5-4

 ある日、学校の帰り道でのことだった。

 ナツメは堤防を歩いていた。家に最も近い道というわけではないのだが、いつもの帰路だと友人に捕まる可能性があるため、最近は人通りの少ないこの道を通るようにしていた。

 今日の峰迸川は、曇天に顔を曇らせている。いつもは透明な青緑に煌めいているのだが、今日は、ひどく沈んだ色合いをしていた。墨を流した後の水道のようだ。川の両岸の、小石と雑草まみれの風景と相まって、やけに荒涼とした印象を受ける。

 景色を眺めながら歩いていたナツメは、前方の川べりに妙な喧騒があるのに気づいて、眉根を寄せた。

 子どもだ。子どもが五人、はしゃいだ声を上げながら、取り囲んだ何かに水鉄砲を向けている。

「洗礼だ、洗礼だ」

 彼らは囃し立て、水を射出する。

「子どもはみんな洗礼だ。お前も流されちまえ」

 ナツメの足が止まった。

 水を打ち終えた子どもの一人が、囲んだものを蹴った。それがよろけた拍子に、手前の子どもたちで見えなかった姿が、ちょうど見えたのだ。

 囲まれていたのは、檜だった。短髪が、遠目にも分かるほどぐっしょりと濡れている。

「こら! 何してるの」

 大声を上げた。

 子どもたちはナツメを振り返った。五対の目が、一斉に睨みつけてくる。

 ナツメは一瞬怯んだ。皆、自分より背丈のない子どものはずなのに、恐ろしい形相をしていたからだ。眉と目を吊り上げ、威嚇する動物のように、歯茎を剥き出している。その顔は、とても子どものものとは思えなかった。

 五人のうちの一人、髪のざんばらな少年が、足元の石に唾を吐きつけた。

「シケちまったな」

「つまんねえや」

「行こうぜ」

 子どもたちは、ぎゃははと笑いながら堤防を駆け上がった。

 そして、ナツメに向かって、空になった水鉄砲を振り回しつつ、口々に叫んだ。

「バーカ、バーカ」

「みんなバカ」

「何も知らねえでやんの」

他所者よそもんはみんなバカ」

「みんな死ね。世界中の人間みんな、できるだけ苦しんで死ね」

 子どもたちは、また耳障りな笑い声を上げ、川と反対方向の生垣の隙間へ走り去っていった。ナツメたちの家とは違う、住宅街の方へ行ったようだった。

 堤防の階段から、檜が上がってきた。ナツメはすぐに駆け寄った。

 弟はずぶ濡れだった。髪は乱れ、薄手のパーカーが身体に張り付いてしまっている。日に焼けた首のあたりや、剥き出しの脛には、藻がくっついていた。どうやら、川か池の水をかけられたらしい。

 ナツメはハンカチを使って、ひとまず付着した藻を払った。長いのやら細かいのやら、緑のそれをパラパラと落としていくうちに、緊張が解けていく。代わりに、あの少年たちへの怒りがこみ上げてきた。

「どうしたの。あの子たち、何」

「同じ学年の子」

 檜は、途方に暮れた顔をしていた。

「前から荒れてたけど、最近ひどくて」

 そう言って、くしゃみをした。

 風邪を引いたらいけない。詳しい話を後回しにして、ナツメたちはまず帰ることにした。

 道中、檜は静かだった。いつもの弟ならば、楽しい時も悲しい時も弾丸のように喋っているはずだ。落ちこんでいるのかと心配になって、横顔をうかがってみる。そこまで沈んでいる風はなかった。むしろ、ナツメより落ち着いているように見えた。

 家へ帰ってすぐ、檜は風呂場へ直行した。ナツメは玄関に鍵をかけ、家中のカーテンを閉めた。これを怠ると、窓から覗いてきた友人たちが、入れてくれと騒ぐことがあるからだ。

 母は今日、近所の女性たちと共に、町のフィットネス教室に行っている。母親のいない今が、姉弟で腹を割って話すチャンスである。邪魔されたくなかった。

 程なくして、檜が風呂から上がった。リビングのソファで座って待っていたナツメの正面に、向かい合って座る。

 ドライヤーの粗熱の残る髪をかき混ぜる弟を前に、ナツメは何から話したものかと迷う。その間に、檜が言った。

「やっぱりこの町、おかしいよ」

 真剣な顔をしていた。

「パパは栄転だって言うから、あまりこういうことを言いたくなかったんだけど。俺、ここに住み続けたくない」

 ナツメは頷いた。

「あたしも」

「姉ちゃんも、さっきの人たちを見たでしょ」

「皆がああいう感じなの?」

「ううん。あの人たちが一番活発。他は、もうちょっと大人しいよ。変なのは一緒だけどね」

 檜は、学校の状況を語った。




 檜の通う我気逢西小学校は荒れている。

 初日に登校して、驚いた。彼が下駄箱で靴を脱いでいる横を、キックボードに乗ったまま校舎に上がりこんでいく児童がいたからだ。それも、一人だけではない。後からもう三人、同じように乗り上げて、そのまま廊下の奥へ行ってしまった。

 教室は、いつだってお祭り騒ぎか、お通夜かという有り様だった。檜が引くほど遊びで盛り上がっている日もあれば、登校するなり何人かが泣いていて、しんと静まり返っている日もあった。

 盛り上がっている理由も、泣いている理由も、檜にはよく分からなかった。

 彼が初めてクラスが盛り上がっているのを見た時は、クラスの半分くらいが、教室の床を泳いでいた。机を端の方にどけ、床の上に二十人ほどがひっくり返り、死にそうな虫のように手足をバタバタさせて笑っていた。

 檜には何が面白いのか、さっぱり理解できなかった。本人らは本当に面白いらしく、笑いながら何か言っているのだけど、それもさっぱり聞き取れない。大笑いと同時に話すから、泣きながら喋っているのと同じくらい聞きづらいのだ。

 参加しない残り十人の同級生も、彼らと同じくらいに変だった。十人とも、壁際に立ち尽くしてぼんやりしていた。ひっくり返っているクラスメイトを眺めたり、窓の外を眺めたりと、目線の方向は様々だったが、ぼうっとしているところは一緒だった。

 何をしているのだろう。やんちゃすぎる同級生に遠慮してるのだろうか。そう考えて、檜はその子たちに言った。

 嫌なら嫌だと伝えた方がいい。机に座って過ごしたいなら、正直に伝えて、机を元に戻すなり、自分たちの座れる分のスペースを作ってもいいだろう、と。

 すると、その子たちはやっと檜へ目を向けた。窓からの光が映りこんでいるはずなのに、いまいち輝きのない、ぼんやりとした目だった。

「別に、どっちでもいいよ」

 そう言って、少しだけ口の端を上げた。

 この子どもたちは、泣いている子がいる時も、そんな感じだった。

 檜のクラスでは、少なくて週に一日、多くて毎日、誰かが泣いていた。毎度、泣いている面子は違う。だが、自分の席に大人しく座り、ボロボロと涙をこぼしているのは、同じだった。

 そういう子がいると、その周りに何人か仲のいい子どもたちが集まる。彼らは、同じように泣くか、ぐったりと床に座りこむ。その一方で、我関せずと、壁際や自分の席でぼんやりとしてる子もいる。

 一度だけ、泣いている理由を聞いてみたことがあった。だが、泣く子は何も答えなかった。代わりに、周りの子どもたちが檜を睨んだ。バカにする風に笑った者もいた。面白がって聞いたわけでもないのにそんな目で見られて、檜は嫌な気持ちになった。

 本当に、とんでもないクラスに来てしまった。ここはきっと、大変な子ばかりが集まったクラスなのだろう。

 せめて他のクラスだったら、違ったのだろうか。気になって、檜は隣のクラスを見に行ってみた。さして変わらなかった。隣の教室は、すごく仲良く遊んでいるか、激しく喧嘩しているかの、どちらかに揺れていた。

 休み時間に校舎を歩いて、他の学年の様子も見てみた。落ち着いてるクラスは、一つもなかった。

 一、二年生は幼稚園のようだった。甲高い声で叫びながら走り回っている子。床に座って親指をしゃぶってる子。帰りたいと泣きじゃくる子。

 幼稚園から抜け出せない、幼いだけの様子ではなかった。檜にはその正体を掴めなかったが、何かがおかしい気がした。

 三年生は、よく、大勢で手を繋いでいるのを見かけた。花いちもんめのように思えた。遊んでいるのかと思い、顔を覗いてみる。誰も笑っていなかった。無表情か、少し泣きそうな顔をしていた。

 四年生は、全学年で一番仲良くしているように見えた。だがやはり、普通の仲の良さとは違った。皆、二人組で手を繋いで──遊園地で暇を潰すカップルのように、指を互い違いにして──横に並んでる。そしてお互いに寄りかかり、ひそひそと話をしていた。

 五年生は、校内で一番静かだった。本当は静かではないのかもしれないが、檜が見る時はいつも静かだった。なぜなら、彼が廊下を通ると、いつも皆こちらを見ているからだ。息を殺すようにして、じっとこちらの様子を窺っていた。

 どの学年も、変だった。

 こんなに生徒たちが変なのに、先生たちは何とも思わないのだろうか。

 気になって、教師の様子をうかがってみた。どの教師も、落ち着いていた。けれど、どこか悲しそうに見えた。眉のあたりや、声色が、どことなく下向きの印象だった。

 教師たちは、生徒が暴れたり泣いたりしていると、静かに話しかけた。内容はその時によって違う。諭したり、なだめたり、いろいろだ。そうすると、大抵の児童はいったん落ち着く。そうしてやっと、朝の会や授業が始まる。

 けれど中には、それだけでは収まらない児童もいる。

 今日檜を囲んでたうちの一人が、まさにそういう子どもだった。名を、鉈打草汰なだうちそうたという。いつも眉間に皺が寄っており、目がぎょろぎょろと落ち着かない。髪は、一度も櫛を通したことのなさそうな、夏の草叢くさむらめいた形をしている。

 この鉈打は、学校一の暴れん坊だった。特に、朝によく荒れる。担任教師が何を言っても、なかなか聞かない。自分の教室に備えつけてある物を投げ、窓ガラスを割り、廊下に飛び出して吼える。そのうち、別のクラスの教師を巻きこんでの騒ぎになり、授業時間が削られたり、他の予定が狂ったりする。

 鉈打の身体には、いつも世界への害意が溢れていた。尋常でない鬼気迫る暴れぶりで、教師、同級生、誰でも構わないから何としても傷つけてやりたいという、嫌な意欲が迸っていた。そのため、彼の立てる激しい物音は、ことごとく皆の顔を暗く沈みこませるのだった。

 だが、檜たちにとって幸いなことに、鉈打には相手を見て暴れる癖があった。特に、檜の担任教師が対応に行くと、諦めていつもより早く大人しくなった。

 檜の担任教師は、益尾武恒ますおたけつねという。熊のようにごつい体躯の壮年で、愛想のない髭面をしている。黙って立つだけでかなり迫力があり、一喝すればもっと怖い。

 だが、彼は受け持ちの子どもたちに懐かれていた。厳しいことを言う時もあるが、子どものことをまっすぐ見て、思いやりを持ち正直に接する姿勢を、児童は信頼していた。そのため、彼がやって来ると、安堵で教室の空気が和らいだ。泣いている子どもも、益尾が声をかけると、鼻をぐずぐず鳴らしながらも笑みを浮かべるのだった。

 檜も学校生活を送るうち、益尾を信頼する児童の一人になった。だからある時、彼と一対一で話してみたくなった。

 放課後、檜は独り学校に残った。益尾は誰もいなくなった教室で、提出物のチェックをしていた。けれど、檜が話してもいいかと聞くと、作業をやめて彼へ目を向けた。

「この学校は、どうしてこういう感じなんですか」

「こういう感じというのは、どういうことかな」

 益尾は訊ね返した。檜は言葉に迷いながら、答えた。

「全員、気持ちが不安定なのかなって。俺が前いた学校には、毎日泣いたり怒ったりしてる子はいなかったです。暴れる子も、滅多にいませんでした」

 閉めきった窓の向こうから、はしゃいだ子どもたちの声が聞こえてきて、檜は声を小さくした。まだ校庭に、同級生が残って遊んでいるのは知っていた。けれど、どうしても今、益尾と話してしまわなければいけなかった。この頃は、母親の間知が不安定だったため、遅くならないうちに帰りたかったのである。

 熊に似た円らな瞳が、正面から檜を見据えた。

「檜には、泣きたくなる時があるか」

「あまりないです」

「そうか」

「でも、母は泣きたいって言うことがあります。本当に泣くことも、たまにあります」

 母は、引っ越してきてから顔が暗くなった。喧嘩した父が帰って来なくなって、泣くことが増えた。

 檜は、益尾にその話をした。

「辛くて寂しいから泣くのでしょうか」

「そうかもしれないな」

 曖昧な返事に、釈然としないものを感じた。

 そんな彼を見て、益尾はにやりと笑う。

「なんだ。不満そうだな」

 檜は言葉に詰まる。そうだと言うのも、自分の気持ちを取り繕うのも、気が進まなかった。

「はっきりさせたい気持ちは分かる。だがこれは、そう答えを焦らない方がいい問題だろう」

「そうなんですか」

「心の問題は、解き方や答えに果てがないんだ」

 益尾は言った。

「小学校の理科や算数、漢字のテストのような考え方は、あらゆる問題を合理的に解決するのに欠かせない。だが、心の問題だけは、そのやり方だけで解こうとすると、問題そのものを見失うことがある」

 そんなことがあるのだろうか。どんな問題も、素早く合理的に解決できた方がいいように思うが。

 檜はいまいち納得できない。もやもやする状態が長く続くのは、嫌だ。さっさと解決してすっきりした気分で過ごしたくなるのが、檜の癖だった。

 だが、ここはひとまず益尾の言うことを聞いた方がいいのだろう。檜は、話の続きを待った。

「檜は、お母さんや同級生が泣いているのが、気になってるんだな」

 檜は頷いた。

「皆が悲しそうにしているのが、嫌なんです」

 なぜ皆、楽しく過ごせないのだろう。檜は、母や級友たちと楽しく過ごしたいのだ。なのに、周りがなかなか、辛気臭い顔をやめてくれない。毎日そういう顔を見ていると、気が滅入る。

「悲しいことがあっても、無理にでも笑顔でいた方がいいと思うんです。そうすれば、気分も上がってくる、どうにかなる、って、おばあちゃんが言ってました」

「そうか」

 益尾はいつもの相槌を打った後、ゆったりとした口調で言った。

「おばあちゃんの言うことも、一理ある。だが、俺は、悲しい時は悲しい顔で過ごしてもいいと思う」

「どうしてですか」

「悲しみも、俺たちの大切な気持ちの一つだからだ」

 檜は首を傾げた。

「でも、悲しい顔をしてる人が一人いたら、周りは嫌な気持ちになりませんか。悲しいことは、早く解決した方がいいと思いませんか」

「檜にとって、悲しいことは嫌なことなんだな」

 檜は頷いた。

 すると、益尾はまた訊ねた。

「なら、たとえばの話をしよう。誰か、お前の大事な人が怪我をしてしまったり、亡くなってしまったりしたとする。そういう時に、悲しむのも嫌なのか」

 すぐに答えた。

「そんなことはないです。そういう時は、仕方ないと思います」

「どうしてだ」

 どうして、と言われても。

 檜は困ってしまう。死は悲しいことだ。誰かが傷ついたり、いなくなったりするのは、嫌なことだ。

 でも、なぜそういう時だけ、悲しむのも仕方ないと思ってしまうのだろう。

 考えに考えて、檜は呟いた。

「他に、どうしようもないからです」

 一度ついた傷は、小さなものなら消えてくれるが、大きいものだと一生遺る。死んだ人は、帰って来てくれない。

 どうにも解決手段が見つからないから、悲しむ以外にできることがない。檜はそう考えた。

「そうだな」

 益尾は頷いた。

「どうしようもなくなってしまった時、堪えようのないほどの悲しみが溢れてくる。その段階は、人によって違う。そこに、涙が出てくる、出て来ないの差があるのかもしれない。もっとも、表に一才出ない、という体質の人もいるけれど。檜はどうなんだ」

「俺はいつも、なんとかなると思ってるんです」

 家族や周りの協力、自分の工夫、便利な道具。そういうものがあれば、大抵のことはどうにかできると思っている。

「だから、泣かないのかもしれません」

 益尾は目を細めた。

「そういう、頼れるものや希望がない時。気持ちのやり場に困ってしまって、人は感情に支配されやすくなる」

 檜は母のことを思う。

 母は、これまで住み慣れた土地から遠ざかっただけでなく、父に出て行かれてしまった。つまり、頼りになる環境や存在がなくなって、不安定になってしまったわけだ。

「ならば、学校の皆も」

 そう言いかけると、益尾は目を伏せた。

「ところで、檜はゴールデンウィークにどこかへ出かけるのか」

「え?」

 急に、話題が変わった。

 戸惑いながらも答える。

「いや。父の仕事が忙しいらしいので、行かないです」

「じゃあ、夏休みは」

「分からないです。でも、俺は出かけたいと思ってます」

「そうか。ぜひ、そうするといい」

 益尾は大きく頷いた。

「ご両親にお願いしてごらん。中学生になると、塾や部活動のような用事が増えて、まとまった休みを楽しめなくなる。今年は、小学生最後の夏休みなんだ。家族で長く出かけてみるのも、いいんじゃないか」

「はい」

 檜は目を瞬かせる。

「あの、さっきの話は」

「あまり、ここに囚われないことだ」

 益尾は顔を上げた。唇を横に引き結び、真剣な顔をしていた。

「この夏は、外に出るといい。分かったか」




 後から考えて、気づいた。

 檜は声をひそめた。

「小学校の皆が変なのは、子どもにはどうしようもないようなことがあって、追い詰められているからなんじゃないかって。先生は、きっとそう言いたかったんだ」

 それだけではない。

 益尾は、この地に囚われるな、夏は外へ出ろと言っていた。

「俺の学校の子たちがおかしいのは、六年生の夏に、町で何かがあるからなんじゃないかな」

「どうしてそう思うの」

「下級生が、俺たち六年生を警戒してるみたいな目で見るから」

 一番その素振りが強かったのは、五年生だった。あの異様な注目ぶりは、下級生が上級生を恐れるのとは違っていた。

 しかし、檜の知る限り、六年生が彼らに何かをしたことはない。同級生たちはいつだって、転校生の檜にも分からないような、自分たちの感情に引きこもっていた。

「六年生の夏に起こる何かを、きっと皆怖がってるんだ。もしかしたらそれは、この町全体がしていることなのかもしれない。だって、子どもたちがあんなに不安定なのに、大人がいつだって上機嫌なのは、どう考えてもおかしいから」

 ナツメは考える。

 町全体。夏。子どもたち。

「夏には、式がある」

「式?」

 ナツメは、学校でされた説明を、そのまま弟にもした。檜は首を傾げた。

「でもそれって、中学二年生のための行事なんだろ? 六年生は関係ないんじゃないかな」

「そうだけど。でも、あの行事、なんか変なんだよね」

 町全体で行う、中学生たちが大人の自覚を得て、将来を見つめるための、大切な行事。楽しみなお祭り。

 それなのに、同級生たちは、肝心の式で発表する内容にさして頓着していない。「皆の助けになりたい」という、耳触りがいいけれど中身のいまいち感じられない言葉を繰り返すばかりだ。

 けれど、生徒も保護者も、式の参加にこだわりがあるらしい。志乃の母親は、ナツメを参加させるよう、母に迫った。そのせいで、今のような状態になってしまったことも、ナツメは忘れていない。

「あの子どもたち、洗礼って言ってたよね」

「ああ。さっきの話?」

 ナツメは頷いた。

「あれって、何のことなの? 子どもはみんな洗礼だって言ってたけど」

「分かんない。俺も、ああ言ってるのは初めて聞いた。ただの嫌味で言ってるだけなんじゃないの。ほら、『厳しい部活の洗礼を受ける』みたいな使い方、するよね」

 余所者に、この土地の厳しさを思い知らせてやりたいということなのではないか。

 檜はそう受け取ったらしい。だが、ナツメはそれだけでないような気がする。

「そうだとしたら、子どもは皆洗礼だって言うの、おかしくない? ここの子どもとよその子どもと、両方に向けて言ってる気がするけど」

 ナツメは、同級生が一度洗礼という言葉を口にしていたのを覚えている。

 確か、浄美だったか。洗礼を受けて自分は変わった、と言っていたように思う。

「そうかな。あいつら、適当なこと言ってただけなんじゃないの」

 檜は首を捻る。

「だいたい、洗礼って何」

「小学生が使う言葉として、珍しいよね」

「うん」

 ナツメは、足元に置きっぱなしだった鞄から、電子辞書を取り出した。こういう時、以前ならばスマホを使っていたところだが、壊れてしまっているので仕方がない。新しい機種は、いつになったら届くのだろう。

 ナツメは辿々しい指でキーボードをなぞり、せんれい、と打ちこむ。すぐに、検索結果が出た。

「洗礼。キリスト教で、信者となるための礼典」

 全身を水に浸したり、頭上に水を注いだりすることにより、罪を洗い清め、キリストに結ばれて、新しい信仰の生活に入ることを意味する。

 読み上げるにつれて、ナツメは、自分の声から勢いが消えていくのを感じていた。

 姉弟は顔を見合わせる。

「これって」

「いや。だってこの町に、キリスト教なんてないよ」

 檜は大きく頭を横に振った。

「だって俺、知ってるよ。キリスト教の墓って、地面に板みたいなのを置くやつだろ。この町の墓場を見たことがあるけど、そういうのじゃなくって、日本でよく見るやつがいっぱい並んでた」

「でも、この町には教会があるんだよ」

 ナツメは呟いた。

 この町に引っ越してきた日、サービスエリアの展望台で見た尖塔のことを思い出す。そこに、父に似た何かがいたことも、忘れられない。

 人間に似た何か。

 水。池。洗礼。

 入れ替わる。

 これまでに聞いた単語が、頭をよぎる。けれど、それはナツメの手に負えず、強風にあおられた紙切れのような無秩序さで、脳を飛び回る。

「でも、キリスト教って、世界三大宗教ってやつだよな」

 学校で習った、と檜は続ける。

「俺はキリスト教のこと、全然知らないけど。そんな、世界のたくさんの人たちに好かれてるものが、あいつらみたいなことをするわけがないよ。絶対、別の何かだって」

「そうだね」

 ナツメもまた、キリスト教を知らない。それだけでなく、他の宗教のことも知らない。仏壇が仏教のもので、神棚が仏教のものじゃないということくらいは分かる。神道というものがあるのも知っているが、それが宗教なのかどうかも、いまいちよく分からない。

 だが、それとは別の宗教のことは、聞いたことがある。

「新興宗教っていうものじゃないかな」

「シンコー? 何それ」

 ナツメは手元のメモ帳で、漢字を書いて見せた。

「ママが昔、言ってたでしょ。駅にはたまに新興宗教の人がいるから気をつけなさい、って」

 都会にいた頃は、移動に必ず駅を使っていた。そのせいか、幼い頃から、心配性の母によく言って聞かされていたのだ。

「悪い人ばかりじゃないって言ってた。宗教は悩みを軽くすることができるもので、本人が幸せならそれでいいものなのって。でも中には、そのお代替わりに、取り返しのつかないほど大きなものを持って行ってしまう人たちもいる。子どもがそのあたりを判断するのは難しいから、声をかけられても遠慮せず断りなさいって」

「キリスト教は、新興宗教じゃないよ」

 檜は言った。

「だって、ものすごく古いもん」

「うん。洗礼って言葉を借りてるだけかもしれない」

 山の方にある教会だって、教会として機能しているのか怪しいものだ。

 前の学校の同級生の中には、ミッション系の小学校からやってきた生徒がいた。彼女は家がキリスト教信者らしく、日曜日は必ず家族で教会へ行き、ミサに参加するのだと話していた。彼女たちにとって、教会はいつでも日常の隣にあるものらしかった。

 この町で、ミサという言葉を口にしている人など、見たことがない。それどころか、あの教会が話題に上がる場面や、教会が使われているところさえ見ない。あの建物は父の職場の近くにあったから、近くに用事があった時によく様子を見ていたのだが、誰かが中へ入っていったり、周辺に利用者らしい人の車が停めてあったりする素振りが全くなかった。

 例外は、教会が式の会場の一つになる、と中学校で話されたことだけ。志乃が、普段は滅多に入れない、とも言っていた。

「どういうこと」

 ナツメは頭を抱えた。

「この町の人はよく分からない宗教を信じていて、町の子どもは、中学二年生か小学六年生の時に、その洗礼を受けるってこと? 何それ。そんなの、今時ある?」

「でも、ただの宗教の儀式なら、怖くないよね。式ってつくからには、卒業式みたいなものでしょ」

「卒業式ねえ」

 池で──水を介して、よく分からない者と人間が入れ替わる。

 池の話が再び頭をよぎり、ナツメは呟いた。

「人間の卒業式だったりして」

「え?」

「知ってる? 公園の池の、怖い話」

 ナツメは、聞いた話を弟に語って聞かせた。

 公園の水鏡池を覗くと、水面に映った自分が自分と違う顔をする。驚いた人間を、水面に映ったソレは、池の中へ引きずり込んでしまう。そして、ソレは水から出て、池へ落とした人間と入れ替わって生きるようになる。

「あたし、見たの」

 ナツメは、ずっと胸にしまい続けていた出来事を口にする。

「喧嘩したママを探しに行った夜。ママが、池に浮かんでた」

 幻だと思いたいのに、いまだに思えない。

 ナツメたちの母は死んだ。今いるのは、入れ替わった何かだ。

 その思いが、日に日に強くなっている。

「もしかして、その洗礼ってやつも、これと似たようなものなんじゃないかな」

「姉ちゃん、ふざけてる?」

 檜は、強張った笑みを浮かべていた。

 ナツメは眉をひそめた。

「そんなわけないでしょ。ふざけて、ママが死んだ、なんて言うわけないじゃん」

 弟の顔から、笑みが消えた。代わりに、目と頬が歪んでいく。

「どうしよう。俺、さっき変な水をかけられちゃった」

「でも、檜は何も変わってないよ」

 ナツメは改めて弟を見つめた。幼稚園ぶりに見る、べそをかきそうな顔だ。

「水をかけてきたのは、子どもでしょ。子どもが洗礼に関われるなら、小学校はもっと恐慌状態になってるんじゃないの」

「そうかな」

「多分。よく分かんないけど」

 全部、推測の域を出ない。

 もっと分かりやすい異常があってくれたらいいのに、とナツメは思う。そうしたら、せめて何を恐れ、何を避けたらいいか考えられる。正体不明なものに対する恐怖は、嫌だ。どうしたらいいか分からなくて、気持ちばかり焦ってしまう。

 ──落ち着いて。

 ナツメは自分に言い聞かせた。

 少しでもいいから、この町と違和感の正体を掴むための手がかりが欲しい。

「檜。益尾先生に、何か聞けないかな。さっきの話だと、この町のことを何か知ってそうだったよね」

 益尾の名を聞くなり、弟は俯いた。

「先生は、一週間くらい前から見てない」

 学校に来なくなってしまった。益尾の代わりの教師も来た。代理教師は、妙におどおどしていて、あてにならない。

「益尾先生が来なくなってから、クラスの皆がもっと落ち着かなくなった。鉈打君が前より暴れるようになったのも、今日俺に水をかけてきたのも、多分そのせい」

 いつもの明るい弟らしくない、暗い声で言う。

「姉ちゃん。俺、前の家に帰りたいよ。車に乗れなくてもいいから、何日歩くことになってもいいから、ここから出たい」

「あたしも」

 ナツメは頷いた。

「前の家には帰れないけど、羽子おばあちゃんの家になら行けるんじゃないかな。金曜日、学校が終わった後に、向かってみない?」

 今すぐに逃げたいところだが、明日はまだ学校がある。学校がある日に逃げだしたら、担任から偽の両親に連絡されて、連れ戻されかねない。子どもの頭と足でどこまで彼らをまけるか分からないから、人に注目されず、時間を稼げるタイミングを見計らって、町を出るのがいいように思われた。

「電話で迎えに来てもらいたいところだけど。気の強いおばあちゃんのことだから、あたしたちを連れていく前に、パパとママに話をしにいきそうだし。そこで、おばあちゃんにも何かあったら、あたしたちは本当にもう行き場がなくなっちゃう」

 檜は頷いた。

「どうにかしてこの町から出ないと、やばいよ。そのうち、俺たちのどっちかも」

 ひゅっ、と息を呑んで檜は固まった。

 大きく見開いた目が、背後の窓を映している。ナツメは振り返った。

 リビングの掃き出し窓のカーテンは、変わらず閉めてある。

 その僅かな隙間から、母の笑みが覗いていた。

「ナツメ、檜、開けて」

 母は窓の向こうからくぐもった声で言い、ガラスをコツコツと叩いた。

「玄関の鍵を忘れて出かけちゃった。何でカーテンを閉めてるの?」

「あ、ああ。ごめん」

 ナツメは笑顔を繕った。

「ちょっと、部屋を暗くして、怖い映画でも観ようかと思って」

「あら、いいわね」

 母は言った。

「ママも一緒に見ようかしら」

「やだよ。子どもだけで見るのが楽しいんだから。鍵開けるから、待ってて」

 そう言いながら、ナツメはリビングを出た。檜もついてきた。

 玄関を開ける前に、檜が小声で言った。

「姉ちゃん。今日から俺も、姉ちゃんの部屋で寝ていい?」

 ナツメは頷いた。

 今、信用できるのはお互いだけだ。

 式が来る前に、なんとかして逃げないといけない。

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