5-2


 その日の朝のホームルームは、長かった。

 なぜなら、午後に全校規模の進路行事が予定されているからだ。近隣地域の大学生や社会人を呼び、その体験談を聞くという内容の、講習会である。将来像を大まかに掴むのが目的で、特に二年生にとっては、来月に控えた式で展示するレポートの最終工程に入るために必要な、重要行事だった。

 ホームルーム終了後、ナツメと志乃は齊賀に呼ばれた。

「振津は、井磯と一緒に回るってことでいいんだよな?」

 先日──母と喧嘩するより前に、ナツメは齊賀から行事の内容を聞いていた。他の生徒は、一年生の頃から作り続けてきた自分の将来についてのレポートを持って参加することになっているのだが、転校生のナツメはレポート免除で構わない。しかし、せっかくだから、誰かについて見学するか、図書室で自習するか選んでいいと言われていた。

 その時、志乃についていって見学する、と決めてしまったのだった。

「はい、大丈夫です」

 ナツメが何か言う前に、志乃が返事をした。

 齊賀は頷き、職員室へ戻っていった。教室には、もう他に人がいなくなっていた。次の授業は美術。移動教室なのだ。

 二人は道具を揃えてから、美術室へ向かった。その道で、ナツメは言った。

「やっぱりあたしがいると手間なんじゃないかな」

「ううん、手間なんかじゃないよ。ナツメちゃんと一緒で嬉しい」

 志乃は微笑んだ。その笑顔には、影のひとかけらも見つからなかった。

 以前ならば、さらに信頼を寄せていたところだ。だが、今はどうにも気持ちが乗らない。 

 ナツメは、志乃の言うことに引っかかりを覚えるようになっていた。これまで、彼女とは気が合うのだと思っていた。なぜなら、志乃はナツメの趣味や気持ちを、何でも受け止めてくれたからだ。

 けれど、それはきっと違ったのだ、とナツメは考えていた。本当に気が合うなら──いや、気が合わなかったとしても、同じ人間であるならば、ナツメの母が死んだ話を「良かった」と笑顔で受け入れない。母がこの町を嫌っていたとしても、だ。

 確かに母は、非の打ち所のない人間ではなかった。それでも、友人たちの言葉は言い過ぎのように感じていた。あの件で、ナツメの心は友人たちからかなり離れていた。

「先生は、体育館の後ろで見学してもいいって言ってたから」

 それとなく、別行動へ誘導しようとする。だが志乃は、笑みを深めて首を横に振った。

「いいって。なんで遠慮するの。私とナツメちゃんの仲でしょ」

 志乃は、こんなことを言う子だっただろうか。以前はもう少し控えめだった気がする。

 それとも、ナツメが彼女の、自分に同意してくれるところ以外のことを、何も知らなかったということなのだろうか。

「ナツメちゃんが困った時は、私がどんなに大変でも必ず助けてあげる。親友って、そういうものだよね」

 少女の屈託のない笑顔を、直視していられなかった。

 息苦しくなり、目を逸らした。美術室は校舎の外れにあるから、授業開始五分前を切った廊下には、誰もいない。なのに、次の言葉を発するために吸える空気が乏しいように感じた。

 ──自分がどんなに大変でも必ず助けるのが、親友。

 それが今まで聞いてこなかった、志乃の考えなのだ。

 ならば逆の状況になった時、ナツメは彼女のために、身を削るのが義務になる。

 これまで志乃は、ナツメに対して散々そうしてきたのかもしれない。ならば、厚意に応えるのが義理なのだろう。

 だが、嫌な予感がしていた。

「そこまでしなくても」

 ナツメは、なんとか言葉を絞り出した。

 彼女の言うことを受け入れてはいけない。そうナツメに思わせたのは、友情ではなく、警戒心だった。

「するんだよ」

 視界の端から、日に焼けた手が伸びてきた。

 指がナツメの頬を掴み、捻った。強引に隣を向かせられ、志乃の笑顔が正面に来る。

「こっち見て。笑って。友達との会話なんだから」

 遊びに行った先で写真を撮る時のように、無邪気に言う。

「私たちは仲良し。ナツメちゃんが好きなものは、私も好きになってあげる。一緒だよ。何も違わない。そういう仲間がいるのは、楽しいでしょ。なら、笑わないとおかしいよ」

 笑って。

 どうして笑わないの。

 志乃は、繰り返し言う。

 笑えるわけがない。ナツメは目を逸らした。

「時間がやばいよ。早く授業に行かないと、遅れちゃう」

「ナツメちゃんは真面目だなあ」

 志乃は指を離した。唇を尖らせてこそいたが、声には笑みが混ざっていた。

「急がないと先生が困っちゃうね。行こう」

 ナツメは曖昧な笑みを返した。

 話を気持ちよく聞いてくれていた。たったそれだけで彼女を信じきっていた自分を、後悔していた。




 特別行事の時間がやってきた。会場は体育館だった。

 ここでナツメは、初めてまともに、この学校の生徒全員を見た。皆、似たような雰囲気を醸し出していた。姿かたちはもちろん違うものの、皆同じようなまったりとした空気を漂わせている。これは学年問わず共通しており、学年ごとに変えているという上履きの色がなければ、学年の見分けすらつかないほどだった。

 開始時刻になると、生徒たちは大人しく指定の位置に座った。司会の生徒が特別行事の流れを説明する。大学生や社会人の話を聞いた後、自分たちの将来について話し合うという展開になる。

 壇上に九人の講師が並び、順番にテーマについて語っていく。自分たちの高校時代について。大学での生活や就職先での勤務状況。生活の楽しみ。受験や就職活動で心掛けたこと。大学卒業後や今後の展望。

 ナツメは講師らの話に耳を傾け、メモを取る。この地で生きていくつもりはないが、参加するからには、聞いたことを書きとめておくかと考えたのだ。それに、何もしていないと、眠ってしまいそうだった。

 話の切れ間に、周囲の人々を眺める。

 生徒たちは、ひたすらに講師の話を聞いていた。ナツメの見える範囲に、私語をしたりスマートフォンを弄ったりする生徒はいない。だからと言って、熱心に聞いている風でもない。皆、ぼんやりとした目を宙へ漂わせている。中には、午後の陽気に誘われて微睡んでいる者もいた。

 講師たちは、身近にある業界から一人ずつ呼ばれているようだった。高校生と大学生に始まって、農業や工業に従事する人、飲食店経営者、公務員などの社会人が続いた。よくこの平日に、小さな中学校へ出向いてくれる人間を揃えたものだと、ナツメは感心した。

「以上で先輩方の話を終わります」

 講師たちの話が終わった。

 司会を務める進路係の生徒が、マイクを手に喋る。

「十分の休憩の後、先輩方とお話しする班別のグループトークに移ります。移動をしておいてください」

 数人がぱらぱらと立ち上がり、体育館の後方へ歩いて行った。トイレへ行くのだろう。

 ナツメは志乃と共にグループトークの班のもとへ移動する。彼女らの班は、体育館のステージ下に陣取っていた。

 すでに移動を終えた数名の生徒達が、床の上に円形を作り、くつろいで座っていた。彼らの前には一様に真っ白なレポート用紙が広げてある。寄って来たナツメ達に気付くと、にこやかに会釈をして座れるだけの空間を空けた。彼女も頷き返して座った。

「レポートに活かすんだっけ」

 二人が座ったのを見届けると、隣の生徒たちは顔を見合わせて話の続きを始めた。

「よく分からなかったよね」

「そうだね」

「やっぱりね」

「そんなもんだよ」

 彼らは微笑みを交わし、白紙を見下ろした。

 あとからぱらぱらとグループメンバーがやって来て、円に加わる。その中には、クラスメイトの朱姫葛もいた。気づいた志乃が手を振っても、軽く片手をひらめかせ、その場に座りこんだ。こちらには寄ってこない。

 日頃、朱姫葛の様子を見ているに、彼女はクラスの異分子らしかった。

 朱姫葛はいつも一人だった。クラスメイトは、必要があれば彼女に声をかけるが、それ以外は絡もうとしない。朱姫葛も話しかけられれば答えるものの、必要最小限しか喋らない。休み時間はいつも一人で本を読むか、外を眺めてぼんやりしている。移動教室も一人だ。

 彼女がいじめられている、または逆に誰かをいじめている様子はなかった。クラスメイトが彼女に後ろ指をさす様子もない。

 それなのに、朱姫葛とクラスメイトの間には、明らかに見えない壁があった。周りのクラスメイトたちが和やかに談笑する傍ら、朱姫葛は独り、凍りついたような顔で淡々と過ごす。それが、クラスの日常だった。

 やがて休憩が終わり、先程話をしていた講師のうちの一人が、ナツメたちのグループのもとへやってきた。市街にある大学へ通う男子学生だった。

「経済学部三年の森沢です。よろしくね」

 森沢は、明るく挨拶をした。癖のある髪が黒々とうねっている。頭髪の印象の強さに対して、眉の毛の細さが何だか合っていなかった。頭髪を明るくしていたのを、就職のために黒く染め直したのだろう。地毛は、もう少し明るいに違いない。

「君たちの人生の夢を捉える手助けをしに来ました。みんなの自己紹介を聞いてもいいかな」

 班のメンバー──朱姫葛以外──は人懐こく笑って答え、順番に自己紹介をした。

 この時間、生徒たちは将来自分がやりたいことについて語り、それを具体化するための助言を、友人や講師からもらうという手はずになっていた。すでに、前日までの課題で発表内容をまとめてきてあるので、今日はそれをもとに話せばいいらしい。

 講師の右隣に座る者から、順番に発表していく。

 まずは、同級生の小楠が立ち上がった。体格が良く、肌が白い彼を、ナツメはつねづね福助人形によく似ていると思っている。

「僕は、商業高校を卒業して調理の専門学校へ行き、家業のうどん屋の従業員になります」

「いいね」

 森沢は身を乗り出した。

「そのうち、うどん屋を継ぐのかな。継いでやってみたいことはあるの?」

「いや、別に」

 小楠はふくよかな肩をすくめた。

「最終的に、みんなの助けになれば何でもいいです」

 次に、学年で一番背の高い梁川。

「農業大学校へ行って家業の農家を手伝います」

 森沢は梁川の方を向く。

「えらいね。何を作るのかな? どんな農家になりたい?」

 梁川は骨ばった手を振った。

「俺も、爺ちゃんの代から全部決まってるんで。みんなの助けになるためにやっていきます」

 その後に、一年生と三年生も続けて発表していく。

 近場の大学に進学して会社員になると言った生徒が、三人いた。森沢にどんな会社がいいかと聞かれ、全員が何でも良いと答えた。

「みんなの助けになれれば、どこでも変わりません」

 すぐに地元の店舗や工場に勤めたいと言った生徒は、五人いた。その職場の魅力を訊ねられると、実家に近くて通勤が楽なことだと答えた。

「みんなの助けになるために、ここで生きることが大事なので」

 話を聞くうち、ナツメは、自分でも形容しがたい不思議な感覚に囚われはじめた。

 何かが、変だ。

 ──どれも、もっともなんだけど。

 自分の将来像が、はっきりと定まらないのは普通だ。ナツメとて、自分のこれからに対する希望を、明確に口にすることはできない。たとえば行きたい高校や、暮らしたい地域の雰囲気などの部分的な希望はあるが、将来どの職業に就きたいかと聞かれたら、あやふやな部分がある。全体像を事細かに語れと言われたら、絶対困ってしまう。

 この生徒たちも、希望を語っている。だがその様子に、何とも言えない違和感を覚えていた。

 驚いたことに、唯一違和感を覚えなかったのは朱姫葛の発表だった。大学に行って学芸員か司書の資格を取りたいと話した。これといって掘り下げたい研究対象があるわけでもなければ、司書になって何をしたいという明確な目標があるわけでもないが、これから様々な経験をしていく中で色々と追究して行けたらいいと思っている。そう答えていた。

 森沢の朱姫葛への質問は、「通いたい大学は具体的に決まっているのか」だった。史料や本に興味のないタイプらしい。

 最後に発表したのは、志乃だった。志乃は町役場に勤めたいと語った。

「父が町役場に勤めている様子を見ていて、他の市役所ほど忙しそうじゃないし、家庭のこととも両立がしやすそうだなと思ったのがきっかけです。何より、安定した収入があって、みんなを支えやすいのが魅力的だなと思いました」

 班の生徒たちは、彼女の言葉を聞いて小刻みに頷いていた。

 森沢は、困ったような顔をしていた。

「素敵な目標だね。じゃあ、安定した生活の中で何かしたいことはあるかな」

「これと言って特にないです」

「仕事の目標はないの? 夢は?」

 志乃が首を横に振ると、森沢は続けて聞く。

「趣味でもいいよ。海外旅行に行きたいとか、お金をどのくらい貯めたいとか、アイドルのライブにたくさん行きたいとか」

「目標と夢と趣味は、ないといけないものなんですか」

 志乃が訊ね返した。

 予想していなかったのか、森沢は言葉に詰まった。

「それは」

「私の父は、町の人がいつも通り過ごせるようにするのが仕事です。そこに、父個人の夢や目標は必要ないんじゃないでしょうか」

「え。ああ」

「私たちは、中学校だって地元にいるために選んだんです」

 最近は私学の中学校に通うこともできるようになってきた。私学は設備がきれいで、自分の能力を伸ばすために色々してもらえる。

 志乃がそう言うのを聞き、ナツメは初めて、この県では私立の中学校が一般的ではなかったことを知った。

「でも、自分の能力なんてそんなにいらなくないですか」

 志乃はにこやかに言う。

「何はなくとも、地元で働くのが一番ですよ。昔からよく知ってるみんなで支え合える。町の大人は、地元の中学校出身だって言うと安心するし、子どもがいると賑やかでいいって言います」

 面白いものなど、ない。

 けれど、そのような、穏やかな人とのつながりしかないところが良いのだ。

 志乃のそんな言葉を聞いて、町内出身の生徒たちは、笑顔で何度も頷いていた。

「それで、十分じゃないですか」

「僕も、聞いていいですか」

 小楠が小さく手を挙げた。

「うちは店なんで、よくお客さんと世間話をするんですけど、みんな、食べるために生きてるって言います。人は生きるために食べるわけだから、つまり生きるために生きてるんじゃないんですか」

「はあ」

「うちの親父は、一日中うどんを作って生きてます。商売をして、生活費を稼いで生きてるわけです。つまり、仕事も生きるためにすることですよね。目標とか夢っていうのも、生きることと同じじゃあ駄目なんですか」

「駄目ということは、ないと思うけど」

「けど?」

 高校生たちの視線が森沢に集中する。じっと凝視され、たじろぐ。

「君たちは、それで満足なのか」

「どうしてそんなことを聞くんですか」

 志乃が心底不思議そうに訊ねる。

「だって、君たちの人生なんだよ。特別なことをしたいって思わないのか。君たちの言い方だと、まるで君たちらしいことが何もない」

「十分特別ですよ。ねえ?」

 志乃がグループを見回すと、皆が頷いた。

「私たちに個性は要りません。この町で、親のやって来たことを継ぐなり、他の誰かがやって来たことを継いで、この地で死ぬ。そうやって、土地を活かし続けることが一番なんです」

 朱姫葛以外の全員が、再度頷いた。

「特別な目標や夢は必要ありません。住む家があって、働く場所があって、生きるために要るお金を稼いで、ご飯を食べて、寝て、遊ぶ。私たちが望むのは、そんなずっと変わらない平凡な生活です」

 志乃の言葉に、生徒たちは顔を合わせて我が意を得たりと言いたげに微笑む。

 穏やかな空気は、共感し合える仲間のいる安心感と、仄かな諦めの香りがした。

 森沢は頭を掻いた。助けを求めたいのか周囲を見回したが、他の講師たちはそれぞれの受け持ちのグループにかかりきりで、教員は彼らから遥か遠い体育館のきわで、その様子を眺めている。

 彼は己のグループに向き直り、そうなんだと笑顔を作った。

「じゃあ、先の話は一度置いておこうか。今は、何をするのが好き?」

「線香花火」

 誰かが答えた。

「花火?」

「線香花火じゃなくてもいいんだけど、すぐ終わるやつ」

「楽しいよね」

「ショート動画も楽」

「地面で転がってる蝉も好き」

「風船を割る瞬間もいい」

 ほとんどの生徒が目を合わせ、楽しいよね、と微笑み合っている。

「どこが楽しい?」

「すぐ見られて、短くて、テンポが良いところ」

「暇つぶしになれば、それでいいんです」

 志乃が笑顔で言う。

「土地を活かし続けることができるなら、他は何でも」

 森沢の質問は、また止まってしまった。

 彼の完全に下がりきった眉を見て、彼は今、自分と同じような胸中でいるのだろうと、ナツメは思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る