6-4

 園藤は、おおよそ一か月前の生活に戻った。ヨシヨシ生工のアルバイトを辞めた二日後に老柳が東京へ帰ってからは、完全にもとの暮らしぶりになった。

 夜は居酒屋で遅くまで働き、帰宅したら昼近くまで寝る。一度保育所バイトの割の良さを覚えてしまった財布がしばしば名残惜しさを訴えてくるが、それは前よりも居酒屋のシフトを増やし、他にも単発の仕事を入れることで誤魔化した。

 接客業のいいところの一つは、常に客に集中していればいいところだ。次々届く要望に応えてまわるために、頭のすべてを使っていられる。もちろんこれを短所と捉えることもできるのだろうが、今の園藤にはただただありがたい。忙しくホールに厨房に駆け回っていれば、勝手に時が過ぎ、過去から遠ざかることができる。

 それでも、ふと一息吐いた時に、あの場所の静けさを思い出すことがある。最後に保育所を出た時に聞こえた笑い声が耳を掠める気がして、背中が粟立つ。そのような時は、早めに次の行動に移る。休憩から厨房へ戻るなり、その場を立ち去るなりしてしまえば、気が紛れる。

 自分の見たもの、聞いたもの。

 今、見聞きするもの。

 すべてをないものと思いたかった。




 はじめに違和感を覚えたのは、居酒屋バイトの帰り道だ。

 午前三時にシフトを終え、バイト先を出る。園藤の勤める居酒屋は、A市の主要駅近辺に昔からある、小さな個人経営の店だ。当然店員のための駐車場などあるわけがなく、徒歩五分程度の距離にある契約駐車場に車を停めさせてもらっている。

 主要駅と言えど、田舎であることに変わりはない。ビルやテナントが隙間なく並んではいるが、都会ほど背が高くないからのしかかる夜空の体積が大きく、重い。園藤の帰る深夜帯などは、等間隔に設置された街灯が誰もいない通りをくっきりと照らして、かえって人の滅んだ都市のような寂しさと暗さを醸し出す。

 マンションとビルの隙間にある契約駐車場へ辿り着く。大学時代の終わり頃に買った中古の軽自動車は、今日もブロック塀の片隅で大人しく待っていた。車にこだわりのない園藤だが、この車体の工事現場のような色合いは気に入っている。どんなに目が疲れていても見間違えなくていい。

 車に乗り込む。エンジンをかけ、シートベルトを締める。知らない間に酔っ払いが車へ接近していることもありえるので、ミラーを確認する。

 バックミラー、右サイドミラー。最後に左サイドを見て、瞬きをする。

 ──なんだろう。

 違和感がある。

 四角い鏡に、テールライトがブロック塀を赤く染める様子が映っている。右端にはボディが少し。ここまではいつも通りだ。

 じっと目を凝らし、気づく。

 赤く照らされたブロック塀と己の車の間に、ゆらゆらと動く小さな影がある。それはちょうど、細い紙テープのようなものが、テールライトに付着しているためにできた影のようだった

 エンジンを点けたまま車を降り、背面へ回る。テールライトには、何もついてない。障害物もなければ、壁に映る影さえも見当たらない。

 気のせいか。運転席に戻り、もう一度ミラーを覗いてみる。やはり影はある。動いている。

 ──鏡が歪んでいるのかもしれない。

 とにかく、外へ出て肉眼で確かめてみて、何もなかったのだ。車を動かすのに危険はないだろう。

 園藤は車を出した。発車しても異音などせず、何事もなくアパートへ戻る。割り当てられた駐車スペースに車を停めてから、もう一度左のミラーを見てみる。しかし、背面に壁などの影を映せる物がなかったため、よく分からない。降りてから左のミラーを触ってみても、特にへこみや傷は見当たらなかった。

 それからというもの、夜間に壁の前へ車を停める度、ミラーが気にかかるようになった。最初は、テールライトの故障を恐れて確認していただけだった。だが時間が経つにつれて、不可解なことに気づく。

 夜に車のミラーを見ると、必ず影が映っている。左のサイドミラーだけではない。右の方や、バックミラーに映ることもある。映る影はいつも同じだ。車にぴたりと張りついた何かが、風にたなびくように揺れている。

 影を見つけたら、即座に降りて確認しに行く。けれど、何もない。テールライトに汚れや虫がついていたり、壊れたりしているわけでもない。鏡で背面を見た時だけ、影があるのだ。

 目の病気だろうか。怖くなって眼科医にかかってみる。異常は見つからない。知っていた。生活していて、視野に見えづらいところなど何もないのだから。

 ならば、あの影はどこから来ているのだろう。

 気味が悪かった。けれど、田舎暮らしは車を使わないという選択をするのが難しい。車に乗ってしまえば、背後確認は運転手の義務だ。ミラーを覗くのは避けられない。だから園藤は、壁を背にして車を停めるのをやめた。




 それを続けて、二週間ほど経った頃。

 夕方買い物に出かけようと車に乗りこんだ園藤は、バックミラーを見てぎょっとした。

 人影が映っている。

 すぐに振り向いてみるが、誰もいない。もう一度バックミラーを見ると、まだいる。アパートの柱の影に、ぼんやりと黒い人型の影がある。顔や服の輪郭は見えない。まさに影法師のようなものが、そこへ立っていた。

 すぐに車を出す。アパートの敷地を出てからバックミラーを一瞥すると、何もいない。ほっとして運転に専念する。

 目的のスーパーへ到着した。ブレーキを掛け、ミラーを見る。

 また、映っていた。スーパーの花壇を挟んだ隣家の庭に、ぼんやりと薄ら暗い人影がある。

 ──消えたと思ったのに、どうして。

 園藤は、これでもかと瞬きをする。庭に立つ影は消えてくれない。ぴくりとも動かない。

 ──あれはなんだ。

 分からない。壁に映っていた細いゆらめく影と、何か関係があるのだろうか。

 ここで園藤は、自分でもよく分からない衝動に駆られた。あの影が映るバックミラーを、動かしてみたくなったのだ。

 手を伸ばし、ミラーを左右に揺すってみる。

 人影は微動だにしない。ミラーの中央へ染みのように浮かんだまま、ぶれない。

 ──あの影があそこに立っているなら、揺れるはず。

 園藤は悟る。

 人影は、アパートの柱の影や、スーパーの隣家の庭にいるのではない。

 この鏡にいる。

 園藤は車から転がり出た。足がもつれそうになりながらも何とかコンクリートを踏みしめ、ドアを車体に叩きつける。

 車の鍵を閉め、睨む。

 けれど、いつまで経っても車内に何か起こることはなかった。重い梅雨空の下、小さな車体は身を硬くして押し黙っていた。




 意を決してスーパーからアパートへ車を帰らせた後、園藤は車に乗るのをやめた。車を使えないのは不便なのだが、仕方ない。利便性より、車内で鏡を見たくない気持ちの方が上回ってしまっていた。

 園藤は怪奇な話が好きである。だが、自分が体験するのは別だ。幽霊が出ると噂される場所へ行ったり、そういったものを挑発するようなことをしたりした記憶もないのに、なぜこんなことになったのだろう。あんなものが見えるようになる原因など、一切身に覚えがない。我気逢町でアルバイトをしたこと以外は。

 ──あそこは、本当にやばいのか。

 子どものいない保育所。似た顔に似た性格の社員たち。もう一人の自分がいる町。

 アルバイトに通っていた頃は、噂が真実だと言えるものを何一つとして見つけられなかった。けれど今は、あの噂が真の伝承として身に迫って感じられる。

 ──あの噂が本当だったら。

 気を抜くと、園藤の脳内でその仮説が何度も浮上する。

 自分が連れてきてしまった人影。

 あれをよくよく思い返してみると──自分の背格好に、似てはいなかっただろうか。




 やがて園藤は、車以外の場所で鏡を見ることすらできなくなった。家の洗面所にある鏡はバスタオルで覆い、養生テープでぴっちりと覆った。外出先ではいつも鏡に怯え、置いてある気配を感じると必ず反対側を向く。バイト仲間にヒゲの剃り残しがあるだの顔が酷いだの言われるが、知ったことではない。あれを見てしまうよりはマシだ。

 園藤はアルバイトに忙殺されて、湧き上がる恐怖を己ごと殺した。

 暦は七月になろうとしていた。

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