4 託児所の落書き

4-1

 園藤の託児所でのアルバイトは、順調に続いた。

 業務内容は、夕方から夜に差し掛かる頃、子どもたちの遊び回った痕跡の残る無人の空間を掃除するだけ。客に気を遣う必要がなく、手強い汚れも大してない。これまでにこなしてきたアルバイトの中で、最も気楽な仕事かもしれない。

 紹介してくれた野波には感謝していた。本人に感謝を伝えようとしたのだが、あいにく、あれからすぐに居酒屋のアルバイトを辞めてしまったようで、会えなかった。連絡先も交換していないため、お礼を伝えるのは諦めた。

 園藤は一日も休むことなく、シフト通りに出勤し続けた。

 報酬は、一度も忘れられることなく守衛から渡された。どういうわけか守衛は不愛想な人ばかりで、園藤が軽い世間話をしようとしても成り立たないのが常だった。無視されるのが普通、相槌を打たれればいい方という有様だったが、園藤はさして気にしていなかった。報酬が良ければ些細なことは気にならないものだ。

 強いて気になることを挙げるとすれば、託児所付近で誰ともすれ違わないことか。

 園藤はいつも十七時四十五分頃に出勤している。その時間帯ならば、まだ親を待つ子どもや迎えに来た親がいて、園藤と顔を合わせることがあってもおかしくない。

 しかし、そういうことがまったく起こらない。保育士らしき人すら見かけないのも不思議だった。いつ行っても、託児所の中は無人だった。おもちゃや落書きの変化だけが、人のいた証だった。




 一ヶ月ほど経った、ある日のことである。

 その日の日中は、市内のとある店のオープニングスタッフとして働いていた。業務が終わった後に時計を見ると、ヨシヨシ生体工業へ出勤して働くには早すぎる時刻だった。かと言って、家へ帰ってくつろぐほどの時間はない。他の用事をこなして時間を潰せたら良かったのだが、こういう時に限って何もない。仕方なく、いつもより早く出勤することにした。

 緩く傾斜のある狭い国道を、車でのんびりと上っていく。山が迫ってきて、我気逢町の看板が現れる。園藤の住むA市はほぼ平地だから、我気逢町へ到る道を車で走る度、ちょっとした山登り気分になる。この町はちょうど山の裾と平野の境にあるのだなと彼は思った。

 小腹が空いてきたので、清掃に集中するためにも、途中のコンビニで軽食を取ることにした。

 住宅街に、この町唯一のコンビニがある。比較的新しい店らしく、広い駐車場の隅には大型車を止められる余裕があった。

 園藤は長距離トラックの隣へ車を止めた。コンビニでフライドチキンと炭酸飲料を買い、運転席へ戻って食べる。一仕事終えた後の身体に熱い油と肉が染み込み、癒される。

 食べ終わっても、まだ時間に余裕があった。そこで、少しだけ外を歩いて我気逢町の街並みを観察してみることにした。

 コンビニの並ぶ国道沿いは、住宅やシャッターの閉まった店などが並ぶばかりで興味を惹かれない。車を降り、コンビニ脇の細い道を国道と逆方向に歩いてみることにした。

 コンビニを背中に進んでいく。国道から少し離れただけで、家と家の間が広くなった。畑や空き地が増え、景色はこじんまりした住宅街から昔ながらの農道といった雰囲気に変わる。道がまた緩やかに登り始め、土地の傾斜に伴って小さな果樹園や田畑が目立つようになるのを、園藤は懐かしい気持ちで眺めた。

 園藤の育ったのも山沿いの町だった。幼い頃は今のように子どもの遊び場の選択肢が多くなかったから、大人から見ればどうということもないような地形を生かして遊んだものだった。

 自転車を漕げるようになってからはスピードを出す楽しみに取り憑かれ、このような人気の少ない平凡な坂を、友人達と自転車で登っては下りて遊んでいた。ある時、調子に乗ってスピードを出しすぎた友人がガードレールに突っ込んでしまい、転倒した拍子にひどい擦り傷を負ったのも懐かしい。その後大人達にこっぴどく怒られたのも、今となっては微笑ましい思い出である。

 坂の上から来た道を振り返ってみると、町の様子がよく見えた。峰を連ねる山の合間に寄りかけるようにして、家々がぎゅっと詰まっている。下方には先ほどまでいたコンビニがあり、その向こうへ住宅地が広がる。その中でも大きな建物が三つ、大きな三角形のような距離感で佇んでいた。手前にあるのは役場で、川を挟んだ向こう岸の二件は学校だろう。何の学校かは、遠くてよく見えないので分からなかった。

 これだけ小さな町が、合併せずによくやっていけているものだ。

 町の全体を眺めるうち、そんな考えが頭に浮かんだ。

 園藤の故郷は、平成の大合併に伴って消えた。とある市の一部になり、地名が変わったのだ。町民は、おおよそ合併に前向きだったらしい。らしいと言うのは、その頃園藤はまだ小学生だったからだ。合併について町の大人たちが何やら話し合っているのは知っていたが、興味を持てず、話を聞いても理解できなかった。

 合併を初めて現実に落とし込めたのは、通う小学校の名前が変わってからだった。昨日まで当たり前にあった自分の町の名前が校名から失せ、代わりに隣の市の名前がついた。たったそれだけの変化だったが、校門に記されていた名前が違う名前に彫り直されているのを見た時の何とも言えない感覚は、今でも脳裏に焼き付いている。

 我気逢町も、彼の故郷と同じくらいの大きさに見える。それでもやっていけているのは、人口が多いからなのか、それとも他に財源があるからなのか。

 園藤は長いことX県に住んでいるが、我気逢町の名産品を聞いたことがない。観光資源もなさそうだ。そうなると、あと考えられる財源は一つである。企業の納税だ。

 ──ヨシヨシ生体工業の工場があるから、やっていけているのかもしれない。

 園藤の故郷には、そういう企業がなかった。その差が我気逢町の独立に繋がっている可能性はありそうだ。

 アルバイトをしていてみるに、ヨシヨシ生体工業はかなり羽振りがよさそうだった。納税以外にも、この町はあの企業に大きく支えられているところがありそうだ。

 園藤は坂を下り始めた。長い間コンビニに車を停めっぱなしだと迷惑になってしまう。そろそろ、多少早くともバイト先に向かおうと考えた。

 下りながら何とはなしに周りを見回した。そうして、道の脇に小さな石塔があるのに気づいた。

 高さは、園藤の膝丈ほど。楕円の形をしており、真ん中に何かが彫ってある。長年風雨にさらされたせいか、表面の凹凸が削られて形がよく分からないが、どうも人型らしい。同じ背丈の二つの人型が寄り添っているように見える。

 ──双体道祖神か。

 彫られた人型らしきものを見て、ピンときた。

 道祖神は東北や関東、中部地方に多く見られる道の神である。別名を賽の神と言い、多くは石に人の形が彫られた形をしている。複数の道が交わる辻や、村の内外を隔てる場所などの境界に置かれ、悪霊や疫病から村の安全を守る魔除けとして信仰されていた。のちにその守護は庶民の生活にまで及ぶものとされ、良縁や子宝、旅の安全も道祖神に祈るようになったという。

 園藤の地元にあったのは普通の、人が一人彫りこんである単体道祖神だった。だが、大学時代に民俗学の講義を受けていたので、一部の地域には、双体道祖神というものがあるということを知っていた。

 園藤はまじまじと道祖神を観察した。

 双体道祖神は男女や子どもを二人彫ってあることが多いのだが、この像はどちらだろう。男女の双体道祖神は背丈に差をつけているものが多いのだが、中には背丈が同じものもある。しかし、この像は二人ともまったく同じ形に整えてあり、髪型や身なりの区別がつかない。

 何にせよ、この地域に双体道祖神があるとは知らなかった。面白いことを知った。

 園藤はスマートフォンで道祖神の写真を一枚撮る。ふと表示された時刻を見ると、もう行かないといけない時間だった。

 日が伸びてきて、辺りは薄ぼんやりと鈍く輝いている。園藤はスマホをポケットにしまい、先を急いだ。


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