3-7

 そこからどうやって帰ってきたのか覚えていない。

 気がつけば、ナツメは家の前に立っていた。持っていたはずの懐中電灯はなくなっていた。どこかに落としてきたようだ。

 助けを呼ばなくちゃ。そう思う一方で、理性は言っていた。

 ──あれは、どう見ても死んでいた。

 もっと早く母のあとを追っていれば。

 ナツメは悔やんだ。だが、過去に戻ることはできない。今やるべきことをするしかないのだ。

 檜になんて言おう。

 いや、まずは救急車を呼んでからだ。弟の子ども用スマートフォンでも、119番通報くらいはできたはず。

 ナツメは家の鍵を開け、中へ入った。

 玄関とリビングに明かりが点いている。あれ、と思った。

 家の中に出汁の良い匂いが漂っていた。

 ──檜、いつの間に出汁なんて取れるようになったんだろう。

 弟が料理をしているのは、夏休みの自由研究でしか見たことがない。それも、作っていたのは型抜きクッキーだった。出汁を取るという発想が彼の中にあるなんて驚きだ。

 ともかく、やると言ってくれていた米研ぎだけでなく料理までしてくれるなんてありがたい。だが、これまでまともに料理をしているのを見たことがない弟が一人で作っているとなると少し心配だが、電話をかける間は様子を自分が見ていられるから大丈夫だろう。

 ナツメはリビングの戸を開けた。キッチンにいるだろう弟に声をかけようとし、

「え?」

 目を疑った。

 この家は、リビングとキッチンの境に扉がない。だから、ナツメの立ち位置からもキッチンの様子がよく見える。

 キッチンに立っていたのは弟ではなく、母だった。髪を久しぶりに一つに結わえ、小気味よい音を立てて包丁を操り料理をしている。

 ふと、母が目を上げた。喧嘩していた時の暗い目とも、近頃の思いつめた目とも違う、我気逢町に越してくる前の母の目だった。

「ナッちゃん、おかえり」

「た、ただいま」

「さっきはごめんね」

 母は詫びた。

「ママね、あの後心療内科の先生とお電話したの」

 実は、パパと喧嘩した後に隣町の心療内科に相談してたの。

 そしたら、急な環境の変化から来た軽い鬱病でしょうねって言われて。気持ちが安定する薬を出しておくから、寝る前に飲むようにって言われたのよ。

 なのにママ、昨夜お薬を飲むのを忘れちゃって。

 家を飛び出した後、そのことに気づいてはっとしたわ。もしかしてと思ってお医者さんに電話して、ナッちゃんとの喧嘩の話をしたら、やっぱり薬を飲み忘れたからだって言われたわ。しばらく飲み続けないとダメですよ、って怒られちゃった。あと、元気がある時でいいからなるべく体を動かしてみてくださいって言われたわ。運動すると気分が晴れるからってね。

 それで、持っていた薬を飲んでしばらく町を歩いてみたら──この通り、だいぶ気分がすっきりしたのよ。

「気分はすっきりしたけど、心は痛かったわ。私のうっかりミスのせいで、ナッちゃんに悲しい思いをさせて、ひどいことを言っちゃったんだもの」

 母は料理の手を止めた。

 ナツメは、キッチンから出てくる母を茫然と見つめていた。

 やつれた顔は変わらないが、申し訳なさそうな表情や柔らかな喋り方と雰囲気は、思いつめる前の母のものだった。

「本当にごめんなさい」

 母は、ナツメに頭を下げた。

「私は自分のことで精一杯になっちゃって、ナッちゃんや檜のことを思いやれてなかった。反省したわ。パパにも電話して、仲直りしようと思うの」

 夢だろうか。

 ナツメは自分を疑った。

 両親の喧嘩から半月。ずっと元に戻ってくれたらいいのにと願い、思い浮かべていた母が、目の前にいる。自分が公園で見た母は何だったのだろう。母との喧嘩のショックで、ありもしない幻を見ていたのだろうか。

「あたしも」

 頭はまだ混乱していたが、待ち望んだ状況を前にした口は勝手に動いた。

「ママにひどいこと言ってごめんなさい。許してくれる?」

「もちろんよ」

 母はほっとしたように笑みを浮かべ、ナツメを抱き締めた。

 暖かく優しい、母の抱擁。

 本当に元の母だ。

 やっと自分の思いに気づいてくれた──ナツメは涙ぐみながら、母のエプロンに顔をうずめた。

 母の身体から、藻の入り混じった水の匂いがするのに気がついた。

 反射的に腕を伸ばし、突き放してしまった。しかし母は気にしていないようで、硬直するナツメに眉を下げて笑いかけた。

「ごめんね。ナッちゃんももう中学生なんだから、子どもみたいに扱われるのは嫌よね」

 ナツメは何も言えない。

 母は食卓の上へ置いてあった便箋を手に取り、差し出してきた。

「これ、明日担任の先生に渡してくれる?」

 それは、式への参加を承諾する旨を書き記した手紙だった。母の文字で、プリントを不手際で紛失してしまったこと、娘を式に参加させてほしいこと、きちんと定型の承諾書にサインする必要があるならば、申し訳ないがもう一度娘に承諾書を渡してほしいことなどが書いてあった。

「ナッちゃんがこの町に馴染みたいと思うなら、もう何も言わないわ」

 母は、少し不安そうな笑みを浮かべていた。

「さっきも言った通り、ママはどうしても人付き合いが苦手で。でも、パパはもうしばらくこの町に勤めるんでしょうし、何よりナッちゃんがこの町を気に入ったでしょう? 檜も、ここで楽しそうに遊んでる。だから、私もわがまま言ってられないわ。時間がかかると思うけど、これから頑張って近所付き合いもしていこうと思う。ちょっとうまくいかないことも多いかもしれないけど、見守ってくれるかしら」

 母の言うことは、まさに理想的な母親のようだった。

 こう言ってくれるのを、どれだけ望んでいたことか。

 しかし、ナツメは喜べなかった。渡された便箋を握りしめ、母をじっと見つめる。

「部屋に、戻るね」

 言えたのはそれだけだった。

 母は頷いた。

「分かった。夕飯ができたら呼ぶわね」

 そして、キッチンへ戻っていった。

 ナツメは束の間母の後ろ姿を見つめていたが、包丁の音が聞こえ出した途端、金縛りから醒めたように身体の硬直が解けた。

 ナツメは逃げるようにリビングを後にした。ドアを閉め、階段を上る。

 手に持つ便箋をもう一度見る。

 母の字だ。最後に記された振津間知の文字は、これまで何度も学校の書類へのサインで見かけてきたものだった。

 母は、帰ってきてくれたのだ。

 ──違う。

 頭のどこかで別のナツメが叫ぶ。

 あれは母じゃない。

 母はあんな風にあっさりと謝らない。母はあんなに器用に立ち直れない。

 あれは誰だ。

「あ、姉ちゃん」

 自室の隣の扉を開け放つと、ベッドに寝転がった檜が顔を上げた。

 弟は、いつものように部屋にいた。ベッドで漫画を読んでいたらしい。ナツメが部屋へ入ると、ページを閉じてベッドから起き上がり、降りてきた。

「心配したよ。無事に帰って来てくれてよかった」

「檜」

 ナツメは、乾いた口をどうにか動かす。

「ママ、ママが」

「姉ちゃんが出掛けて、十分くらい経った頃かな」

 檜はいつも通りの呑気な調子で話している。

「ママが戻ってきたんだよ。ちょっと頭を冷やすために散歩してきた、って言ってさ。すっかり前のママみたいな顔になってた。とりあえず良かったよね」

 うわっ、と檜は驚いた声を上げた。

 突然、姉に抱き締められたのだ。普段滅多にないことだから、仰天したに違いない。

 ナツメは弟のうなじに顔をうずめ、匂いを嗅いでみた。

 健康的な太陽の匂いだ。

 いつもの弟だ。弟は変わっていない。

「なんだよ。急にひっつくの、やめろよな」

 弟は顔を顰めてナツメの肩を押した。

 そんな様子もいつも通りで、ナツメは安堵した。

「檜」

「ん?」

 ナツメは言いかけて、口をつぐんだ。

 弟に、何を言えばいいのだろう。

 公園の池で、母が死んでいた。

 下にいる母から、公園で嗅いだのと同じ水草の匂いがした。

 あれは誰なのだろう。いや。

 あれは人なのだろうか。

 ──人以外の何があるって言うの。

 しかし、母親と同じ寸分たがわぬ容姿を持つ、母親の記憶を持つ人間がもう一人いるなんてことがありえるだろうか。

「ママを、よく見ていて」

 逡巡に逡巡を重ね、ナツメに言えたのはそれだけだった。

 案の定、檜は怪訝な顔をした。

「何で?」

 ナツメが言葉に迷っていると、弟は勝手にこちらの意図を推測して話しはじめた。

「ヒステリーを起こさないか見てろってこと? 分かってるよ。ママはメンタルを持ち直したと思っても、また崩れることが多いもんな」

 そして、弟は純粋な案じる目でこちらを見上げた。

「姉ちゃんも、あんまり一人で頑張りすぎるなよな」

 ナツメは、曖昧に笑うことしかできなかった。

 もう一度公園の池を見に行く勇気は出なかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る