8-3
C町に行った翌日の午前、園藤と老柳は我気逢町を目指して出発した。
久々の快晴だった。いつも保育所のアルバイトに行く時は、夕方の暗くなっていく空を眺めながら通勤していたから、見慣れない明るい空を不思議に感じる。
──暗くなったあの辺りを歩くのは、もう嫌だ。
ヨシヨシ生工付近を目指さなくてはいけないのが嫌だった。けれど、他にどうしようもない。
しばらく進むと、道路脇に普段見かけない看板が立っているのに気づく。
そこには、こう書かれていた。
『本日、夏祭りのため交通規制あり』
車を道端で停め、看板の下に貼りつけられた交通規制の期間と場所と記した地図を確認する。役場を中心とした町の中央部へ繋がる主要な道路すべてが、終日通行止めになっているようだ。
ここに来て園藤は、今日が海の日であり、以前貝塚の言っていた夏祭りの行われる日であることを思い出した。
「しまったな。祭りがあることを忘れてた」
「なるべくヨシヨシ生工に近いところまで車を寄せよう」
同じように車を降りてきた老柳が地図の一角を指さす。見れば、ここからもう少し国道を進んだ先に、右手へと逸れる道がある。細い道のようだが、地図を見てみるに、どうも町の北端を走り、最終的には町役場の裏付近まで行けるようだ。
この道を行くしかない。園藤は車を地図で見た通り、少し進んだ先に現れた右手の道へと車を走らせる。峰迸川へ架かる橋を渡り、町の中でも特に山がちな地域へと進んでいく。途中で道幅が狭くなり、人家が少なくなったり急に傍へ深い森が現れたりと不安に見舞われつつも、どうにか役場北の終着点へとたどりついた。
田舎特有の自販機を置くためだけに敷いたらしいコンクリートのスペースを見つけ、その前へ車を停める。降りて、あたりを確かめる。町をあげての祭りが行われているせいか、来るまでの景色に人の姿をほとんど見なかった。ここも、人気がまったくない。すぐ傍に土手へと上がる階段があり、その向こうには、いつも通勤途中に目にしていた我気逢町役場の後ろ姿がそびえている。
どこか遠くから、笛や太鼓、
「さて、水場を探しに行くか」
園藤はややためらい、口を開いた。
「老柳。やっぱり、お前はここに残ってくれないか」
「え?」
老柳が目を丸くする。
園藤は唇を湿らせ、話す。
「ここに来るまでの間、ずっと考えてたんだ。車から離れている間に、また誰かに手を加えられたら嫌だ。だから、水場探しは俺一人で行く。お前には、この車を見張っていてほしい」
「そこまでしなくても、大丈夫なんじゃないのか。だって、このあたりには誰もいない。人形を仕込まれたヨシヨシ生工の敷地からも、離れている。祭りのある日にこんな所まで来て、車に細工するような人間なんていないよ」
考えすぎだと笑う老柳に、首を横に振ってみせる。
「いや。祭りがあるような特別な日にこそ、気が大きくなって普段しないようなことをする奴もいる。それに」
言いよどむ。
頭には、最後に保育所へ行った時に目にした、自分とよく似た姿の落書きが思い浮かんでいた。
「俺はもう、この町の誰もいない状態を信じられないんだ」
老柳は口を開きかけて、閉じる。
祭囃子が遠ざかる。
「一人で大丈夫か」
「もし見つけられなかったら、工場外の水道にでもこれを放りこんでくるよ」
冗談めかして答えると、老柳は頷いた。
「分かった。何かあったら、すぐ連絡する」
「悪いな。そんなに時間をかけないで戻ってくるから、待っててくれ」
園藤は例の人形の入った紙袋を片手に、小走りで役場の方へ向かう。
思いきってああ言ったものの、本当のところは、車を見張っておいてほしい気持ちと一緒に来てほしい気持ちがせめぎ合っていた。
明るい時間帯でも、一人であの会社の周りをうろつくのは怖い。しかし、この件に後腐れのないよう蹴りをつけたいと考えた時、また勝手に人形を押しつけられるようなことがあったら困る。その間で揺れに揺れて、偶然先ほどの決断に至ったのであって、だから走ってでも向かわないと、今すぐ回れ右して帰ってしまいそうなのだった。
三階建ての小さな役場の裏へ身をひそめ、様子をうかがう。役場前の広場は、イベント用の白いテントに囲まれて、人がごった返していた。屋台で買った食べ物を持ち歩く客や、着物を着て連れ立って歩く客もいる。いたって普通の縁日の様子に見える。
園藤は広場のテントにヨシヨシ生工の名前がないことを確かめてから、人の群れに加わった。広場を横切り国道に出ると、久々の通い慣れた道を上っていく。
国道の両脇には、色合い豊かなのれんを掲げる屋台が連なっていた。こちらにも人が多く、全面通行止めはこのためか、と考える。
ほぼ唯一の道路を塞いでしまって、あの会社の仕事は成り立つのだろうか。
どうでもいい心配を振り払い、先を急ぐ。
ソースや砂糖の焼ける匂い。老若男女問わず、あちらこちらで弾ける笑い声。裾に小花をあしらった、群青のそろいの浴衣。
平和な祭りの景色の中、食べ物や余興には目もくれず、足早に歩く自分。
──俺は、浮いて見えていないだろうか。
どうも心配になる。普段なら気にしないのだが、下手に目立ってヨシヨシ生工の人間に捕まることがあったら困る。
ひと思いに駆け抜けてしまおう。
園藤が足に力を入れて駆け出そうとした時、対面からやってきた老夫婦にぶつかりそうになった。
「すみません」
「大丈夫」
正面にいた老爺に謝り、かわして進もうとする。
しかし、目指そうとした先の空間に、また老爺がするりと入りこんできた。
老人は大きな笑みを浮かべて、言った。
「大丈夫。あなたは浮いていませんよ」
「え?」
園藤は目を瞬かせた。ふと周りを見回して、息が止まる。
こちらへ注がれる、目、目、目──周囲の客すべての目が、園藤へ注がれていた。
「あなたにも、立派な私たちとの繋がりがあります」
妻らしい老女が、にこやかに言う。
私たち、とはどういうことだ。
戸惑う園藤の、後ろにいる中年男が言う。
「今日来ることは分かっていました」
屋台で焼きそばを焼く若者が言う。
「待っていました」
行く先で綿菓子を持つ女が言う。
「やっぱり来てくださったのですね」
客たちは口々に話し始めた。
待っていた。
あなたは私たちだ。
歓迎する。
微笑みを浮かべて同じようなことを話し続ける人々の声が、やがて一つにまとまっていく。群衆の声は、渦潮のようになって園藤を取り囲む。
──どうなってるんだ。
立ちすくむ園藤に、後ろから声がかかった。
「やっぱり来てくださったのですね。お待ちしてましたよ」
聞いたことのある声だ。
背後をうかがって、たじろぐ。そこには、いつ忍び寄ったのか、クールビズ仕様のスーツを着た一団がいた。全員が似たような笑みを浮かべている。
先頭にいるのは、貝塚だ。
「あなたの様子を見て、私たちはよく学習しました。人間はどんなことを微笑ましいと感じ、どんな時に恐怖を感じるのか。人間との共存を学ぶには、身近に人間がいてくれるのが一番良い。その姿を見て、その真似をするのが、最も手っ取り早い学習の方法。あなたもそうでしょう?」
「何の話ですか」
園藤は後ずさる。
「今日は、一番海の近づく日。私たちになりに来たなら、一緒に行きましょう」
「違います。俺は、これを返しに来ただけなんです」
紙袋から人形を取り出そうとして、叫び声を上げた。
人形の手足と顔に分けられた髪が伸び、蠢いている。それはもはや人型ではなく、五つの首を持つ蛇に見えた。
園藤は咄嗟に紙袋の口を握り締め、坂道の上を目指して走り出す。貝塚の声がしたが、聞いていられない。一刻も早くこれを手放したかった。
息切れも構わず走り続ける。いつの間にか屋台は消えていた。代わりに、工場のフェンスが近づいてくる。
園藤は、水場がないか探す。フェンスの外は木々が並んでいるだけで、それらしい気配がない。雑草は予想より伸びておらず、その気になれば奥へ入っていけそうだが、なるべく山中に踏み入るのは避けたい。
園藤は工場のフェンス越しに、中の様子をうかがってまわる。長い棟が並んでいるばかりで、水場らしきものはない。人影も、いつものようにない。
ただし、一つだけ変化があった。
園藤のいる車道よりずっと遠く、敷地奥にあるコンクリート製の家。
一ヶ月前までアルバイトしていた保育所の扉が、開いている。その前に、見慣れない大きなリアカーが置いてあった。何か積んでいるようだが、上に群青の大きな布がかけられているせいで、よく分からない。
──こんなことをしてる場合じゃない。
園藤は己を急かす。けれど、戸口から人影が出てくるのを見つけて、動こうとした足がまた止まる。
保育所から出てきたのは、縁日でもよく見かけた、群青の和装に身を包んだ五人の子どもたちだった。子どもといっても、中には大人のような背丈をした子もいる。けれど、友人たちと無邪気に笑い合う様子から考えるに、中学生くらいだろうと思われた。
中学生たちは何か話しながら、リアカーの布を半分持ち上げる。園藤の方へ布をめくったため、積まれているものの様子はよく見えない。しかし、彼らが積み荷をかつぎ上げはじめたので、どんなものが積まれているのかは見えた。
形は、米俵に似ている。色合いは黒。しかし、日差しを跳ね返してつやつやと輝くだけのなめらかさと、金属の表面などとは違うざらりとした質感がある。
手の中で、紙袋が動いた。
園藤は中学生たちの作業場から目を引き剥がし、また駆け出す。幸い、追っ手はいないようだから良かったが、油断はできない。
正門は閉鎖されていた。フェンス伝いに歩き続け、敷地の終わりにたどり着く。困った園藤の目へ次に飛びこんできたのは、青い屋根を持つ、縦に長い建物だった。十字架こそ見当たらないが、教会に似た作りをしている。これが話に聞いていた、もう一つの目印だろう。
園藤は、背中を向けている教会へと近づいていく。そのうち、ずっと遠くに聞こえていた祭囃子が、大きくなっているのに気づいた。どうやら、教会の方から響いているようだ。
太鼓が拍動のように、低く地面を揺らす。笛と摺鉦の音は甲高く割れており、耳につく。まるで、極限に緊張しきった人間の放つ絶叫のようだ。
──これは本当に、笛の音なのか?
教会の正面にまわって確かめる勇気は出なかった。それより、水場だ。
そろそろと歩き、周囲を探索する。すると、教会からやや離れた木立の中に、古びた手水舎を見つけ、駆け寄った。かなり苔むした石でできているが、間違いなく中に水が沸いている。
なぜ教会の近くに手水舎があるのかと考えている余裕はなかった。園藤は手にした紙袋を開け、手水の上で紙袋を逆さにした。
袋より、ぞっとするほど質量を増した髪の塊が滑り出る。
水に落ちる瞬間、黒髪が園藤の手首へ絡まった。
園藤は、髪がひとりでに動いたことも、それが手を伝って首まで絡め取ったことも、満足に認識できなかった。悲鳴をあげる時間も、抗う隙も与えられず、彼は頭から手水舎に引き摺りこまれた。
水に顔面が叩きつけられる衝撃。全身が液体をくぐる感覚。認識できたのはそれだけで、あるべきはずの石底にぶつかることはなかった。
園藤はどこまでも深い水の中に落ちていく。視界が黒いもので埋め尽くされ、もがこうとする意識はやがて霧散していった。
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