7 そばにいるもの
7-1
金曜日の夕方、学校を終えたナツメは私服に着替え、檜と共に家を出た。東京の祖母の家へ向かうのだ。所持金が二人合わせても三千円しかないのが心許ないが、行くしかない。電車が使えなくとも、歩く覚悟はできている。
檜の子ども向けスマートフォンにナビ機能が入っていたので、それを使って向かうことにする。現在地と目的地の住所を入力すると、移動にかかる時間が表示された。気の遠くなる数字が出たけれど、ここにいるよりマシだ。弟に所要時間を伝えてみても、自分同様、家を出る決意は変わらないようだった。
ナビを使うとなれば、両親のスマートフォンで探知される可能性が高い。ナツメは出発の前日に、父のスマートフォンを操作して弟のGPSの情報を削除した。母親のスマートフォンは、ナツメとの壮絶な喧嘩をした日以来、まったく見かけていない。池の底に沈んでいるのかもしれない。
家を出てすぐ、ナツメは確認を兼ねて言う。
「町を出ないうちは、人目につかないように気をつけよう」
檜は頷いた。
「山沿いの道を歩くんだよね。覚えてるよ」
人目を避けるための道筋は、すでにナビの地図を検討して決めてあった。
まずは、我気逢町から隣のA市へ出る。その後、A市の中心を貫く大きな道路に沿って東京へ向かう。それだけだ。移動時間がかかっても構わないから行ってみようと思えたのは、この道のりの単純さのおかげでもあった。
問題は我気逢町からA市へ出るための道路が一本しかなく、車がたくさん行きかうために人目に触れてしまうということだったが、幸運なことに解決策が見つかっていた。道路から小さく細長い林を挟んだ山沿いに、道路と並行して走る細い道を見つけたのだ。我気逢町を抜けてしまえれば、道も歩行者も多くなる。町を抜ける直前で林を横断して目当ての道路へ戻れば、あまり注目されずに済むだろう。
財布、飲み物、菓子パンやタオルを入れた鞄を背負って歩く。今日も空は雲で覆われている。強すぎる太陽を遮ってくれるのはありがたいけれど、昨夜の雨の跡が夕方になってもまだ乾かないのは困る。地熱を肌に伝える湿気が煩わしい。これから長い間歩き続けなくてはならないのに、余計な汗をかかされて嫌だ。
家の立つ丘を下り、橋を渡り、しばらく道沿いを歩いて町唯一のコンビニの脇の
道幅は狭く、軽自動車が一台通れるかどうかというほどだった。これなら、少なくとも車に追われることはないだろう。気持ちに少しゆとりができ、辺りを見回してみる。
小径の脇には、家がほとんどなかった。畑ばかりが広がっている。何が植えてあるのかいまいちよく分からないが、ミニトマトの青い実がついているのだけは分かった。人間の気配は、まったくない。この蒸し暑さのせいか、野良作業をする住民などもいないようだった。
道が徐々に上っていくにつれ畑が減り、木々に囲まれるようになる。小径は本格的な山の急勾配へ到る手前で未舗装の砂利道に変わり、緩やかにカーブして木立の間へと続いていた。
「この道がそうだよね」
「うん。合ってる」
檜はスマートフォンを眺めている。
ナビを見るのは、弟に任せていた。昨夜からそわそわとしていたので、道に集中していた方が気が逸れるかもしれないと考え、この役を頼んだ。予想通り、スマートフォンを握りしめる弟は、昨日より落ち着いているように見える。
ナツメたちは木立に囲まれる道を急ぐ。
今のところ人通りはない。しかし、いつ住人に見られるとも分からない。住人でなくとも、不審な人物がいる可能性だってある。本当なら、こういう人目のない道はあまり通るべきでない。心に疚しいところのある人間は、人目を避けるものだ。
弟をスマートフォンに集中させておく都合、周りを見て危険をいち早く察するのはナツメの役割になる。だから行き先だけでなく、木々の隙間、藪の向こう、背後の気配まで警戒しながら歩く。
──ちょっと、暗い感じがして嫌だなあ。
時刻は十六時を過ぎたところだ。まだまだ日が暮れるには早いはずなのに、景色がやけに暗い気がする。
「狭い道だね」
檜が声をひそめて言うのを聞いて、ナツメは気づく。
暗さの原因は、道に対する森の近さと密度にあった。風雨にさらされて色褪せた幹は、ナツメたちが少し道の端へ寄って手を伸ばせば届くほどの位置にある。しかも樹木は首を目一杯上に向けても頂点が見えないほどに背が高く、一本一本の間隔が狭い。だから、密に生えた枝葉で空が覆い隠され、森の隙間の影が濃くなり、日没頃に似た景色に見えるのだった。
「うん。車に追われそうになくていいけど、暗くて嫌だな」
ナツメが言うと、檜は慰めるように返した。
「森に飲まれずに道が残ってただけ、運が良かったと思うよ」
「ああ、そうか。そうかもね」
人の手の加わっていない、植物本来の生命力の強さは、ここへやって来て覚えたものの一つだった。特に、梅雨入りしてからの勢いはすごい。剥き出しの土の地面をたった一日で緑が覆う様には驚いた。
檜の視線が、スマートフォンの液晶画面から足元へと落ちる。
「誰かが手入れしてくれているのかな」
「どうして?」
「だって、こんなに雑草がない」
「日差しが入らないからじゃないの」
ナツメは空を見上げる。小径の真上は繁った枝葉が細くひび割れ、曇空がほんの少し顔を覗かせていた。
この空の径は、二人が歩く間、ずっと頭上に続いていた。
人の気配はない。そのため、いつしか足元と頭上に連なる二つの径について考えはじめる。
──どっちが先にできたんだろう。
木々の群れの裂け目に添って、地上の道ができたのか。
それとも、誰かが木を切り倒したから裂け目ができたのか。
ナツメは森のことも木のことも知らない。そういったものと共に暮らすということも、まだよく分かっていない。だから区別がつかなかった。
「ナビでは、あとどのくらいで町から出られるって言ってる?」
「もう少しだよ。二〇〇メートルくらい」
あと一息だ。
ナツメは気合を入れて小径に向き直り、木々の隙間へ目を凝らす。変わらず、特に異常はなさそうだ。右手は依然として急勾配で上が窺えず、左手側には緩やかに下る林が広がっている。下る斜面の向こうには、二人の目当てであるA市行きの道路は見えない。ひたすらによく似た木々が佇み、丈のない下草の生えた薄暗い景色が続いている。
道路が見えないだろうか。
集中して林を観察する。だから、ナツメが異変に気づくのは早かった。しかし口にするかどうか迷ったために、それに近づきすぎた。だから、檜にも気づかせることになってしまった。
檜は、姉の異変を敏感に悟ったらしい。きょろきょろする弟にはっとしたナツメが制するより先に、低い木立の隙間に目を止めて顔をこわばらせた。
暗い林の中に、母がいる。駆け寄るでもなく怒るでもなく、ただ佇み、じっとこちらを見つめている。
「姉ちゃん」
「分かってる。今考えてる」
掠れた声で呼ぶのに、小声で返事をする。
「そろそろこの坂を降りないと、A市に行く道路に行けないよ」
「ねえ。あのママ、変じゃない?」
ナツメの意図を受け取りかねた檜が首を捻る。
「何が」
「最近のママなら、あたしたちを見つけた瞬間に声をかける。けど、あそこにいるママは、あたしと目が合ってから二分くらいずっとあのままなの」
「別に、変でも何でもないよ。本当にママだよ。昔からそうだった。本当に機嫌の悪いママは、怒る前にいつもそうやって黙ってたでしょ」
檜はナツメの腕を掴んで揺さぶる。
ナツメは呟く。
「そうだね。池で死ぬ前のママはそうだった」
二人が話している間も、母はこちらを見つめている。表情はなく、直立不動のままだ。
今朝と恰好が違う。学校へ行く前に見た母は、髪を一つに束ね、シャツと幅広のズボンを着ていた。
今目の前にいる母は、乱れた髪を束ねも整えもしていない。着ている服は、しばらく着ているのを見ていない、引っ越す前によく着ていたAラインのワンピース。一ヶ月前に壮絶な喧嘩をした日も、あれを着ていた。
ナツメは呟いた。
「あれは、死んだ本当のママだよ」
檜はきょとんとする。しかし、姉が本気で言っているらしいと察すると、ぎこちない笑みを浮かべた。
「何言ってるの。じゃあ、あれは幽霊だって言いたいのかよ」
「うん」
「でも、足がある」
佇む母は、白いパンプスを履いている。
ナツメは首を振った。
「こんなところまで探しに来るのに、普通パンプスなんて履かない」
考えるほど、あそこにいる母は生きる人間の理屈から外れているという思いが強まる。
──どうして、いまさら出てきたの。
ナツメはしばし呆然としていたが、腕に痛みを覚えて我に返った。
檜が、掴んだままの腕を強く握りしめていた。爪が服越しに食いこみ、細かく震えている。母親を凝視する目は見開き、顔には血の気がない。
そんな弟の様子を眺めているうちに、ナツメの頭から母親への恐怖が消えていった。
腕にしがみつく指をもう片方の手で包む。不安げに見上げる弟に向かって、ナツメは微笑んでみせる。
「そろそろ下の道路に降りようか」
「あそこにいるのに?」
檜はこわごわと母を窺う。
ナツメはなるべく明るい調子で言う。
「幽霊が人間に何かするとは限らないでしょ。だいたい、あれが本当に幽霊なのかも分からないんだから」
「そうかな」
「檜は耳を塞いで、転ばないように足元だけ見て歩いてよ。あたしが腕を持って引っ張っていってあげる」
「でも、姉ちゃんは」
「あたしは大丈夫だから」
ひとりだったら、きっと迷わず来た道を引き返していた。けれど、今は行ける気がする。
ナツメは、檜にくり返し大丈夫だと言い聞かせた。しまいに彼は腹をくくり、共に林を抜けることを決めた。
「何かあったら言ってね。姉ちゃんに任せっぱなしじゃなくて、俺もちゃんと自分で逃げられるようにするから」
「分かった」
精一杯強がる檜に耳を塞がせ、母親の方を見ないように顔を逸らしたのを確認する。それからナツメは弟の腕を引き、慎重に緩やかな坂道を下りはじめた。
なるべく母に近づかないよう注意しつつ、けれど隙を作らないために視界の端にその姿を収めながら、林間を歩いていく。たまに檜の様子も窺い、転ばないよう、また母を見ずに済むよう、気をつけてやる。
細心の注意を払いながら歩いているからか。これまで気にならなかった森のささやかな音が、強く耳を刺す。
踏みこんだ靴の下で、枝の割れる音。
空を覆う木の葉のざわめき。
どこか遠い鳥の囀り。
まだ、車の音は聞こえない。
気を張って歩くナツメの視界の隅で、母の姿が大きくなる。母は、最初に見つけた位置からずっと動かない。ひたすら首を巡らせて、こちらを見つめている。
ついに、母のいる高さまで下りてきた。
車の音が聞こえてきて、ナツメは木立の先を見る。木々の向こうにコンクリートの道がある。出口はすぐそこだ。
──駆け足で一気に行けるかな。
見たところ、木の根などが複雑に張っている様子はない。ナツメがよく道筋を吟味すれば、運動神経のいい檜のことだから、うまくついて来てくれるだろう。
ナツメは走るべきコースに当たりをつける。そして、一思いに駆け出した。
母の声がした。
「やっぱり私を置いていくのね」
何の心も乗っていない声だった。
ナツメは振りきるように走る。檜もうまく足を運び、転ぶことなくついてくる。
そうして二人は道路へ出た。
出るなり、檜は手を耳から外して言った。
「姉ちゃん、大丈夫? 何もなかった?」
幽霊の声は、耳を塞げば防げるものなのか。
ナツメはなんだか可笑しくなって、笑ってしまった。
「うん、平気。急ごう」
ナツメは弟の手を引き、早足で舗装された道をたどりはじめる。
まだ道路の左右には、人の手の入っていない木々が並んでいる。けれど、車の通る大きな道が近くにあるだけで落ち着く。二人を追い越すように通り過ぎていく車の中に、知った顔は見当たらない。自分たちを探している素振りや、訝しがられている風もなさそうだ。
──早く、早く。
あの町から離れたい。
町で起きたすべてをなかったことにしたい。
自分は母を見捨てたわけではないのだと、誰かに言ってもらいたい。
ナツメは道の先だけを見据えて、一心に歩く。
灰色の道の両脇が次第に人家や店で賑わい、自分たちと同じような歩行者が増えるのを期待して、歩き続ける。
やがて、道は左の林の向こうへ大きく曲がる。その通りに歩いていったナツメは、林で見えなかった先の景色を前に立ち尽くした。
目の前に、青々とした田畑を挟み、慎ましい家々が軒を連ねる景色が広がっている。
その中に、見覚えのある赤い三角屋根がある。
「え?」
檜がポケットにしまっていたスマートフォンを取り出す。ナビアプリを起動する液晶を、ナツメも一緒に眺める。
アプリの示した地図の中心に、自分たちの位置を表す青い丸がある。そのまっすぐ先──ちょうどあの赤い三角屋根のある辺りに、「自宅」の文字の埋めこまれた家のアイコンが表示されている。
ナツメたちは来た道を振り返る。
その道は、越してきてからもうとっくに見慣れてしまった、自分たちの家の北にある、山の中へ続く道路だった。
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