4-3

 アパートへ戻ってくると、部屋の前に人影があった。

 園藤はコンビニで買った夕飯の入ったビニール袋を持ち、車を降りる。階段を上り、外に面した二階の廊下に辿り着くと、その人影は言った。

「ヨシ、生きてるな」

 それは、中学時代からの友人だった。名を老柳青二おやなぎせいじという。

 園藤と同じ新社会人なのだが、まだ学生と名乗っても通るような、少し線の細い好青年然とした外見をしている。下手に高価なものを身に着けずとも、シンプルなワイシャツとスーツのズボンだけでそれなりに見映えがするような男だ。

 しかし、園藤と同様で、彼は学生時代から異性に縁がない方だった。なぜなら彼には、致命的な欠点が二つあったからである。

 そのうちの一つ、絶望的なセンスの小物を身に着けないと気が済まない病は、大学を卒業しても健在だった。今日は、文字盤を大きな目玉にした腕時計をつけている。一体どこで買ったのだろう。

「社会人なんだから、変な挨拶はやめろ」

 園藤は顰め面をした。老柳は園藤の顔を見ると、必ず安否確認の一声を放つのだ。

「僕のせいじゃない。学生時代と変わらないお前が悪い」

 老柳はすました顔で言う。

「こちらが連絡しなければ、近況連絡も遊びの誘いも何もしない。授業の出席、習得単位、テストの点数、待ち合わせの時間、卒業旅行欠席の連絡、何もかもがギリギリ。サークルのみんなみたいに君を『ギリ』と呼ばないで、ちゃんと『よしのり』にちなんだ名前で呼んでるんだからいいじゃないか」

「そうじゃない。顔を合わせるなり生存確認をするのをやめてくれ」

「卒業式の後もさっさと帰るし、連絡しても返事をしないから、みんなが心配してたよ。ギリのことだから就職先を無くして落ち込むことはないだろうけど、逆に自由を満喫しすぎて危ない目に遭ってたらどうしよう、ギリが野垂れ死んでたらどうしようって」

 非常に失礼な思い込みだ。しかし、自分のこれまでの行いを思い返すと、そう思われるのも当然の節があった。だから、何も言い返せない。

 園藤は黙って部屋の鍵を開けた。彼が部屋に入ると、老柳も当然のように部屋へ上がり込む。

 今住んでいる部屋は、築二十年以上のワンルームだった。ドアを開けてすぐに玄関と一体化したキッチンがあり、その先に八畳の部屋がある。

 園藤がキッチンでコンビニ弁当を温める間に、老柳は部屋を眺めている。

「相変わらず物のない部屋だな。もう少し余計なものを置いてくれた方が、遊びに来た人間として楽しいんだけど」

「色々持つと手入れが面倒くさいから嫌だ」

「ちゃんと布団を畳んで押し入れにしまってるのだけは偉い」

 机と本棚と布団、あとパソコンしかない。なんて質素な暮らしなんだ。

 呆れたように言いながらも、老柳は机の前へ座って楽しそうに部屋を眺めている。

「こんなところまで、何に来たんだ」

「連絡したのに、見てないの?」

「見てない」

「昨日送ったんだけど」

 スマホのメールアプリを起動し、再読読み込みをしてみた。本当に、昨日の日付でメールが届いていた。

「今時メールで送るか?」

「高校時代を懐かしんでやってみた」

「ちゃんと用件を伝える気、ないだろ」

「まあな。お前の所にお邪魔できないなら、ビジネスホテルに素泊まりしようと思ってたから」

「素泊まりの発想があるなら、なんで俺の部屋に着いてから電話してくるんだ」

 保育所清掃の仕事が終わり、コンビニにいた園藤のもとへ電話をかけてきたのは、老柳だった。用件は、仕事の都合でX県に来ている、もし都合が良ければ家に泊めてほしいというものだった。

 老柳とは、中学生の頃からの腐れ縁だ。中学校と高校では微塵も繋がりがなかったのだが、たまたま大学で同じ学部に入学し、これまた偶然同じサークルに入ったことによって、やっと交流が始まったのだった。

 二人に長らく接点がなかったのは、ある意味当然だった。園藤は内向的で単独行動を好み、老柳は外向的で他人と過ごすことを好む。他人との関わり方が真逆なのだ。きっと、同じサークルに入らなければ大学でも関わることがなかっただろう。

 それでも大学に入り、このようにお互いぞんざいな扱いをしても気にしないような関係になったのは、共通項──もしくは共通の欠点──が一つあったからであった。

 それは、嘘か真か分からない人知を超えたものの話を追求するのが大好きであるという点だった。早い話が、現代のオカルト話を集める癖があるのだ。

 科学の発達、ひいてはネットワーク文明の進歩によって、かつては存在していた土地ごとの習俗や口頭伝承は消えつつあるという。しかし、科学によってすべてが証明されるには世界は広く、人の思考には限りがある。人間がいる限り感情は消えず、いかなるものと接するにも疑惑や不可思議、恐怖や畏れが発生しうる。

 そういった理解しきれぬ、消化できないものが発生する時、人の心に物語が生まれる。物語に現れる存在──たとえば怪人、幽霊、怪現象など──の実在は、どちらでもいい。そういった物語の存在することが、生産的な合理性に飽いた彼らの胸の内を満たすのだ。

 なぜそのような趣味があるのかと聞かれたら、答えようがない。ただ、消えゆく伝承も新たに発生した口頭文芸も関わりなく収集し、収集品を並べて語る時、彼らは生き生きとしていられるのだった。

「A市に来たのはフィールドワークのためなんだ」

 老柳は、園藤の問いは無視して話を始めた。

 ──本当は素泊まりする気なんてなかったんだな。

 園藤は察した。

 自分の宿より、卒業間際になってまったく同級生に連絡をしなくなった友の安否を確認するより、趣味を優先したのだ。老柳は一晩外で過ごすことくらいなんとも思わないタフな奴だから、ありえる話である。

 まあ、来てしまったものは仕方がない。園藤は温まったコンビニ飯を持って、老柳の向かいへあぐらをかく。

「フィールドワークって、何の?」

 一応聞いてみる。

「庚申塔の確認兼、新時代のメルヘン探し」

「庚申塔?」

 予想しない返事が来た。

 老柳は園藤の疑問を無視し、自分の話を続ける。

「庚申塔は、道路の工事があるとやたらと位置が変わるだろう? だから、こまめな確認をしたいらしくて」

 庚申塔とは、江戸時代頃に作られた石塔だ。中国の道教の思想に由来した民間信仰によって作られたものであり、日頃の信仰や夜通しの講によって長寿や家内安全、豊穣などを祈ったという。

「お前、庚申塔に興味があったのか」

「いや。本当のところ、これは僕の仕事じゃなくて恩師のフィールドワークなんだ。毎年、いろんな地域を順番に巡っては庚申塔の変化を確認しているそうでね」

 老柳は文学部で学んでいた。恩師というのは、彼の所属していた民俗学のゼミを担当していた教授だろう。

 老柳は教授の言ったことを説明した。その内容から難しい用語を省いてまとめると、以下のような経緯になる。

 今年、老柳の恩師はX県の庚申塔を確認する予定だった。だが、研究やら授業やらイベントやらが重なり、時間が取れそうにない。

 一年くらい確認せずとも構わないかもしれないが、どうしても気になる。少し目を離した隙に経済効果の見込めない史跡がなくなるなどということは、残念ながら現代においてままあることだ。

 恩師は悩んだ。やがて、彼のゼミにこの春まで所属していたある卒業生のことを思い出した。

 その学生は在学時から知的好奇心が強く、何よりも抜群にフットワークが軽かった。しかも、今は自由業をしているという。

 彼に、謝礼と引き換えに頼めばいい。

「それで、僕が代わりにX県庚申塔の旅に出ることになったのさ」

「仕事は大丈夫なのか?」

「PCを含めた少しの仕事道具とネット環境さえあればできる仕事だからね。問題ないよ」

 老柳はこともなげに言った。

 実のところ、園藤は老柳が研究や仕事においてどれほどの能力を持つ人間なのか分かっていない。彼の世間における評価に興味がない上に、その専門の話もよく理解できないからだ。

 だが、彼のありあまる行動力が他人に重宝がられることはよく知っていた。何事も無遅刻無欠席、連絡はマメで人付き合いに臆することなし。学部、サークル共に、彼の行動力は知れ渡っていた。

「お前の勤勉さは財産だな」

「心にもない誉め言葉を言うなよ」

 老柳はさらりと流すと、鞄から地図帳を取り出して広げた。

 X県の詳細地図である。ページのふちの擦り切れ具合を見るに、相当古い。

「先生から預かったこれと、新しい地図を照らし合わせて記録を取るんだ。骨が折れるだろうけど、きっとライターとしての勉強にもなる。ありがたい仕事だよ」

 ところで、と老柳はコンビニの麦飯を食べる園藤を窺った。

「お前の方はどうなんだ? 今は、何のアルバイトをしてるんだ」

「アルバイト前提で話すのか」

 定職についたのか、と聞かれるかと思っていたので拍子抜けする。

 老柳は当然といった顔つきで首を横へ振った。

「業界の食べ比べが趣味のお前が、そんな簡単に安定安心の定職生活を受け入れるわけがないだろう」

「俺はそんな物見遊山で仕事をしてるわけじゃないぞ」

「お前からすればそう思うかもしれないが、傍から見るとそうだと思わないと納得できない」

 これは、間違いなく失礼なことを言われている。

 園藤が抗議しようとする前に、老柳がまた口を開いた。

「で、今の仕事は何だ? A市で働いているのか? オカルトの卵があったらもったいぶらずに共有してくれ」

「大したネタはないよ」

 大学在学時から続けている居酒屋のアルバイトでは、まだ人間関係が浅いから話を聞けていない。何より、業務がせわしなくてなかなか無駄話をするチャンスが巡って来ないのだ。

 さらに、新しい方のバイト先には同僚すらいないときている。ネタの仕入れようがない。

 ところが、園藤が自分の状況を正直に話すと、老柳が身を乗り出した。

「我気逢町の工場バイトだって?」

「工場じゃない。託児所だ」

「それは、ヨシヨシ生体工業か」

 言い当てられて、思わず身を引く。

「何で分かるんだよ」

「X県に来た理由の一つと言ってもいいくらいだからね」

 老柳は肩をすくめた。

「お前が失踪したちょうどその頃に、この噂を聞いたんだ。地元民のお前に詳しいことを聞きたくて仕方なかったんだけど、就職で大変だろうと思って遠慮していたんだ。なんだ、お前も目をつけていたなら遠慮して損した」

 老柳はかぶりを振った。園藤には何のことか分からない。

「いいから、何を知りたいのか早く話せよ」

「え? 我気逢町の噂を知らないのか」

「知らないな」

 園藤は正直に答えた。老柳は怪訝そうな顔をする。

「大学在学時以外、この県で生まれ育って、こうして帰ってきたんだろう? なのに、帰ってきてからネタ集めを一切してなかったのか?」

「X県はそこそこ広いんだ。加えて俺には、地元にそういう話を共有する友達はいない。そう簡単に集められないよ」

 ましてや、自分の故郷はA市から遠い北の町だ。まだ自分自身がA市の生活に馴染む方に気が向いていて、満足にオカルト話を集めることなどできないでいた。

「なんだ、しかたないな。じゃあ説明するよ」

 老柳は本当に園藤が何も知らないと分かったようで、語り始めた。

「我気逢町のキャッチフレーズは知ってるか」

 それならば、アルバイトの行き来で毎回看板を目にするから知っている。

「一人じゃないと思える町、だろ?」

「そう。公式に町が掲げている謳い文句なんだそうだね。ホームページにも乗ってたよ」

 老柳は新たに問う。

「じゃあ、それとは別のあだなは?」

「あの町は、そんなにキャッチフレーズを用意してるのか」

「そうじゃない。公式とは関係ないところで囁かれている噂の名前だよ」

 残念ながら知らない。

 園藤がそう言うと、老柳は声をひそめた。

「もう一人の自分がいる町」

 その名を聞いた時、なぜか背筋がぞわりとした。

 老柳は黙り込んだ園藤に気づかず、喋り続けている。

「あの町に関わったらしい人たちの間でそう呼ばれている、という噂でね。我気逢町では、不審な人間の目撃情報やありえない幻を見たという報告が多いんだ」

「どんな」

「それが、ドッペルゲンガーなんだよ」

 園藤は呆気にとられた。

「ドッペルゲンガー? あの、見ると死ぬってヤツか?」

 ドッペルゲンガーは、自分と同じ姿をした喋らない幻像である。それを見た人間は死ぬと言われており、現代には、非業の死を遂げた歴史的な人物が、死ぬ前にドッペルゲンガーを目撃していた──もしくは、彼のドッペルゲンガーを無関係の人物が目撃した──などという都市伝説も伝わっている。

 オカルト的超常現象としてあまりにも有名なドッペルゲンガーだが、この、いるはずのない人間の幻を見るという現象は、医学的に説明することも可能らしい。曰く、脳に腫瘍ができた時や精神疾患などに伴う幻視であるということで、見た後に死に至るのも、脳の障害によるものだと言うのが通説である。

 だが、中にはとんでもない人数が、同一時刻に、一人のまったく同一なドッペルゲンガーを見かけたなどという、どうにも説明の難しい目撃談も伝わっており、今日のオカルト愛好家の想像力を刺激している。

「その噂、どこで集めたんだよ」

「ネット掲示板とSNS」

 そう言って老柳はリュックからノートPCを取り出し、園藤に見せてきた。

 画面には、『X県/もう一人の自分がいる町』という名前のフォルダが開いてある。

 老柳はそこに保存してある画像データを順に示した。画像はたくさんあった。X県警の不審者目撃情報のうち我気逢町に関わるものを集めたデータや、新聞の写真、掲示板やSNSのスクリーンショット。

「確かに多いな」

 園藤は県警の取りまとめた発生情報一覧を見て言う。

「件数が、遥かに人口が多いはずのA市のと同じくらいだ。自治体としての規模の差を考えると、異常に思える」

「そうだろう。僕もこれを見た時は驚いた」

 老柳は大きく頷いた。

「最初は、ネットで見かけた噂話の画像データを整理していて、気づいたんだ。ちょっと、似た構成のドッペルゲンガーの目撃談を見かけるなあ、ってね」

 そして、整理してみて気がついた。

「これを読んでくれ」

 老柳は一つの画像を拡大した。

「これが一番古い目撃談だ。X県のある川で渓流釣りをして、友人と同じ姿をした誰かに会ったとある」

 園藤は文章を読んだ。掲示板の投稿のようだった。二枚、三枚と続いていたので読んでみると、大体友人の言った通りだった。

 X県のある川で渓流釣りをしていた時、岸からこちらを見ている人間がいた。よく目を凝らしてみると、それは同じ釣り人仲間だった。彼は自分より上流で釣って来ると言って上っていき、しばらく姿を見ていなかった。

 一度上がるのかと訊ねると、頷いた。それで、投稿主も川から上がろうとした。

 川を横切る途中で、何かに躓いてつんのめった。倒れる寸前で目の前にあった大きな石を掴めたため、完全に川の中へ転倒せずには済んだが、それでも思いきり膝をついてしまった。

 幸い、比較的浅い所で転んだために座るだけで済んだ。危なかったと大きく息を吐いたところ、後ろに誰かの長靴が見える。

 振り返るとそこには、これから向かおうとしていた岸に佇んでいたはずの友人がいた。岸の方を見やると、先ほどまでいた人影はいなくなっていた。

「これが、その投稿者が最後に上げた写真だ」

 四枚目の画像を見る。

 そこに映る風景は、確かにバイトの行き帰りに眺めている川だった。

峰迸川みねほとがわというそうだな。他にもあるから、読んでみてほしい」

 言われるがまま、園藤は他の記録を読んだ。

 最初の投稿が、今から二年前。次が一年前だった。こちらは個人のSNSへの投稿のようだ。短い投稿が連続してあげられている。

 投稿主は女性で、恋人とのドライブの途中にこの町へ立ち寄ったという。彼が手洗いを済ませるためにトイレへ行ったのを見送り、店内で待っていると、先ほど確かに個室へ入ったはずの彼が外にいた。少し目を離した隙に、外の彼は消えていたという話だった。

「見てもらえば分かるように、あだなの『もう一人の自分』──つまり、自分と同じ姿をした誰かに会った、という話はない。さっきの話も、会うはずのない知り合いに会ったという話だっただろう?」

「それも、ドッペルゲンガーにはよくある話だな」

 園藤は呟いた。

 ドッペルゲンガーを扱った小説は世界中にある。自分とまったく同じ姿をした人を見たという話がよく知られているドッペルゲンガーだが、実際読んでみると、自分と同じ姿をした何者かを別の人間が見かけたと証言する話が多い印象を受ける。

「代わりに、同じ我気逢町と思われる町で、変な目撃談が上がっている」

 老柳が画像群の別の個所を指さした。

「ドッペルゲンガーは普通、いるはずのない生きた人間を目撃するというものだ。だが、この町には死んだ人間のドッペルゲンガーを見たという目撃情報がある」

「何だって」

 園藤は眉間に皺を寄せた。

「死んだ人間を見たなら、それはただの幽霊じゃないか。めちゃくちゃだ」

「そうだよなあ」

 老柳は腕を組む。

「でもこの目撃者たちは、それに会った後に妙なことを思ったらしいんだ」

 読んでみてくれよ、と老柳は先ほどの画像からスワイプして別の画像を拡大した。

 目撃談は三つあった。

 一つは、病死した壮年の男性を山中で見たというもの。投稿に、彼を目撃したという森の中の道路を映した写真が添えてある。映りこんだ看板には、ぼかしを入れてこそあるものの、うっすらと我気逢町の名が記されているのが分かる。釣り堀の広告のようだ。

 二つ目は、我気逢町にて事故で亡くなった母親が、道の脇に佇んでいたというもの。我気逢町の町役場に行った後のことで、見つけてすぐに駆け寄って行ったら建物の影へ隠れてしまい、そのまま見つけられなかったらしい。写真の添付はない。

 三つ目は、死んでしまった近所の小学生を峰迸川のほとりに見たというもの。投稿者は、橋の上から川を見下ろしていてその人影を見つけた。投稿者は彼女の写真を撮ろうとしたようだが、少し目を離した隙にいなくなってしまった。そのため、目撃した橋の写真だけを投稿している。

 どの投稿者も、最後の方にこのようなことを書いていた。

 ──もう一人の自分がいるという噂は本当だった。もう一人の彼、彼女に会ってしまった。

「なんだこれは」

 園藤は顔を顰めた。

「やっぱり幽霊の話でしかないぞ。ただの出来の悪いデマじゃないか」

「まあ、待てって」

 老柳はたしなめた。

「よく読み直してくれ。目撃者達は、みんな『噂は本当だった』と言ってるよな」

「ああ」

「つまり、全員別のどこかで『我気逢町にもう一人の自分が現れるらしい』という噂を得たことがあるということじゃないか」

「そうかもしれないけれど」

 いまいち釈然としない。

「なら、なんで誰も、もう一人の自分自身を見かけた話を書かないんだ」

 園藤は、老柳のスクリーンショットを指さして言った。

「誰か一人くらい書いてもいいだろう。お前も、我気逢町でもう一人の自分に会ったという話は見つけてないのか」

「それがさっぱりでね」

 老柳は肩をすくめる。

「オカルト集めが趣味の仲間も、X県の知り合いも、文献やネットでの調査も、全然成果なし」

「なら」

「でも、デマにするなら、もう少し真実味があってもいいと思わないか。これじゃあ、意味が分からなすぎる。特に有名なわけでもない、ごく限定された地域を題材に、こんな話を作る人間が複数人いる理由も分からない」

「だからそれは、書き手の腕がいまいちだっただけだろ」

 場所が我気逢町に偏ったのは、偶然だ。というより、本当は我気逢町ではない可能性もある。添付の写真は、ネット上で拾った適当なものを貼りつけたのかもしれない。町や川の名前が挙がっている投稿も、本当にその地だったとは限らない。覚え違いだということもあるだろう。

「写真は、ここ以外に投稿されていない」

 老柳は言って、頬杖を突く。

「それに僕は、この一連の話に、妙に真実味のある整合性も感じてるんだ」

「どこにだよ」

「自分自身のドッペルゲンガーの目撃情報がなくたって、当然じゃないか。本当に自分のドッペルゲンガーを見たならば、死ぬ。残るのは、故人からその経験を聞いたという噂話だけだ」

 目撃者が死んだらしいなんて噂、その目撃者と近しい人間であればあるほど、良心が痛んで書きづらいだろう。

 そう言われ、園藤は確かにと思う。

 確かにそれは、ドッペルゲンガーそのものだ。

 己と同じ姿かたちをした何かを見てしまった人間は、周囲にその不吉を言い残すようにして死ぬ。己のいるはずのない場所で己を見た──その噂だけが人伝てに広まり、人混みに行けば自分と同じ姿を見るのではないかと怯え、すれ違う背格好の似た影に、恐怖する。

 ドッペルゲンガーは死の予兆なのだ。人によっては心底恐れ、口にすることすら忌み嫌ってもおかしくない。

「もちろん、誰か──もしくは同じ意図を持つグループ──がこの一連の話を作り、別人として投稿したという可能性もある。だが、それにしては話や文体がバラバラだ。実際に現地で撮った写真を使ってしまえばバレやすくなるだろうに、わざわざ違う日に何度も撮りに行っている。同一人物が複数の端末を用いて自作自演したものならばたいしたもんだ。むしろ創作であってほしいよ」

 老柳は頭を掻いた。

「実際にいなくなった人間が周りにいる人からすれば、こういうのは苦しいだろう。僕は現実を蝕む鮮やかな空想が好きなんだ。現実同士の共食いは勘弁だよ」

 そう言えば、老柳も園藤と同じで、本来創作されたオカルトを好む人間だった。そういった不思議なものの関わる小説を書きたいと思って、オカルト話を集め始めたという話も聞いている。

 園藤も創作話を好む方だが、老柳とは理由が違う。生きている者の関わる話に首を突っ込めば、自分も無事では済まないのではないかという恐れがあるからだ。面倒なことはごめんだった。

「それで、見極めに来たってわけか」

「まあ、本当は手がかりが簡単に掴めなさそうならば、さっさと忘れようかと思っていたんだけどね。君がヨシヨシ生体工業に出入りしているなら、話は別だ」

 そうだ。ヨシヨシ生体工業の話はどうしたのだろう。

 園藤が訊ねようとした時、老柳は鞄からファイルを取り出した。その中から大きな紙を一枚取り、開く。

「話題に出た場所を、地図で確認してみたんだ」

 それは、拡大印刷された我気逢町周辺の地図だった。

「この辺りは、衛星写真がずいぶん粗くて困ったよ。ストリートマップも本当に限られたエリアしかなくて、ネット上で噂の検証ができなかった。ここに来た今となってはどうでもいいことだけれどね」

 アナログの地図探しにも苦労した、などと言いながら、老柳はさきほど話題に出た地域を指し示す。

「この五つの目撃談の中心に、ヨシヨシ生工の敷地がある。この会社のことはどのくらい知ってるんだ」

「ネットに載っていたことくらいしか知らない」

 ヨシヨシ生体工業は、戦後に創業した。現在は医療機器を中心とした機械や、医療介護に用いられる様々な備品を製造するメーカーとして営業している。

 園藤が語ると、老柳はそうだと頷いた。

「付け加えるなら、創業以来数十年、ずっと安定した業績を保っている」

「へえ」

「でも謎が多い。これは、僕の知り合いの医療従事者が、その同業者に聞いた話なのだけどね」

 ヨシヨシ生体工業には、下請け企業が存在しない。完全に自社だけですべての製品を部品から作り上げている。

 契約している病院でさえ、その内実を知ることはできない。その製造ラインは企業秘密であり、組織内部の構造や社員生活の末端すら知ることは難しい。

「はっきりしない企業だけど、製品はいい。社員にも問題がない。だから、関わりのある施設は利用し続けているそうなんだけど、ちょっと気になる噂もあるんだそうだ」

「どんな」

「営業の人間が、みんな、酷似してるらしい」

 ある時、医療従事者同士で飲みの席を設けた。その中で偶然、ヨシヨシ生体工業との取引の話になった。

 ヨシヨシ生工の営業員は、誰もが望む誠実さと愛嬌を持っている。正確な仕事をする。

 誰もがそう語った。さらに、どんな人間が営業に来ているかを話し、彼らは驚いた。

 短く整えた黒髪。笑い皺のある愛想のいい笑顔。中肉中背より、少しだけ肉が少ない。

 全員の話した営業員の外見的特徴が、一致していたのだ。

「従業員同士が、ドッペルゲンガーってことか」

「ドッペルゲンガーとは言われてない。頭髪服装に関する社内独自のルールでもあるんだろうって話になったらしいけど、以来少し気味悪がられて、変な噂ができた」

 老柳は噂話を思い出すように、宙を眺める。

「確か、ヨシヨシ生工は本物の人間と見分けのつかないヒューマノイドを作って登用している、とか。そのための工場が創業の地にあるとか、その地には人体実験場があるなんていう噂も、取引関係者の間で流れてるって聞いたな」

 相槌を打ちながら、園藤の脳裏には保育所の景色が浮かんでいた。

 不自然な高さに書かれた、たどたどしい文字。

 自分の採用と入れ替わりに消えた男。

 野波大伍郎。

 血。

「でも、あくまで噂でしかないんだろ」

 園藤はそう言って、どうにか笑みを浮かべた。

「聞いている限り、事実性の確かめづらい情報源が多くて、フィクションらしさが強い。確かめに行くまでもないんじゃないか」

「ヨシらしくないな」

 老柳は首を傾げた。

「君なら、噂でしかない与太話ほど一緒に考えてくれると思ったのに」

「バイトの疲れで、その余裕はねぇよ」

 数時間前までは疲れてなどいなかった。だが、この話を聞いているうちに身体が重くなってきていた。

「俺は風呂に入って休む。お前は好きにしてくれ」

「分かった」

 園藤はすっかり干からびた弁当の容器を片手に立ち上がった。

 背中から老柳の声がかかる。

「無茶な仕事なら辞めなよ」

「ああ。分かってる」

 ゴミ箱の蓋を開け、弁当の容器を放り込む。

 ──今の話も、こんな風に忘れてしまえたらいいのに。

 園藤は溜息を吐いた。

 漠然と感じていたあの工場への恐怖。それが、今の話をきっかけに明らかになり、言語化されようとしていた。

 明後日にはまた、バイトに行かないといけない。


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