3-6
「ママが姉ちゃんのことを本当に嫌いなわけがないよ」
檜は断言した。
「ママって、自分でいっぱいいっぱいになっちゃう時あるでしょ。大人は大変だから仕方ないんだけどさ。それで、自分が失敗しちゃったなってことで頭がいっぱいになってただけで、姉ちゃんが嫌いなわけじゃないと思うよ。ママが姉ちゃんに頼りっぱなしなの、姉ちゃんだって分かってるだろ」
大丈夫だよ、と弟はナツメの肩を叩いた。
「ママ、きっとノイローゼ? ってヤツなんだよ」
「そうかな」
「前にパパが言ってたよ」
パパも、拗ねてないで早く帰ってくればいいのにな。
弟は少し怒ったように言った。
「パパって、失敗した時に『何も失敗してないですけど』みたいな顔するじゃん。去年の海水浴、覚えてる?」
弟は転ぶ真似をしてしゃがみ、おおげさなくらいの無表情を作ってからすっくと立った。
ナツメは、思わず噴き出した。弟の顔に、父の顔を思い出したのだ。
去年の夏、家族で海水浴に行った時。サーフボードの上に立とうとした父が、海へ転げ落ちたのだ。心配して駆け寄った家族の前で、父は何事もなかったかのようなしらっとした顔で水面から顔を出した。
「あったね。そんなこと」
「あの時のパパ、面白かったなあ」
檜はにやりと思い出し笑いを浮かべた。
「俺、あの時ゴーグルつけて潜ってたからさ。パパが海の中ででんぐり返ししたの、すげぇよく見えた。人生で一番きれいなでんぐり返しだった」
「頭に海草乗ってたよね」
「そうそう。しかも、気づかないまましばらく歩いててさ。『パパ、海藻乗ってるよ』って俺が言ったら、それも無表情で取って」
そのまま海に戻ることなく、屋台へ焼きそばを買いに行っていた。ナツメと檜は、必死に笑いをかみ殺していたのを覚えている。
「あったねぇ。パパって格好つけたがりだから」
「面白いのにな」
檜は肩をすくめた。
「パパもママもよく似てるよ。格好つけたがりっていうか、完璧主義っていうか。すぐ自分が失敗したって思うところがあって」
「うん。そうだね」
「困っちゃう癖だけど、きっと今回のもそのうち自分がやりすぎたなって気づくんじゃないかなって思うんだ」
檜はまっすぐナツメを見上げた。
「だから、きっとそのうち戻って来るよ」
「そうだね」
ナツメは呟いた。
「仲直りできるかな」
弟は頷く。ナツメは微笑んだ。
「ありがとう、檜」
姉弟は、散らかった家の片づけをして待つことにした。
日が暮れて夜が訪れる頃には、家はおおよそ元通りになっていた。だが、母はまだ帰ってこなかった。
心配になり、探しに行くことにした。
「俺も行くよ」
檜はそう言ってくれたが、断った。
母を見つけた時に、彼女がまだとんでもなく取り乱していたら。せっかく励ましてくれた弟を落胆させそうだ。母のそういう姿を見せたくなかった。
それに万が一、母か父が家に戻ってきた時に自分も弟も家にいなかったらどうだろう。きっと、ひどく心配させる。ナツメのスマートフォンが壊れている今、他に両親と連絡を取る手段はなかった。
「家で待ってて。八時までには帰るから」
檜は大人しく聞き分けてくれた。それどころか、
「夕飯のお米を研いで待ってるよ」
と言ってくれた。
普段子どもじみた言動ばかりする弟からこんな発言が出てきたことに、ナツメは驚いた。もしかしたら彼も、両親の不和や母の不安定ぶりを見ていて、自分が大人にならないといけないと思っていたのかもしれなかった。
ナツメは懐中電灯を持ち、家を出た。日が沈んでいて、辺りはすっかり暗かった。
──ママはどっちに行っただろう。
ナツメは考えた。
母は取り乱していた。計画的な考えを持って動く余裕はなかっただろう。だからきっと、自分の行っても構わないと思える方──もしくは行きたくないと思う方を避けて移動したに違いない。
ここから東の、人に出くわす可能性の高い、家のたくさん並ぶ方向へ向かうとは考えづらい。森へ続く北の道もありえない。
ならば、家と人気のあまりない南西へ向かったのではないだろうか。
そっちには田畑が広がり、もう遊ぶ子どももいないような古い公園があるだけだったはずだ。
ナツメはそう推理し、歩きはじめた。
正直なことを言ってしまえば、こんなに暗い中をスマホもなしに一人で歩くのは怖い。できれば近所の大人を頼りたかったが、母を見つけた時にこの町の誰かが一緒だったらきっと嫌がられるだろう。だから我慢して、一人で探索に向かうことにした。
辺りの家々には、明かりが点いている。外灯にも白い光が灯っている。それでも照らしきれないほどに、夜が濃い。電灯の丸い光の外は、墨汁のような闇が満ちていた。
ナツメは田んぼ道を歩く。懐中電灯をこまめに動かし、母の姿を探すが見当たらない。あたりは蛙の声が反響していて、人らしき物音も聞こえなかった。
やがて公園へ着いた。我気逢公園と記されたプレートを脇目に、公園内へ目を走らせる。
我気逢公園には、級友たちに連れられて一度来たことがあった。こじんまりとしているが、子どもが走り回るのに十分な公園スペースと、大人が散策しても楽しそうな池泉と花壇の備わっている庭園スペースがあり、幼い子のいる家族が遊びにくるのに良さそうだと思ったのを覚えている。
ここならば、ベンチやブランコなどの座る場所がある。虫も比較的少なそうだ。
母がいるとしたらここ以外にない気がした。
「ママ?」
おそるおそる呼んでみる。返事はない。
自分の声が小さいから、聞こえなかったのかもしれない
「ママ。どこ?」
ナツメは思いきって声を張り上げた。
「あたしだよ。さっきはごめんなさい」
遊具の周囲にはいなかった。無人のブランコを眺めていると、幼い頃に母と乗った記憶が蘇ってきて悲しくなった。
「檜も心配してるから、帰ってきてよ」
「うん」
ばっと振り向いた。
母の声だ。高く繁った木々の向こう側、庭園スペースの方から聞こえたようだった。
「ママ?」
ナツメは声の方向へ歩き出した。ライトを向けてみるが、まだ姿は見えない。
「こっち」
だが、母の声ははっきりと聞こえた。
さらに続けて言う。
「ごめんね。ナッちゃん」
それを聞いて、ナツメの目尻にじわりと涙が滲んだ。
ああ、そうだ。元の優しい母の声だ。心配性で不器用な母。
母と和解できるなら、あれほど楽しいと思っていたクラスメイトとの談笑もどうでもいいと思えた。家が安らげる場所であるならば、学校など独りぼっちでも構わない。高校に進学すれば、どうせまた知らない人間に囲まれ、それまでの友人とは疎遠になるのだから、いいじゃないか。
「ママ。あたしも」
ナツメは半ば駆け出すような早足で、庭園スペースへ踏み込んだ。
「本当にごめん」
言いながら木々の裏手へと回り込み──言葉を失った。
木々の足元には、池があった。中央に岩のせり立つ、大きな池だ。
夜の溶け込んだように黒い水面。浮草もない質素な水面に、白いものが浮かんでいた。
風が吹く。池に繁茂した水草の匂いが鼻腔に届く。白い何かは動かない。
それは、母だった。長い髪が、水面へ溶け込むようして放射状に広がっている。血の色のない顔。光を当てても見開いたまま動かない瞳孔。
小さく開いたままの口の端からは、池の水が零れている。
息は、とうに失せていた。
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