5 親切な友人たち

5-1

 母と喧嘩した翌朝、学校へ登校する前にナツメは公園へ行った。昨夜、母の死体を見た池の様子をうかがおうと思ったのだ。

 まだ薄暗い早朝の公園には、朝靄が漂うばかりで、誰もいないようだった。

 ナツメは池の前に佇む。水面に浮かぶものは何もなく、また何かを引き上げたような跡もない。昨夜は深夜を過ぎても眠れなかったが、外からサイレンや人の騒ぐ声などが聞こえることもなかったと思う。

 幻を見たのだろうか。

 きっとそう思うべきなのだろう。

 だがナツメは納得できなくて、しばらくその場にしゃがみこみ、池を眺めていた。風が吹いても、池は素知らぬ顔をしていた。表面に細波さえ立てない。仄かに青みを帯びた黒い水は、まだ昨日の夜闇がそこにとぐろを巻いているかのようだった。

 何か見えないかと、覗いてみる。

 生き物の姿はない。底も流れも見えない黒々とした水は、なんだか得体の知れない思いをナツメに抱かせた。もしこの中へ落ちてしまったら、どこまでも沈んでいき、己の重みで出てこられなくなるのではないかと思うような──まるで、深海を覗くのに似た恐怖を覚える池だった。

 ──あの時、ママの声は確かにこの池のあたりから聞こえた。

 聞き間違いではなかったはずだ。

 ごめんねと囁いたあの声には、ナツメの知る母の不器用な哀しさが含まれていた。幻聴で済ませるには心が痛かった。

「ママ」

 呟いてみた。

 池に動きはない。返事をする者もない。

 そう思っていた。

「誰か待ってるの?」

 背後から声が聞こえて、ナツメは飛び上がった。

 身体ごと振り返る。そこには、知っている人がいた。

「良々木さん」

 昨日復学したばかりのクラスメイト、良々木朱姫葛である。

 薄く朝靄の漂う景色の中、静かに佇む彼女は絵画のように美しかった。卵型の顔やすらりとした手脚は、真珠のつやを帯びて仄かに煌めいている。加えて、浅葱のスカートに白いワイシャツという明るい色合いの服が、朝にふさわしい清らかな雰囲気を漂わせていた。しかし、ひっつめの長い黒髪やアンニュイな表情は、まだ辺りに漂う夜の名残りの方に馴染んでいる。見る者にどことなくミステリアスな印象を抱かせるのは、彼女のそういうところに由来しているのだろう。

「お、おはよう。良々木さんも朝の散歩?」

 クラスメイトに妙なところを見られた緊張のせいか。明るい表情を作ろうとして、声がかすれてしまった。

 朱姫葛は返事をしなかった。代わりに、

「その池の噂、知ってる?」

と言った。

 ナツメは首を傾げた。

「知らない。どんな話?」

「この池は水鏡池っていうんだけど──水鏡池を覗くと、水面に映った自分が自分と違う顔をする」

 朱姫葛は朝露を溜めた下草をローファーで踏み分け、ナツメの隣、池のほとりに立つ。

「覗いていた人は、当然驚く。その隙に、水面に映ったソレは手を伸ばして、人間を池の中に引きずり込んでしまう。そして、水からソレは這い上がり、落とした人間と入れ替わって生きるようになる」

 ナツメは、殴られたような衝撃を覚えた。

 まさに昨日、自分が体験したものではないか。

 今自分は、池にいるソレに引きずり込まれた母を見、母と入れ替わったソレと暮らしているのではないだろうか。

「その話って、本当なの?」

 ナツメは詰め寄った。朱姫葛は片眉を持ち上げた。

「どうして?」

「その」

 ママが、と言いかけてナツメは思いとどまった。

 ほぼ初対面同然のクラスメイトにこんな話をしたら、頭がおかしいと思われる。

「その、怖いなって思ったから」

 口にする言葉を、正直な感情にすり替えた。

 朱姫葛はふうんと相槌を打ち、

「そうかもね」

と言いながら、池に向き直った。

「でも、私は少し向こう側の世界に興味があるかな」

「なんで?」

 驚いたナツメは、つい、湧いた疑問を口にしてしまう。

「ここより暮らしやすいんじゃないかなって、思うから」

 あっちもあっちで苦しいのかもしれないけど。

 朱姫葛は目を丸くしているナツメの方へ顔を向けると、小さく笑みを浮かべた。

 それから、すぐに背を向けて去っていった。

 公園の入口へと消えていく背中を、ナツメはずっと見つめていた。




 母は少しずつ、だが確実に変わっていった。

 愚痴や不満を言うことがなくなった。ナツメたちが帰宅した時、近所の人々と会話していることが増えた。服もしわだらけのワンピースから清潔なシャツとジーンズに変わった。明るい顔で過ごす時間が、日に日に長くなっていった。

 母の精神は、安定に向かっている。

 嬉しいことだ。こちらに越してきてから、彼女の不安定さにどれほど悩み、苦しんできたことか。母が我気逢町に馴染みつつある様子を、以前のナツメが見たならば、きっと大喜びしただろう。

 だが、今のナツメは、いまいち喜びきれなかった。母と喧嘩した夜、公園の池に浮かんでいた彼女の死に顔が、脳裏から離れないのだ。

 ナツメには、今の母がどうにも母のように思えなかった。

 母の身体からは、いつも池の匂いがした。料理をしている時も、風呂から上ったばかりの時も──むしろ、風呂からの上がりたてが一番池の匂いがするような気さえする──青い水と草の匂いがする。

 真面目さがありあまって自分一人の世界に閉じこもりがちだったのが、急に開放的な全体主義になったのも、受け入れがたかった。一ヶ月も経たないうちに訪れたこの変化は、努力だとかそういうものを超えた、もっと根本的な何かの変質に思えて仕方がないのだ。

 また、母と和解して帰ってきた父もなんだか変だった。

 父は、母娘喧嘩の二日後に帰ってきた。父はこれまでと変わらぬ能面のような顔をしていることが多く、しかも仕事で家にいない時間が長いので、最初は変化が分かりづらかった。しかし、家で母と会話する様子を聞いているうち、以前より他人のことを思いやるような発言が増えていることに気づいて驚いた。

 これだけなら、父が母との仲違いをきっかけに思いやりの気持ちに目覚めたということで納得できなくもない。だが、ナツメの式や町内会行事への参加を自ら申し出るようなことを言い出すのを聞いた時に、これは別人だという気持ちが強くなった。あの父が、一銭の得にもならない奉仕活動や交流など、したがるわけがない。

 ──絶対、あたしのパパとママじゃない。

 ナツメの頭の中には、朱姫葛の話していた池の怪談が居座っていた。

 振津家に、これまでにない明るく穏やかな団欒が訪れた。食卓で、父と母が正論や皮肉の応酬でちくちくと喧嘩することがなくなった。それどころか、ナツメと檜が食事を終えて自室へ戻る頃に、毎日二人きりで晩酌するようになった。

 若い頃のデートの思い出などを懐かしみながら、一緒に赤ワインのボトルを開けている両親を、姉弟は呆気に取られて見ていた。

 ナツメたちは、毎晩どちらかの部屋に訪れて秘密の会話をするようになった。話題は、最近の身の回りの異常な変化のことである。

「パパとママ、おかしいよね」

 檜も、両親に違和感を覚えていたらしかった。

「仲がいいのはいいんだけど、変だよ。前と趣味が変わりすぎだし、考え方も別人みたいにおおまかになったっていうか」

 なんだか、この町の大人たちみたいになってきた。

 ナツメも、檜とまったく同じ感想を抱いていた。まるで、両親の記憶が残った器に、我気逢町の一般的な大人の人格をインストールしたような印象だった。

「やっぱりこの町、なんかおかしい。自然の中で遊ぶのは楽しいんだけど、人の様子が妙で」

「どんな風に妙なの」

「学校の子が変なんだよ」

 弟が自分から学校の話をするのは、かなり珍しい。

「前は、よく一緒に遊んでたじゃない」

「ああ。引っ越したての頃はね」

 檜は目を伏せた。

「家で話しても何にもならないから、言ってこなかったけど。ここの小学校って、結構ひどいよ」

 我気逢町の小学校は、荒れているという。

 朝登校すると、校舎の中を自転車で走る子がいる。

 給食の時、机に座らず床で泳いでいる子がいる。

 互いの持ち物をしょっちゅう盗み合う。殴り合いの喧嘩をする。授業中に、突然教室を飛び出して校庭を突っ切り、どこかへ走り去ろうとする。

 弟の語る内容はこちらの想像を超えていた。ナツメは、困惑することしかできなかった。

「嘘でしょ?」

「本当だよ。今度、見に来てよ」

 檜の表情は真剣だった。嘘を吐いているようには見えない。こういう時に冗談を言う弟ではないと、ナツメは知っている。

 けれど、これまで自分の見聞きしてきた町の様子と、あまりに違う。その差が大きすぎて、話されたことをうまく受け入れられない。

 ナツメが見てきた町の住人たちは、本当に穏やかだった。清貧を好む、慎ましくてにこやかな同級生たち。母のもとへ、娘のためにナツメを式へ参加させるよう促してきた近所の住人。荒れている大人なんて、見たことがない。皆、朗らかだった。

 ナツメはそう言った。すると、檜は言った。

「最近のママみたいだね」

 頭に、朱姫葛から聞いた話が蘇る。

 ──人間じゃない人たちが、紛れ込んでいるのかも。

 町の大人たちも、母のように入れ替わられてしまったのではないか。だから、あんなに穏やかなのか。

 だとしたら、自分の同級生はどっちなのだろう。中学生は大人より子どもに近い、とナツメは思う。けれど、同級生たちは荒れている風がない。そういうところは、大人たちの様子に近いと思う。

 ──あの話を、本気で信じてるの?

 怪談を真剣に現実へ当てはめて考えている自分を、また別の自分が疑う。そんな非科学的な話があるわけないでしょ、と彼女は嗤う。

 けれど、今のナツメには信じられる科学がない。

「姉ちゃん?」

 檜が訝しそうにこちらを窺っている。

 檜に朱姫葛から聞いた話をするのは、まだ早い。ナツメは首を振った。

「何でもない」




 この頃、ナツメは友人たちにも奇妙さを覚えていた。

 母と喧嘩したその翌々日。昼に学校の中庭で昼食を食べながら、いつもの仲良しグループの友人たちにこっそりと自分の体験を話してみたのだ。

 てっきりナツメを労わり、町の不気味さを一緒に怖がってくれると思っていた。

 しかし、実際は予想と大きく違った。

「ナツメちゃん、良かったね」

 友人たちはナツメの話を聞いて、開口一番にそう言った。

「言った通りだったでしょ」

 志乃はにこにこしている。

「お母さんは、ここに馴染んでいなかったから不安定だったんだよ」

「馴染む、って」

 母は死んだと言ったはずなのだが。

 戸惑うナツメに、瑛美が言った。

「贅沢な自我が、洗練された人格に生まれ変わったんだよ」

「ここに住む人は、みんなそうなるの」

 浄美も同意した。

「私もそう。昔はもっとわがままだったけど、洗礼を受けて優しくなった」

「みんな明るくなるんだぞ」

 信五は機嫌良く語る。

「わがままな人は慎ましい人に。慎ましい人はもっと慎ましい人に」

「ナツメちゃんだってそうでしょ」

 幸三の笑みが深まる。

「お家が清められてて素敵だから、ナツメちゃんも毎日楽しく暮らせてるんだよ」

「どういうこと」

 何を言っているのだろう。

 ナツメは眼前の五人を見回した。

 信五も、幸三も、瑛美も、浄美も、満足そうな笑みを浮かべていた。長雨の合間にぽっと訪れた晴天のもと、燦々と降り注ぐ太陽のように輝く笑顔だった。

「言った通り」

 志乃も、心底嬉しそうに笑って言った。

「ここに来れば、みんな我気逢町の仲間になれるって決まってるから」

 ナツメはこの時、初めて友人たちにうすら寒いものを感じた。

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