第22話 勇気とお誘い
「おはよっ!胡春!」
いつもの挨拶。
朝起きたときは少しだけ憂鬱だったけど、胡春の顔を見たらそんなものはすぐに飛んでいく。
夏休み明け最初の登校日。
気が重いのはきっと私だけじゃないはずだ。
8月も終わりだと言うのに、暑さは全く引いていない。額に流れる汗を拭いながら、手でパタパタと仰ぐ。
夏はまだ過ぎていかないらしい。
「おはよ…」
今日はいつもと違うことがひとつだけ。
それは私が胡春を迎えに来ていることだ。
朝、起きるのが遅い私はほぼ毎日玄関で胡春を待たせている。
でも今日は私が胡春を迎えに来た。
別にそれ自体に大したことはない。ただ朝起きられただけ。
それは新学期だから心のどこかでは張り切っていたのかもしれないし、偶然かもしれない。
だとしても私が胡春を迎えに行けるのは少しだけ気分がいい。
「今日は早いのね。亜希」
「でしょー!」
「えらいわ!」
「うんうん。もっと褒めてー!」
「甘えん坊さんね…」
調子に乗った私は胡春に頭を差し出す。
すると察してくれたのか頭を撫でてくれる。
ぽんっと、あくまでもそっと優しく、大切なものに触れるかのように、私の頭を撫でてくれる。
胡春はいつもそうしてくれるけど、その実感が私にとっては何よりも嬉しいのだ。
「じゃ、そろそろ行こっか。胡春!」
「そうね」
胡春は一瞬不服そうな表情をしたけど、さすがに新学期初日から遅刻は避けたい。恥ずかしいし、二人して遅れるのはどう考えても変だ。そもそも私たちは真面目なのだ。
私は胡春の隣に並んで一緒に歩き始める。
そのいつもの距離感も、夏休み前と比べたらどこか違う気がする。それは私の胡春への気持ちに気がついたからかもしれないし、ただ久しぶりで懐かしさを覚えただけかもしれない。
「あの…亜希…。その…」
「どうしたの?」
歩き始めてしばらくしたあと、胡春は不意にそう言った。
「来週から林間学校よね」
「うん。そうだね!」
うちの学校の林間学校は夏休み明けすぐだ。
自然豊かな場所でキャンプファイヤーをしたり、アウトドアアクティビティをしたり、クラスメイトとの仲を深めようというやつだ。
「その…亜希は準備とか、進んでる?」
「うーん。まぁまぁかな…。でも大部分は夏休み中に準備しちゃったから、ある程度は終わってるかな…。胡春は?」
「私もそれなりに…」
「そっか」
…。
どこか気まずい空気が流れる。
最近はそう、なんて話せばいいのかわからなくなるのだ。
いつも通りにすればいいのだろうけど、それすら何だったかわからなくなる。
これは胡春を恋愛対象として好きになったときからずっとだ。
表面的なものを気にして、いつも通り振る舞えないというか、どう接していいのかわからなくなるのだ。
このままではいけないのは分かっている。
「亜希、最近なんか変だよ」
ギクッ!
「そっそんなこと…ないよ」
なんて考えていた矢先、胡春はそれに感づいたようで。
胡春は私の機微によく気がついてくれる。それは嬉しいけど、今回はせめて気が付かんないフリをしていてほしかった。
「私も悪いことをしたっていうか…その…申し訳なかったと思っているわ。けど…ギクシャクしたままはいやだというか、その…」
心の距離は確かにある。
それはなんというか夏休みの中盤から。
胡春に嫌われたくないという感情が全てを上回って、前のように接することができない。
いつも通りが分からなくて、黙り込んでしまう時間が増えた。
でも本当は胡春とたくさん話したいし、前のようにキスをするのだって今なら絶対に嬉しい。
「ごめん…。なんていうか、胡春のこと変に意識しちゃって…」
「えっ!?」
胡春はいつもより二回りほど高い声を零す。その頬は微かに赤く染まっているようにも、見える。
「亜希…それってどういう…?」
「あっ、いや…」
ちがう、と言いかけて止める。違うわけではない。
でも意識をしているなんて、まるで告白みたいだ。
本心であるのは間違いないのだけど、それを伝えてしまうのはおかしい。
私たちは幼馴染という関係でそれ以上でも以下でもないのだ。もしそれ以上を望んでも叶うことはないし、幼馴染という関係すらも壊れてしまう。
そんなことは絶対に望んでいない。
「なんというか、言葉の綾だから!」
私は語尾を強く、念押しをするように言う。
幼馴染という固定された関係のまま、というのは少しだけ淋しい。
そばにいるということが叶っているのだから、もっと上を望んでみたいと考えてしまう。
「そう…」
胡春は少しだけ残念そうに呟いた。
そういう反応をされると私に気があるのかと勘違いをしてしまいそうになる。
幼馴染の延長線上に恋人という関係はない。
そもそもベクトルが違うのだ。
幼馴染は、人間関係において最上の関係性を表すものなのだ。恋人とも家族とも違う。
並々ならぬ時間と苦楽を共にした証、それが幼馴染だ。
私たちの足音は静かで、この夏の暑さに負けてしまっているよう。
特に話すこともなく、言葉よりも溢れる汗のほうが多い。
もうすぐ秋が来る。それは夏の終わりを表す単純なものじゃない。
夏の未練も思い出も、暑さとともに過去のことになったという証。
きっと春から夏にかけてしていた私たちのキスも、思い出に消化されて、あったのかなかったのかという実感も薄れていく。
そんなことを考えると、ちょっとだけ胸が苦しくなる。
もともとキスなんてしたことがなかった、ただの幼馴染。
だからちょっとくらい羽目を外したくらいが心地が良かったのかもしれない。
「ねぇ、胡春はさ…」
私を放ってどっかに行ったりしない?
なんて聞こうするも、喉で止まってしまう。
あの時拒んだのは私。あまりにも身勝手すぎるなと思う。
「ん?」
「うんん。やっぱりなんでもないよ」
私は頭にハテナマークを浮かべる胡春を静かに、退けた。
*
ガヤガヤ。
2学期の初めに行われる集会から解き放たれた生徒たちは、なんと言うか騒がしかった。
それもそのはず。
長い長い集会から開放されたあと、いまやっているのは林間学校の班決めなのだから。
いよいよ1週間後に迫った林間学校を心待ちにしている人がほとんどだし、私もそのうちの一人だ。
キャンプファイヤーに登山などなど、3日間にたくさんの予定が計画されている。
高校生活でたった一回の林間学校だからこそ胡春と一緒に思い出を作れたらなと考えてしまう。
「あっ、いたいた」
「あっ、胡春!」
そんな私のもとにやってきたのは胡春と愛結だ。
「亜希ちゃーん!私もだよー!」
「愛結ー!」
どうせこのメンバーだろうなと想像はついていたけど、改めてこの3人で集まれて嬉しいなと思う。
私と胡春はもちろん、愛結だって私の大切な友達だ。
林間学校くらいは一緒に過ごしたい。
「みんな一緒だね!」
「そうね」
「うん!」
そうやって私が笑いかけると胡春も愛結もそれに答えてくれる。
「ところで、亜希ちゃん!キャンプファイアーのお相手は?」
「へっ!?」
キャンプファイヤーは林間学校で例年行われるらしい、メインイベントだ。
噂によると、その時に一緒に過ごして踊った相手とは生涯結ばれるとか。
どうせそんなの誰かの作り話。ありふれた縁結びの伝説だ。
そんな話を信じるほど私は夢見がちな少女ではないけれど、まぁ胡春が私と踊りたいって言うなら乗ってあげないこともない。
「まーさーかー。亜希ちゃん相手いるの!?」
「いや…そうじゃなくて…」
「また、そうやって抜け駆けして!」
悲しいよぉと涙を流すフリをする愛結。
なんというか申し訳ない気持ちになった。
そもそも誰ともそんな予定はないんですけどね!?
「もう!そんなこと言うなら私は胡春ちゃんと踊るから!」
「えっ!?」
なんで愛結が…?
そして愛結は胡春の腕をガシッと掴んだ。
突拍子もない話に驚いて、一瞬思考が停止する。
「ねー。胡春ちゃん!」
胡春と目を合わせて、にこーっと微笑みかける愛結。
断るよねという目で胡春を凝視する私。
そもそも胡春が私以外の人と踊るなんて、考えられない。
「そうね。亜希が誘ってくれないのなら、愛結と踊ろうかしら…」
「ひどい…」
そもそも私たちは幼馴染なんだから、生涯結ばれるという踊りを一緒に踊るのは筋違いだ。
でも私はそれを理解した上で胡春を誘おうと…
胡春と愛結の仲が良いのはいいことなはずなのに、なんというか嫌だなと思う。
それは仲間外れにされているからか、それとも嫉妬か。
心がズキズキと痛み、やるせなさに包まれる。
「ごめんって。そんな顔しなくても…」
「そりゃあするでしょ!私だけ…」
「じっ、冗談だからさ!ね、亜希ちゃん!」
私のただならぬ雰囲気を察したのか愛結は必死にフォローしてくる。
その様子は新鮮で可愛いなと思う。
他のグループもあっさりとグループが決まったようで、席に着いている人も多い。気を取り直した私も、その流れに乗っかって席に着いた。
*
林間学校のグループ決めが終わるとすぐに下校になった。
今日は新学期初日だからそこまでハードスケジュールではなく、簡素なものなのだ。
「久しぶりの学校、疲れたね…」
夏休みは少し出かけたくらいで、あとは胡春と過ごしていただけなので、一月ぶりの学校は堪えた。
胡春と二人っきりになると、なんというか落ち着いて、さっきまでの疲れがどっと襲ってくる。
「そうね…。ほとんど亜希としか話してなかったから…」
「そうだね!私も胡春ばっかだ…。もちろん私としては嬉しいけどね!」
夏休み、色々な事があったけど、私たちは幼馴染なのだ。
それは何があっても変わらないし、変わらないでいたい。
胡春の大切は私であってほしいし、私の大切なものは変わらず胡春なのだ。
本当に胡春のことが好きなんだな。私。
その実感はちょっとだけ恥ずかしいけど、誇らしい。恋をすると景色が変わる、言い得て妙だなと思う。
朝の暑さはお昼時になって、更に増す。
流れていく汗の量はいかにも夏らしい。
こんな夏も悪くはないのかもしれない。
好きな人と二人で、充分すぎるほどの時間を過ごせたのだ。
私としてはいくらでも物足りないけど、それでも長い時間を胡春と過ごしたと思う。
海に行って、お買い物に行って、それ以外にもたくさんの思い出を作れた。
きっとこれは何にも代えがたい、私の宝物。
「あの…亜希…。」
「どうしたの?」
一瞬胡春がゴクリと息を飲んだ。
そして一呼吸置いて言った。
「ねぇ、亜希。冬休みも一緒にいようね!」
「もちろん!」
もともと言わなくても分かっているであろうこと。
でも胡春がそう言ってくれるのはこの上ない幸せだなと思う。
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