第16話 着替えとキスマーク

「私を…好きにしていいよ…」


 誰もいない更衣室の隅。ちょうど掃除用具入れが影になって、もし人が入ってきてもバレないような、そんな場所で。


 私と胡春は…。


 *


「海だー!!」


 真っ赤な太陽が照りつける海水浴場。私は広大な海に向かて叫んだ。

 私たちの家から、電車で1時間弱かけてここまで来たのだ。全力で楽しまなくちゃ。


「じゃあ、先に着替えないとね」


 胡春も乗り気だ。

 今日は泳いで、遊んで、色々と忙しいのだ。

 私も胡春も、今日は海に行くということで、Tシャツと短パンで来た。そっちのほうが雰囲気も出るからね。


 荷物を持ってそのまま、更衣室へ向かう。


 更衣室はだいぶ空いていた。というか誰もいなかった。まだ夏休みも始まったばかりだし、朝も早いからだろうか。


「空いてて良かったわね」

「うん。そうだね」


 私たちは、荷物を置いて、着替え始める。


「ちょっと、恥ずかしいんだけど…」


 胡春は普通に服を脱ぎ始めるけど、私は無理だ。なんというか、ありもしない視線を感じてしまうのだ。


「なに。見てて欲しいなら、見ててあげるけど…?」

「結構です!」


 私は更衣室の隅、ちょうど掃除用具入れがあるところに、隠れて着替え始める。


 今日は久しぶりの海ということもあって胡春のテンションも上がってる。だから、着替えを見るなんて変なことをいいだしたのだ。


 まぁ、別に、どうしてもって言うなら嫌ではないけど…。


 きっとそれも胡春がそんなことを言わないとわかってるから、言えることなんだけどね。


 私はテキパキと着替え終える。一度家で着てみた、水着もここでもう1回大丈夫か確認する。


「亜希ー。着替え終わった?」

「うん」


 どうやら着替え終わったらしい、胡春が私のいる更衣室の隅に来る。


「なに…。こはる…」


 胡春は両側の壁に手をついて、角にいた私を囲う。隅にいたこともあって抜け出せない。


「ちょっと、だけ…」


 顎の下を胡春がつかんで、上を向ける。そして、胡春の顔が徐々に近づく。


「えっ、いきなり…。あっ」


 唇が重なる。


 相変わらずぷるんとした質感の胡春の唇。そして水着だから、いつもより鮮明に見える身体。

 白いフリルのついた水着に覆われた胡春の胸。

 まるで胡春の全てをもって、攻めてくるようだ。


 為す術なくやられてしまった。


 今日の胡春は破壊力が強くて、抵抗しようとしても私自身がそれを受け付けなかった。


「んぐ」


 声が漏れてしまう。


 なんてことを…。いくら私たちだけと言え、更衣室はもちろん共用のもの。いつ誰が入ってくるのかわからないのだ。


 胡春はゆっくりと唇を離す。


「ちょっと、人が来るかもしれないのに…」

「いいじゃない。ここは端だから誰にも見られないわ」

「そうかもだけど…。恥ずかしいっていうか」


 見られたらと考えるだけで、ドキドキする。それは胡春と水着の状態でキスをしているからなのかもしれないけど、いつもの倍じゃ済まない。


「恥ずかしがり屋さんだねー。亜希は」

「そうじゃない!」


 公共の場でキスをしたら恥ずかしいと思うのが普通だ。たとえ誰にも見られない場所にいたとしても。


「じゃあ、私を…好きにしていいよ…」

「なんで急にそんなこと…」


 私は着替え終わった直後に唇を前触れもなく奪われたのだ。


「亜希の水着姿が良すぎて…」

「どういうこと…」

「まぁ、その話はいいわ」


 話は終わった。唇も離れた。でも胡春は私を隅に追いやったような、角にいる私を開放してくれない。


「だから…好きにして」


 あれ、できないの?と言わんばかりに挑発してくる胡春。


「はいはい。やってやりますよ」


 胡春に負けたくはない。それにキスをするのは嫌じゃない。ただそれだけ。


 私は胡春の肩を掴む。なんというかすべすべしているし、華奢な体格だ。


 身長差があるせいで、私は胡春を見上げなければいけない。それは胡春が私よりも上手だと言いたいのだろうか。


 私は胡春に顔を近づける。

 いつしか好きにするの意味が、キスをするに変わっていた。

 それは前例がそうだからなんだろうけど、もし私の好きにしてやったらどんな表情をするのかという考えが頭によぎった。


「ホントに、いいの?」


 私はもう一度確認する。


「うん。キスだって、それ以上のことだって」


 胡春はきっとからかってる。私に超えてはいけない一線を超える勇気はないでしょと言っているようだ。

 それ以上のことが何を示しているのかは、わかっている。でも私はそれから目を逸らす。少なくとも幼馴染同士が絶対にしてはいけないことだからだ。


「じゃあ…」


 私は胡春の肩を掴んでいた手に体重をかける。

 胡春の首元に顔をやって、鎖骨の下辺りに唇を乗せる。


 いつもよりも強い、甘い香り。ちらっと見える、真っ白な水着の肩紐。

 胡春の肩に置いている手は、徐々に上がっていく体温を感じる。


 すべすべとした肌に唇を重ねる感触は、新鮮だった。

 今までしてきた、唇のようなぷるんとした感じではなくて、より温かくてさらっとしている。


 さらに強く、胡春を吸う。私のやり場のない感情をぶつけるように。


 もしかしたら、とてつもなくはしたないことをしている絵面かもしれない。幼馴染に体重を預けながら、鎖骨の少し下にキスをする人間だと。


 でも悪いのは胡春だ。

 私を散々にからかって、キスをして、変に意識させて。

 いまだって心臓が跳ね上がっている。


 いまの表情が見られるのは嫌だから、胡春の鎖骨下を吸い続ける。自分の頭で死角になって見られないはずだ。


「ちょっと、亜希…。長い…」


 しびれを切らしたのか、胡春は私の頭を優しく引き剥がそうとする。


 それでも私は吸い続ける。

 それにこうやって胡春とくっついているのは嫌じゃない。むしろ最近はちょっとだけ嬉しい。たった一人の幼馴染を私がひとりじめしている感覚になる。


 胡春の背中に手を回す。水着の結び目に手が当たって、ピクリと反応してしまう。


 私たちは水着姿だから、肌と肌がこすれ合う。人肌というものを直で感じた気がして嫌ではない。


 私は胡春にキスをしたまま、抱きついた。


 汗なんて一切知らないような、すべすべの肌。徐々に熱くなる身体。それらが一番よく伝わってきて、心地いい。これが本当のひとりじめなのかもしれないと思った。


 私はそっと唇を離して、胡春を見る。顔が真っ赤で、一瞬でやりすぎてしまったことを悟った。


「ご、ごめん。やりすぎたかも…」

「べっ、別に大丈夫だけど…。あの…今度から、突然するのはやめて欲しいというか…」

「それなら…良かった」


 胡春の鎖骨の下を見ると赤い斑点のようなものが出来ている。


 やってしまった…。


「あの…。非常に申し上げにくいのですが…ごめん」


 私は赤い斑点のついた胡春の鎖骨の下を指差した。胡春の真っ白い肌に浮かぶそれは、明らかに異様だ。

 しかもそれを自分がつけたのは申し訳ない。


「キスマークね…」

「なんでそんなに冷静なの…。本当にごめん」


 幼馴染に傷をつけてしまった。それは本当にやってはいけないことだ。やり場のない感情にまかせて、長く力強くキスをした私のせい。

 それにこのように形として残ると、キスをしたんだなという実感してしまう。


「いいわよ。亜希なら別に」

「そもそも、好きにしていいっていう胡春が悪いんだからね!」

「だって、亜希からもして欲しかったというか…」


 どういう訳かわからないけど、胡春は嫌な顔一つせずに許してくれた。


「じゃあ、そろそろ海に入ろっか」

「そうね」


 このまま更衣室に居続けるのは、さすがにまずい。今日は泳ぎに来たのであって、更衣室でキスをしに来たのではない。


「そう言えば、亜希」

「どうした?」

「水着、似合ってる」

「ありがと…」


 面と向かって褒められるのは小恥ずかしい。


「知ってると思うけど、去年と同じ水着だよ」

「それでも、去年より可愛いわ」


 かわっ…。


 可愛いのは胡春のほうだ。見た目のよさに、最近はよく照れて、笑顔になって。そんなのを見て好意を抱かないほうがおかしい。


 私の水着は普通のビキニだ。

 水色を基調としている、ただそれだけのどこにでもあるもの。


「ありがと」


 たぶんお世辞だよな、と内心がっかりしている自分を追い出してそう言った。


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