7-6
朱姫葛と一緒にスーパーへ買い物に行って新たに知ったことは、彼女は自由に使える自分名義の口座を持っていることと、そこにとてつもない額の資金を貯えているということだった。
そうは言っても、ナツメ自身の目で彼女の口座にある具体的な数字を確認したわけではない。スーパーで買い物カゴに物を入れていた時、どのくらいの量を買っていいのか聞いてみたところ、こう言われたのだ。
「遠慮しなくて大丈夫。私の口座、ゼロがいっぱいあるから」
他人の財産を聞くのは気が引ける。だが、言われたことを間に受けて遠慮なく買い物をし、無闇に彼女の財布を軽くしてしまい、後で理不尽な請求をされたら困る。そのため、こう聞いた。
「朱姫葛ちゃんは、買ったお弁当をよく食べるの」
「うん」
「ずっと同じものだと飽きない?」
「まだ数年だから飽きないよ」
「何年?」
「ええと、二年くらいだったかなあ」
ならば、ゼロがたくさんあるという預金の額も信じていいのだろうか。ナツメは、思いきって材料を買ってもらうことした。
この町でしか見たことのない名前のスーパーは閑散としており、見慣れない町の大人が数人、のんびりと買い物をしていた。学校の授業時間に、見るからに学生の見た目をした自分たちがここにいれば注意されるのではないかと心配したが、杞憂だった。客たちは彼女らを一瞥し、会釈するきりだった。皆共通して、ナツメではなく朱姫葛を見ているようだった。
スーパーからの帰り道、ナツメは聞いた。
「今日会った人たちは知り合い?」
「なんで?」
「だって、みんなナツメちゃんにお辞儀してたよ」
「あれは好意でしてるんじゃない。牽制だよ」
朱姫葛は当たり前のように言った。
帰ってから、ナツメは台所を借りて食事を作った。すでに、いつもの朝食の時刻をとっくに過ぎている。だから簡単に済ませられるものにした。細かく切った野菜のコンソメスープと、スクランブルエッグ。そこへスーパーで買ったパンを加えて、食卓に出した。
料理の腕前にはそこそこ自信がある。けれど、日常の料理を出したことはなかった。緊張していたものの、朱姫葛は特に変な顔をすることもなくさらさらと食べ、檜もがっついて食べたので、ナツメはほっとした。
食べ終えた姉弟が食事の片付けをし、居間に戻ると、朱姫葛が机の上に大きな紙を広げて待っていた。二枚あり、片方は我気逢町の地図、もう片方は町を流れる川や用水、地下水路などをまとめた地図のようだった。どちらも手書きであり、紙の色が黄ばんでいた。
「これは町の地上と地下の地図。随分前に作られたものだけど、私も定期的に見回って道に変化がないか調べてるから、間違いはないと思う」
朱姫葛が町の地図の北西、山裾の上寄りにある教会を示す。
「あいつらの棲み家に行く道は、教会の奥にある道しかない。普通の人間は、ここからじゃないと棲み家に行けない。けれど、私と、女神を持つあんたたちがいれば、例外の道を通れる」
教会の上にあった指が右へ滑る。指先は、役場の傍、峰迸川の途中に架かる橋の記号の上で止まった。
「町役場近くにある橋、分かるかな。赤い橋なんだけど。この下から峰迸川に入ると、棲み家まで上って行ける。でも、普通に入るだけじゃだめ。道具を用意していかないと、帰れなくなる」
それから、朱姫葛は当日の動きの要点を話した。
道具を持って川に入り、隣人の棲み家へ行く。着いたら女神を返し、来た道を戻る。その足で、町を出る。
「それだけ聞くと簡単そうだね」
ナツメは努めて明るく言った。化け物の巣窟へ行くことが簡単なわけがない。けれど、こう言うことで怖気づく自分に発破をかけたかったのだ。
「まあね。当日までにしておくことも、道具の準備と当日の動き方の確認だけ。シンプルでしょ」
そんなに簡単じゃないとたしなめられることを予想していたが、朱姫葛はあっさり認めた。
本当に簡単だと思っているのだろうか。朱姫葛の表情は変化に乏しく、分かりにくい。
檜が声を上げる。
「それで、道具って何。俺たちは何をすればいい?」
「あんたたちはこれから、私と一緒に道具を作る」
「武器とか?」
朱姫葛は、唇の両端をわずかに持ち上げて笑った。
「隣人はいつだって、平等な取り引きを求めるんだよ。武器を向けたら、代わりに何を持って行かれると思う?」
檜が返事に迷う。その間に朱姫葛は、先に聞かれていたことの答えを口にした。
「道具っていうのはね、命綱なんだよ。今から素材を集めに行こうか」
姉弟は朱姫葛と共に家を出た。朱姫葛の案内に従って、田園に囲まれた
足を止めた場所は、町の中でもかなりの外れの、田園と森の境だった。森を正面に見ながら、畦の一角に佇む小さな石碑の前で、朱姫葛がしゃがみこむ。じっと身動きしなくなった彼女の背後で、ナツメは石碑をしげしげと眺めた。
小さな石碑だった。ナツメの膝ほどの高さで、縦にした小舟を地面に刺したような形をしている。中心には、同じ背格好をした二人の人間が横並びに彫ってあるようだが、どちらも和装をしているということくらいしか分からない。のっぺりとした素朴な彫りだった。
特に、変わったものには見えない。けれど、朱姫葛は真剣に石碑を見つめている。
どうしたものだろう。ナツメが檜と顔を見合わせたその時、朱姫葛が言った。
「あった」
手を伸ばし、石碑の前の空気を掴むような仕草をする。朱姫葛が向き直り、握っていた拳を開く。姉弟は、あっと声を上げた。
空気を掴んだだけのはずの掌に、一本の糸が乗っていた。毛糸ほどの太さで、青みがかった透明な色をしている。
「二人で持って」
朱姫葛に言われる通りに、ナツメと檜は糸の両端を持つ。糸の端はひときわ色がなく、空気に溶けて消えてしまっているのではないかというような様子だったが、つまんだ指が糸をすり抜けることはなかった。
「今日は町の周りを一周して、これをいっぱい集めるよ。あんたたちは新しい糸が増えるたびに、そうやって持って運ぶ。いいね」
移動しようとする朱姫葛に、檜が問いかけた。
「この石碑は何なんだ」
「これは、道祖神と呼ばれるものの仲間なんだって」
朱姫葛は聞いたことのない石碑の名前を、漢字も含めて教えてくれた。
「物と物の境目から悪いものが入りこみませんようにっていう願いをこめた石碑なんだよ。別名を塞の神とも言って、魔除けの神様みたいなものかな」
「魔除けか」
檜は興味を持ったようだった。
ナツメは言う。
「なら、この道祖神は朱姫葛ちゃんのご先祖様がやって来る前に住んでいた人たちが立てた、隣人を避けるための神様ってこと?」
「そういうものなんじゃないかな。記録が残っていないから、正確なところは分からないけれど」
朱姫葛はナツメたちの持つ意図を指さす。
「でも、昔の人の意図はともかく、この碑には別の大事な役割がある」
「この糸のこと?」
「うん」
「気になってたんだよね。これ、どこから出てきたの?」
「出てきたも何も、ここにあるんだよ」
朱姫葛は道祖神の方を見て言った。けれど、ナツメがどんなに目を凝らしてみても、そのあたりに糸のようなものなどありはしなかった。
三人は道祖神と糸を求めて、町の外れを巡り歩いた。糸は朱姫葛にしか見えず、また彼女が見つけて掴まないと形にならないらしい。彼女が石碑を見つめている間に、ナツメも散々目を凝らしてみたが、一度も彼女より早く糸を見ることはできなかった。ナツメの目には、石碑の傍で風に吹かれる雑草や、小川の煌めき、ちょこまかと跳ねては水田に消えるアマガエルなどといった景色しか映らなかった。
道祖神は多く、町の外周は意外と長かった。太陽が空の頂へたどり着く頃になっても、まだ半周に届かない。だからナツメたちは一度中断して、昼食を取ることにした。
幸い、外周からさして離れなきで済む位置にコンビニがあった。買ったおにぎりや飲み物などを抱えて、最後に立ち寄った道祖神の近くにある公園へ向かう。そこは、ナツメたちの住んでいたヨシヨシ生体の社宅近くにあったのとは異なる、もっと小さな公園だった。
二台あるベンチのうち、朱姫葛が一台に、ナツメたち姉弟がもう一台に腰かける。ナツメと檜は、くっつきすぎず離れすぎないよう、位置取りに気を遣う。お互いの膝に、集めた糸の束が乗るようにするためだ。朱姫葛が、食べる間は糸から手を離してもいいけれど、代わりに自分の体から離すな、と言ったからだった。
ナツメは食べるのが遅く、檜は早い。朱姫葛も遅くはないようだ。
ナツメが一人もそもそとおにぎりを噛んでいると、朱姫葛が話し始めた。
「人間がどこから来たか、知ってる?」
立ち上がって暇つぶしをするわけにもいかない弟に、気をつかってくれたのだろうか。ありがたく思って彼女を見ると、そういうわけでもなさそうだった。彼女の眼差しは檜でもナツメでもなく、がらんとした公園の中央へ注がれている。
この公園は、どうもうら寂しい印象が拭えない。もちろん人の姿がないからなのだろうが、大きな原因は遊具の方にあると思う。ブランコには錆が目立ち、滑り台はひび割れて使えそうにない。一目見て、長い間使われていないものと分かる、風化した姿をしているのだ。
「急に何?」
檜が怪訝な顔をした。
「外の世界の人間だって、人間という種がどこから来たのかっていう話はするでしょ」
「人間は海から来たんだよ」
「どうしてそう分かるの」
「化石を見れば分かるんだって。昔、全部の生き物は海での生活に向いた形をしてた。その生き物の一部が、海から陸に上がった。そして足を手に入れて、爬虫類や哺乳類、色々な生物へと進化していった。人間もその中の一つなんだよ」
ナツメはじっと聞いていた。最後まで聞き終えると、言った。
「それ、見たことあるの」
檜は少しむっとした顔になった。
「あるわけないだろ、もうなくなったものなんだから。人から聞いたり、本で読んだりしただけ。見られるものなら見てみたいよ」
「うん、仕方ないよ。そういうものだからね」
朱姫葛は頷いた。
「何が言いたいの?」
「現在目に見える形、現在触れられる形がすべて。今残っていないもののことは、考えていない。ううん。形を持たないもの自身のことを、今と切り離して考えることができない」
朱姫葛の話す様は、檜と会話するというより、独り言のようだった。
「たまに考えるの。いつか、人間が絶滅したとするでしょ。その後に、周りのものを観察して、自分たちの生きる世界が、どうやって今のような形になったかを考えることのできる生き物が出てきたとする。その生き物たちが、人間の化石を発見する。そして、人間の在りし日の形を復元しようとする。私たちが恐竜の化石を見て、昔はどういう外見をして生きていたんだろうと考えるようにね」
彼女の細長い指が、自分自身の耳に触れる。
「人間の耳には、骨がほとんどない。根元の方に、小さいのがちょっとあるだけ。それを見て、人間絶滅後の生き物は、耳の存在を気づくことができるのかな」
檜はしかめ面のような顔で考えこんで、言った。
「気づけたとしても、今の俺たちの耳とは違う形を思い浮かべるかもね」
「うん。それと一緒で、人間も今ないもののことは把握できない。だから、人間が今の形で誕生したばかりか、それよりもずっと前の時代には、私たちの想像もつかないようなものが、もっといっぱいいたのかもしれない。そしてその中には、今の人間の過去の探り方では、これから先ずっと見つけられないようなものもいたかもしれない」
朱姫葛はあまり声を張らない。だから気を抜けば、木立より届く蝉たちの大合唱に紛れてしまいそうだった。
ナツメは、彼女と弟の会話に耳を澄ませる。
「本当に、生物がいたのは海と陸だけだったのかな」
「他にどこか、行ける場所がある?」
「空に逃げた者。陸のない頃から、空に棲み着いたものはいなかったのか。または、空や陸から海へ還ろうとしたものはいたのか。私はたまに、そういうことを考える」
朱姫葛は呟き続ける。
「この町──ううん、この我気逢地域、峰迸川付近には、ずっと前から棲んでいるものがいる。それは、移ろうもの。宙を自由に漂いながら、自分の姿を周りのものへ自在に溶けこませるもの。クラゲがどこまでも流れていき、魚やヒトデが砂や岩、時には海面から射しこむ光にまで体を一体化させるように、それは体を持たないものらしく、気ままに暮らしてきた」
話し始めてからずっと、朱姫葛はこちらを向かない。誰もいなければ遊具もない、がらんどうの公園の中心を見ている。
「何の話? 隣人のこと?」
困惑する檜の隣で、ナツメは膝の上にある糸を握りしめる。
本当にそこには、何もないのだろうか。
「今も、海はある」
朱姫葛は呟く。
「この町は、海の中にある」
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