6-6
気がつくと、知らない板目の天井を眺めていた。
園藤は四畳一間の和室で寝ていた。横になっている煎餅布団は少しカビ臭い。古びた砂壁に古風な箪笥。その他、鞄、古い雑誌の山、座椅子などの雑多なものが壁へ寄せてある。
ここはどこだろう。
見慣れない雑然とした部屋に気を取られていたからだろうか。起き上がるまで、自分の枕元に人がいることに気づかなかった。
「おお。やっと目が覚めたか」
後ろから声をかけられて驚く。
上体を巡らせてみると、自分の寝ていた枕元の壁に、老柳が寄りかかって座っている。
なぜここに彼がいるのだろう。それを真っ先に思ったはずなのに、自分に一番近かった足先を覆う靴下が思考を奪う。彼の靴下には、トラバサミに挟まれた人間の足が、アメコミチックに描かれていた。
「ひでえ足下だな」
「大目に見てよ。病人のところへ行くには向いてない柄だとは思ったんだけど、急いで駆けつけたから、替えている暇がなかった」
「なんでお前がここにいるんだ」
園藤はやっと言うべき言葉を口にした。
「呼び出されたんだ。お前に用があって携帯に電話したら、店長が出てね」
老柳は店長と面識がある。先日老柳がここへ滞在していた間に、園藤が客として店に連れていったからだ。
「バイト中に急に倒れてしまって今困っている、心当たりはないかって言うから、驚いたよ。それで急遽、今日最後の急行を使ってここまで来た」
俺は倒れたのか。
園藤は、シフトを終えた記憶がないことに気がついた。ならば、今いるここは店舗の二階にある店長の居住スペースか。これまで立ち入ったことがなかったから、知らなかった。
「店長は」
「買い物に行くって言って、外に出てる。後でお礼を言った方がいいよ。倒れたとはいえ、救急車はいらないから寝かせてくれって言うバイトを、要望通りに自分の部屋で寝かせてくれたんだから」
「そうなのか」
「他人事みたいな言い方だな」
「いや、覚えてないんだ」
覚えているのは、店長から聞いた昔の事件のこと。それと、嫌なもの。
園藤は頭を押さえた。思い出したくない。きっと、睡眠不足のせいで幻覚を見たのだ。そう思いたい。
老柳は膝に乗せていたノートパソコンを閉じる。園藤が寝ている間、そこで作業していたようだった。
「店長が心配してた。最近、お前の調子が悪そうだって」
「ちょっと寝不足だっただけだ」
「お前が寝不足で倒れるか? バイトには絶対遅刻も欠勤もしない、腹が痛くても気合いで行くお前が? 徹夜してからバイトに行くなんて今までもしょっちゅうしてたけど、倒れたことは一度もなかっただろ」
老柳は疑わしげな目を向ける。
「本当にどうしたんだ。顔色も変だし、なんだか様子がおかしいぞ」
「おかしくなんかない」
「いやいや。無理するなよ。正直に言ってみろって」
「平気だ」
納得できなそうな老柳がなおも言い募ろうとした時、部屋の襖が開いた。
店長だ。
「おう。目が覚めたか」
「すみません。寝かせていただいてしまったみたいで」
「それはいいけど、あんまり無理するなよ。若い時の無茶は後々祟るぞ」
「布団、片付けます」
「いい、いい。そのままにしとけ。どうせ明日干すから」
園藤が掛け布団を畳もうとすると、店長に止められた。
「あと、勝手に老柳君からのお前宛の電話に出ちまって悪かったな」
「いや、大丈夫です。迷惑をかけてしまったのは俺ですから」
「気にするな。養生しろよ」
店長に見送られ、園藤と老柳は店を後にした。
雨はもう止んでいた。温い空気はアスファルトより立ち上る雨水をたっぷりと吸い、ひどく重い。灯りを落とし、夜の暗闇をそのまま嵌めこんだ窓ガラスを抱える建物の群れも、涙で潤んだ暈を帯びたようにどこかぼやけて見える。
園藤はスマートフォンを確かめる。時刻は日付を越したところ。終電はもう行ってしまった。この不快な湿気の中を歩いて考えることを思うと、気が滅入る。
「今日は泊めてくれるよな」
老柳が言う。
「車は?」
「乗ってきてない」
「冗談だろ」
園藤が返事をしないでいると、本当だと察したらしい老柳が駅の方へ向き直る。
「なら、タクシーでも捕まえて帰るか」
タクシーなら楽だろう。分かっているが、気が進まない。
──車には、必ずあれがついている。
鏡。ガラス。プラスチック板。僅かな影でも掬い取って映す物ばかりある。
「いい。歩いて帰る」
「倒れたくせに、何言ってるんだよ」
老柳はしかめ面をする。
「宿代替わりに僕が払ってやるから、奢られとけ。ほら、行くぞ」
立ち尽くしていると、老柳が強引に背中を押してきた。園藤は観念して歩き出す。
気力はすでに、限界に近づいていた。
顔を伏せてタクシーに乗り、己の足だけを見つめて家へ帰着するまでの時間をやり過ごす。運転手との会話も勘定も老柳がしてくれたから、それだけは助かった。
アパートの部屋に入った老柳の顔を見て、園藤はもう誤魔化せないと悟る。室内を前に、友人はすっかり笑みを消していた。その隣で、園藤もまた、改めて自分の部屋を眺める。
カーテンを閉め切ったワンルーム。八畳の部屋には、いつものように卓袱台一つしかない。キッチンには、拾ってきた新聞紙を敷き詰めて、テープで固定してある。まな板一枚を置けるだけの簡易な作業スペースも、流し台も、コンロも、すべてが灰色の紙面と活字で埋まっている。
老柳は靴を脱いで上がり、風呂場の扉を開けた。中を覗くために横顔は見えなくなったが、どんな景色を見ているかは知っている。タオルで覆い隠された鏡。養生テープのぐるぐるに巻きついた、蛇口やシャワーの金属部分。そんな、何一つ反射するもののないユニットバスがあるはずだ。
静かに風呂場の戸が閉まる。老柳はこちらを向いた。
「園藤、話せるかな」
茶化す調子のない、落ち着いた声色だ。
「何があった」
もう、いいか。
園藤は観念して、口を開いた。
「影がついて来るって言ったら、笑うか」
「どんな」
老柳は真剣な顔で問い返す。笑いだす様子はない。
園藤は恐る恐る、ここ一ヶ月で起きたことを話す。
車のバックミラーに小さな影が映り始め、人の形になり、ついてくるようになった。その影が鏡に映る気がして、覆い隠した。
「それだけじゃない。鏡を隠した後も、自分の姿が少しでも映るような反射のあるものに、何かが映るんじゃないかと怖くなった。それで、こうなった」
台所は床と天井以外、どこもかしこも、銀色に反射する素材でできている。だから、新聞紙で覆った。料理をするのもやめてしまった。
風呂場の金属も同様の理由で隠した。窓ガラスも、夜は特に怖い。自分以外の何かが映るのではないかという気がしてしまう。
そしてそこに映ったものが、もしも自分と同じ形をしていたら。
「店で倒れたのは、その心労のせいかな」
「いや。そうじゃない」
園藤は深々と溜め息を吐く。
認めたくないけれど、確かに見た。
「湯呑に、俺の後ろに立つ誰かが見えた」
「それは」
「恰好までは分からなかった。見えたのは、黒い胴体と腕だけだ」
しかし、その形には見覚えがあった。服までは見えずとも、その佇まいを何度も鏡で見てきた。
「ヨシヨシ生工からもらったものはないか」
急に、老柳がそんなことを言い出した。
「何ももらってないぞ」
出された茶も、結局飲まずに帰った。持ち帰ったものは本当に何もないはずだ。
「なら、荷物は? 持っていった鞄はどれだ」
「それなら、今持っているこれだ」
園藤が背負ったミニバッグを指さすと、老柳はそれを貸せと言った。手渡すなり、その場にしゃがみこんで中身を取り出し始める。財布、スマートフォン、ティッシュ、皺くちゃになったレシートとマスク、車の鍵。
すべて出し終えた後、今度は鞄の生地をひっくり返すようにして中を見る。
「何もないか」
中身をまた鞄へ戻す老柳に、園藤は訊ねる。
「どうしたんだ」
「車の鍵、借りるよ」
こちらの問いには答えず、園藤は鞄を持ったまま外へ出た。仕方なく、後をついて行く。
アパートの骨組みに取り付けられた侘しい電灯に照らされながら、鉄骨の階段を下りて車のもとへ赴く。しばらく触ってすらいない軽自動車は、雨に吹き晒され、土埃で薄汚れている。
「君は明かりを」
園藤に指示し、老柳は勝手知ったる様子で車を開けて中を物色する。座席の上や下はもちろん、足元のマットやトランクの底板すら剥がすものだから驚いた。
「何をしてるんだ」
「お土産を持たされていないか、探してるんだ」
「どういうことだ」
説明は返ってこない。よく分からないままに、ぼんやりと見守る。
老柳は地面に四肢をつき、車の下を覗きこむ。自ら携帯式のライトを持ち、車の底面をまんべんなく照らしつつ、車体周りをぐるりと一周見て回る。
「ボンネットを開けて」
園藤は運転席のレバーを操作する。車の前面にて、薄い金属板が跳ね上がる。
老柳はエンジンルームをじっと凝視する。視線が隅から隅まで行き渡った頃、あ、と声を上げた。
「何だ」
こちらの問いかけを無視し、鞄からティッシュを数枚取り出す。
その手をエンジンルームの一角へ持っていく。行き先は、冷却タンクのごく近く。
ティッシュを引っかけた指先が、ボディの内側をなぞる。そして、ずるりと何かを摘まみ上げた。
園藤の喉から、蛙の潰れたような音が漏れる。
引き上げられたのは、黒く細長い五股の物体──
老柳はそれを、目線の高さまで掲げる。そうされた人形は、まるで、片手を掴んで引き上げられた小さな人間のようだった。それも、全身がだらんとして力が籠っていないために、より不気味である。死体みたいだ、と園藤は思う。
絶句する園藤をよそに、老柳はライトで人形を照らす。光の差す角度が変わる度に、反射する色が細かく変わる。何か細く黒い、糸のようなものの束をより合わせてできているらしい。
老柳は言う。
「これ、人毛だ」
園藤は何も言えなかった。やがて、老柳がこちらの様子を窺っていることに気づく。そこで初めて、もう嫌だと呟いた。
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