4-2
今日も、保育所に親を待つ子どもは残っていなかった。子どもと帰る親の姿もない。
よほど残業に厳しいのだろうか。
そんなことを考えながら、清掃作業を始める。
今日はマットが何カ所か汚れていた。液体を零したらしい、大小の滲んだ円の染みができている。黒っぽいところをみるに、泥水だろうか。
園藤は頭を掻いた。泥汚れを落とされたのは初めてだ。おそらくマットを捨てても文句は言われないだろうが、染みは広範に少しずつ散っており、大して目立たない。このまま置いておくには気が引けるが、捨てるのももったいなくて迷ってしまう。
──染みを落とせないか試してみよう。うまくいかなかったら捨てればいい。
園藤は方針を決め、準備をして染みに向き合った。
埃を吸い黒くなった染みを、石鹸を含ませたぬるま湯につけた雑巾で叩くようにして擦る。汚れてからそれなりに時間が経っていたようで、落ちづらい。ひとまず雑巾をかぶせて放置し、他の掃除が終わった後にまた取りかかることにした。
高い所の埃を落とし、掃除機をかけ、水回りを磨く。そして、手のかかる黒板記録と清掃に取りかかった。
今日も黒板にはたくさんの落書きがあった。これまで一ヶ月清掃をしてきたが、子どもたちの書き込みが絶える日はなかった。日々文字と絵とどちらともないものが、これでもかと刻んである。その内容を見て、彼らが今日どんなことを考えながら過ごしたかについて思いを馳せながら落書きを消すのが、バイト中の習慣になりつつあった。
園藤は手際よく黒板を撮影していく。週三回も撮り続けてきたから、どの位置に立って撮れば取りこぼしがないかをすっかり覚えていた。
最後の一枚を取り終え、園藤は消す作業に取りかかった。大きなクリーナーを手に、文字や絵を見ながら消していくうち、ある文字が目に留まった。
「のなみ、だいごろう」
それは、隅の黒板に記されていた。たどたどしい子どもの筆跡で描かれた、見知った人の名前。
その名前は、この仕事を教えてくれたかつてのバイト先の先輩の名だった。
──どうして野波さんの名前が?
保育所の子どもと交流があったのだろうか。そうだとしたら、子どもが見知った人の名前を書くのは当然だから頷ける。
園藤は腰をかがめ、黒板の下の方を消しながら考える。
野波は、子ども達と交流しているようなことを言わなかった。居酒屋バイトの一環で街頭呼び込みをする時、野波が必ず目の合った子どもに声をかけていた姿を思い出す。バイバイ、や、おやすみ、くらいの些細な声かけだったが、あの様子を見るに子ども好きだったのだと思う。自分は縁談に恵まれなかったが甥っ子や姪っ子と遊ぶのは楽しい、と話をしていた記憶も蘇ってきた。
人と関わるのが好きで、かなりのお喋り。かつ子どもの好きな人が、保育所の子どもたちとの交流を語らないことがあるだろうか。交流があったならば、園藤にも少しくらい話している方が自然な気がした。
それ以前に、これは本当に野波の名前だろうか。園藤は自問して、首を振る。いや、彼の名前は確かにこうだった。バイトのチェック表に、本人が「野波大五郎」とサインをしていたのを覚えている。
同姓同名の別人という可能性もある。しかし、野波という姓はX県ではほぼ見かけない。同姓同名の二人が偶然この会社に関わっている可能性は低いように思う。
園藤は腰を伸ばし、先輩の名前と同じ平仮名を消す。その途中で、はたと手が止まった。
──落書きの位置が、高くないか。
園藤の身長は、日本人男性の平均よりもやや高い。子どもが──それも保育所に預けられるような子が、この高さに文字を書けるだろうか。
──台を使えばいけるか。
自分の身長ほどの高さを持つ台は、用具室にはない。あそこに入っているのは使わない机や椅子、古くなったおもちゃばかりだ。
──机を積み上げたり、脚立を持ってきたりすれば書ける。
しかし、それには大人の手助けが必要だ。たかが落書きのために、机を積み上げたり脚立を持ってきたりするだろうか。それ以前に、自分が保育士だったら幼児をそんな高い所に登らせたくない。怪我をされたら大変だ。
──大人が子どもを肩車すれば書けるかも。
「そうだ」
園藤はその考えを思いつき、頷いた。
どうしても高い所に落書きしたい子がいて、保育士にねだって肩車をしてもらって書いたのだ。きっとそうに違いない。
ほっとして、作業を再開する。うかうかしていたら施設が閉まってしまう。電話をすれば開けてもらえるのは分かっていたが、なるべく時間内に終わらせるのが望ましいに決まっている。
園藤はどんどん落書きを消していった。落書きを見ていくうち、どうも子どもたちは今自己紹介にはまっているらしいと察した。落書きの文字の大半が人名や、「あなたのおなまえは?」などの名前に関するものだったからだ。加えて、今回は絵の方も人型が多かった。丸の随所に線を加えて描いて人の顔を描こうとしているもの、きちんと手足まで描いているものなど、子ども達の努力が窺えた。野波の名前を書いたのも、この自己紹介ブームの延長だったのだろう。
すべてが終わり、園藤はもう一度染みのもとへ戻った。雑巾をめくり、首を傾げる。
思ったより汚れが落ちていない。確実に薄くはなっているのだが、黒ずんだ輪郭が残っていた。
園藤は染みをまじまじと観察する。
──そういえば、砂の粒がまったくなかった。
最初に染み抜きを試みた時も、掃除機をかけた時も、落ちた砂を見なかった。掃除機のパックにも入っていなかったように思う。
──もしかして、泥水の汚れじゃないのか。
ならば、何の汚れなのだろう。固形石鹸でもぬるま湯でも落ちないような黒ずむ染みの原因となるものは、他に何があっただろうか。
園藤は頭を絞る。
一つ、思いつくものがあった。
立ち上がり、掃除ロッカーから酸素系漂白剤を持ってきて、染みにかけてみる。
みるみるうちに、黒ずみが引いていった。
背筋を、うすら寒いものが駆け抜ける。
園藤は染みを手早く拭き取り、清掃で出たゴミと、キッチンの隅にあった日中に出たらしいゴミ袋をまとめ、用具室の扉の前へ置き、保育所を出た。すっかり闇に浸った敷地を足早に横断し、守衛室で報酬を受け取り、さっさと車に出した。
外灯で明るく切り抜かれた帰路を辿りながら、頭の中には先ほど見たものが巡っていた。
点々と散った黒い染み。石鹸では落ちず、酸素系漂白剤が効く。
園藤の脳裏に、かつて自転車で転んで怪我をし、ズボンを汚して帰った日のことが蘇る。
母親はズボンについた泥汚れを固形石鹸で落とした。血は、水洗いしてから酸素系漂白剤をつけるとすぐに消えていった。
血。
──いや、鼻血かもしれないだろ。子どもにはよくある話だ。
園藤は自分をたしなめる。しかしあの黒い染みだけでなく、不自然に高い位置に書き込まれた先輩の名前まで思い出してしまって、どうにも落ち着かなかった。
道を下ってくると、行きに寄ったコンビニが見えてきた。その眩い明るさと工場にはなかった人の姿を目にして、少し肩の力が抜ける。
人の姿を確認して落ち着きたい。そう考えた園藤は、コンビニに車を停めた。
車のエンジンを切り、コンビニに入る。レジに立つ気だるげな中年女性と目が合った。園藤の様子が変だったのか、彼女は胡乱げにいらっしゃいませと挨拶をした。
日常だ。無性に安堵し、溜息が漏れた。
店内を歩いてみる。決して多くないが、確かに客がいた。弁当のコーナーで夕飯を探しているらしいサラリーマンやお菓子売り場で談笑する親子、雑誌を立ち読みする学生。
その中に身を置くうち、妙な心地は次第に収まってきた。
──俺は、なんで取り乱していたんだろう。
振り返り、自分が恥ずかしくなった。ちょっとした血の染みと、子どもの書けない位置に先輩の名前の落書きがあったこと。ただそれだけだ。いくらあの保育所の辺りが暗くて怖いにしても、たったそれだけで怯えるなんて、自分も肝が小さいものだ。
きっと、あの辺りの暗さと無人具合にあてられて、変な妄想が働いてしまったのだ。野波と連絡して子ども達のことを聞ければ、あの妙な恐怖も感じなくて済むだろう。
──次の居酒屋のシフトの時、店長に野波さんの連絡先を聞いてみようかな。
忘れないうちにメモをしておこうと思い、園藤はズボンのポケットにあるスマートフォンに手を伸ばした。
その時、電話が鳴った。
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