ、そうか。……気を遣わせたな」
その時、ヴィンセントは気づいた。話が、普通に続いている。貴族として生まれ育ったか弱い女性と、平民上がりで武骨な自分が。
それは彼にとって、とても新鮮な、心地良い感覚だった。もっと彼女と話したい、そんな衝動を覚え、彼はふと身をこわばらせる。
駄目だ。彼女とはいずれ、離縁するのだ。たまたま共通の話題があっただけで、彼女とは本来生きる世界が違う。彼女を、これ以上自分に近づけてはならない。
ありったけの自制心を総動員して、彼は口を閉ざす。折を見て話す、その約束は果たした。そう自分に言い聞かせながら。
また静かになってしまった食卓で、彼はほんの少しだけ、残念だと思っていた。
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