3-5

 学校が終わると、ナツメは志乃たちの遊びの誘いを断って家へ直帰した。

 ドアを開いて、ぎょっとした。

 家の中が嵐にあったように荒らされている。玄関口には広げた新聞紙が散らばっており、スリッパ、トイレットペーパー、線香などが散乱していた。

 ──まさか、泥棒?

 いつでも通報できるよう、スマートフォンを片手に靴を脱いで家へ上がる。

 一歩床へ生み出すと、足の裏に細かな砂を踏んだような感覚があった。足を持ち上げてみると、紺色の靴下に白い粒がついている。

 塩だ。

 塩を撒く泥棒など、いるだろうか。この時点で誰がやったのかおおよそ見当がついたが、スマホは持ったままリビングへ向かった。

 戸を引くと、リビングも玄関と似たような有様だった。雑誌や葉書が撒いてる物の散乱した部屋の中で、食卓と椅子だけが元の位置を保っていた。

 そこへ、母が座っていた。頭を垂れており、長い髪に遮られて表情は窺えなかった。

 机の上には、式の開催を伝える葉書が置いてあった。

「式っていうものがあるんですってね」

 母は静かな声で言った。

「承諾書を出しなさい」

 ナツメは食卓へ鞄を下ろすと、出しあぐねていたプリントを取り出した。

 おそるおそるプリントを差し出す。母はそれをひったくり、そして、瞬く間に破り捨ててしまった。

「何よ。我気逢町の子ども達の成長を祝して、ですって」

 母の目は血走っていた。

「冗談じゃないわ。こんな町の一員としてうちの子を差し出してたまるもんですか」

 プリントはビリビリと裂かれ、四枚、八枚と紙片が散らばっていく。

 ナツメは立ち尽くしていた。承諾書を破かれたショックはもちろん大きかった。だがそれ以上に、どうしてこんなにも母が荒れているのか分からなかった。

 最後の紙片を執拗に裂いている母に、ナツメは震える声で訊ねた。

「ママ。どうしたの」

「どうしたもこうしたもないわ」

 細かな紙片が粉雪のように食卓へ散った。

 母はナツメを見上げた。見開いた目に血管が浮き上がっていた。

「今日の昼間、人が来たの」

 外が良く晴れていて室内も明るかったから、電気は点けていなかった。電話で喋っていなければ家電も動かしておらず、自分のいる気配はさせていないはずだった。

「宅配の届く予定はなかったし、話をする気はなかったから、返事をしないでいたわ。そうしたら、ドアを叩いてきたのよ」

 ドン、ドン、と、ドアを叩く音はしばらく続いた。

 そのうちやめるだろうと思っていたのに、いくら待ってもやめない。

 ここまでしつこく扉を叩くのは、いったい誰なのだろう。疑問に思ってリビングから玄関へ続くドアをそっと開け、様子を窺ってみた。

 玄関の摺りガラスの向こうに、黒い人影が立っていた。小柄な輪郭だったので、父でないのは確かだった。

 返事をしないでいると、その人物は喋った。

「近所の井磯です、ってその人は言ったわ」

 言われて気づいた。そういえば、かなり前に買い物へ行こうとしてついてきた近所の主婦が、そんな名前だった。

 井磯夫人は続けて言った。

 娘さんを式に参加させてください。

 うちの娘も、同級生みんなも楽しみにしています。

 一人でも多い方が楽しいわ。娘さんはこの町を気に入っているんだから、尊重してあげないとかわいそうよ。

 あなたもいらっしゃい。きっと楽しいわ。

「私は何も反応していない。物音も立ててないはずのに、こっちに話しかけてるみたいだった。あの人、変よ。その家の娘が楽しみにしてるなんて、知らないわ。そんな連中とうちの子を一緒にさせるもんか」

 母はなおもぶつぶつと何か言っている。だがナツメは、母の言った内容に衝撃を受けており、聞いていられなかった。

 ──志乃のママが昼間来た?

 今朝、学校で志乃と承諾書の話をしたのは確かだ。だが、志乃の母親に自分の母を説得してほしいと頼んだ覚えはなく、志乃がそのような連絡をしたとも聞いていない。

 まさか、ナツメの承諾なしに勝手に母親に頼んだのだろうか。

 その時、机の上に置いていたナツメのスマートフォンが震えた。

 画面が点く。メッセージアプリの通知バナーが現れる。

 そこには、井磯志乃の名前が表示されていた。メッセージの先頭の一部が映し出されている。

『ナツメちゃんのママ、承諾書にサインしてくれそう? もし大変そうなら……』

 そこまでしか読めなかった。

 母がナツメのスマホに、ハサミを突き立てたからだ。

 先の少し丸いハサミだったが、握りしめた拳の勢いがすさまじかったのだろう。スマホの画面の真ん中にハサミが突き刺さった。光が消え、画面の真ん中から放射状にひびが走った。

 ナツメは喋れなかった。

 茫然とする彼女に、母は言った。

「あんな家の子と付き合わない方がいいわ。あんなイカれた人の娘と──こんな田舎に住む子どもと、もう一緒に遊んじゃダメよ」

「なんで」

 また声が震えた。

 しかし、この震えは先ほどの動揺から来たものではなかった。

 理不尽への怒りだった。

「なんでこんなことするの」

 ナツメは叫んだ。母を睨みつけ、ハサミの突き立ったスマートフォンの横、机を思いきり叩く。

「ママ、なんか最近おかしいよ。もちろん志乃のママだって強引かもしれないけど、ママはもっと変だよ」

「私の何が変だって言うの」

 母も怒鳴り返してきた。

「ママはいつだってあなた達のためを思ってやってるのよ。なのに、何が変だって言うの」

「それが分かってないところが変だよ」

 ナツメは破壊されたスマートフォンを指さした。

「なんでスマホ壊したの? ここまですることないじゃん」

「あなたがこの町の子どもと繋がってるからよ」

「それのどこが悪いの。学校で独りぼっちになれって言うの?」

「その方がマシだわ」

 母はためらいなく言い放った。やっぱりママは変だ、とナツメは思った。

 かっと見開いた目はナツメの知っている母のものではない。鬼のような形相でナツメをにらんでいる。

「子どもはすぐに他の子どもの影響を受ける。あなたは悪い影響を受けてるわ」

「どこが」

「井磯さんを家に来させたのはナツメなんでしょ。娘を通じて私に嫌がらせをしようとした」

「そんなわけないじゃん」

「今の状況で他に何が考えられるっていうの」

 その通りで、この状況ではナツメを疑うのも無理はない。しかし、少しは娘を信じてくれてもいいのではないだろうか。

 ナツメはいっそう腹が立ってきた。承諾書が配られてから数週間、ナツメがどれだけ気を遣って悩んできたと思っているのだろう。いや。きっとこの母親は、そんなことを考えてもいないのだ。

「ママがこの町が嫌いだって言うから、あたしは友達と遊ぶのだって我慢してきたのに」

「遊ばなくて正解よ」

 母はざんばらの髪を振り乱して、ヒステリックな笑い声を上げる。

「悪い人たちに騙される。騙されたらいけない──失敗したらいけないわ」

「失敗なしの一回でうまくやれるわけないじゃん」

 ナツメは言い返した。

「子どもの成長を信じてよ」

「信じてたら裏切られたんじゃない」

「ママは私を信じてたんじゃなくて、思い通りにしたいだけでしょ」

 ナツメはスマートフォンからハサミを引き抜いて投げ捨てた。ハサミは壁にぶつかり、乾いた音を立てて落ちた。

「ママの価値観であたしの人生を作ろうとしないで。あたしの人間関係なんだから、ママは口を挟まないで」

「子どもの人間関係は親にも関係があるの」

 母は立ち上がった。

「人間のことなんて何も分かってない子どもが、知ったような口を利かないでちょうだい」

「ママだって人の何が分かってるわけ?」

 自分のことばかりこだわっている。自分を中心に考えすぎていて、人間不信すぎる。

「あたしの友達は、みんな素直ないい子だよ。他人のことをちゃんと気遣ってくれて、自分の利益なんてこれっぽっちも考えない」

「あなたよりは分かってるわよ」

 母は唇を歪な笑みに捻じ曲げた。

「他人を中心に考える人間なんて、危ないったらないわ」

「パパと結婚したのは失敗だったって言ってたくせに」

 母の笑顔が凍りついた。

 彼女はそのまま立ち尽くし、しばらく黙っていた。場の時が止まったようだった。

 言い過ぎたか。ナツメが少し後悔した時、母は大きな溜息を吐いた。

「そう。そうね。あの人と結婚したのは間違いだった」

 力の抜けた唇から、くつくつと笑い声が漏れてきた。

 暗く、虚ろな笑いだった。ナツメはぞっとした。

「あなただって今に分かるわ。人は今も昔も、根本的に大して変わらないんだから」

 振津間知は自虐的に吐き捨てた。

「私だってね。昔は他人を良く信じていたのよ」



 子どもの頃は、将来の自分は花屋になっているのだと思っていた。

 本当に花を売りたいと考えていたわけではない。漠然と、綺麗なものに囲まれて綺麗に生きるのが、自分の将来として当然の姿だと思っているところがあった。それを子どもの言葉であらわすと「花屋」になるのだった。

 綺麗なものは、全部自分の周りに近づいてくるのだと思っていた。また、自分からそういうものを身に着けたがった。

 可愛いアクセサリーを誕生日プレゼントにねだったり、同級生に見目好い人がいると近づきに行ったりした。

 テレビで見るような綺麗な娘になって街を歩きたくて、流行り物を買った。

 テレビで見るようなスマートな男の人にデートに誘ってほしかったから、そういう人がいそうな場所でアルバイトをしたり、そういう人がいそうな所へ旅行に出かけたりした。

 見合いで夫を選んだ理由も、見た目と肩書きだった。そこそこに格好良くて、有名な企業に勤めていた。いや、有名な企業に勤めていると聞いて、格好良く見えたのかもしれない。どちらなのかは分からない。

 ──だから、メンクイはやめなよって言ったのに。

 学生時代の友人にはそう言われた。

 結婚して妊娠した後、友人に夫の節制ぶりを愚痴ると、呆れたように言われた。

 ──間知ってば、昔からそう。顔は良いけど上っ面しか良い所のない人ばかり選ぶんだから。

 なら、どこを見ればよかったの。

 間知は言った。人の心は目に見えない。だから、優しそうでしっかりしていそうなことを喋る夫を選んだと思ったのに。

 ──それが、上っ面なんだよ。

 その素直さがあなたのいいところでもあったけど、見事に裏目に出たねと友人は言う。

 ──悪いことは言わないから、世間体なんて無視して今からでも離婚しなよ。

 結局、間知は離婚しなかった。友人とはそれきりだ。

 自分のものの見方は、何かが足りないらしい。感覚も、著しくズレているようだ。

 ──お前は精々ライン工的な仕事しかできん。

 それが父の言葉だった。間知はそんなものか、と思っただけだった。

 母は憤慨していた。間知にはもっと職があると言った。

 ──あんたの好きなように生きなさい。でも、資格は取っておいた方がいいよ。

 母は間知を、安定する生活に置きたいらしかった。ただ、間知は資格のいる仕事に興味を持てなかった。

「モデルさんがいいな」

 幼い頃、花屋の次の候補として挙げると鼻で笑われた。

 両親に、己の選択を肯定されたことがなかった。一人っ子だったからか、経済的に難しいと言われたことがなく、何事においても好きにしていいとよく言われた。しかし、その後には必ず但≪ただ≫し書きがついた。

 ただし、硬い選択をすること。

 ただし、勝手な真似はしないこと。

 ただし、危ないことはしないこと。

 大人になった今、それが正しい助言だったことは何となく理解した。しかし、釈然としないものも感じている。

 自分は、そういう手堅いものを身につけないと生きられなさそうだと思われるほどに、弱々しかっただろうか。足りないところがあっただろうか。

 自分の視野が狭いらしいことは自覚した。夫を見ていると本当にそう思う。

 だが、どうしてこうなってしまっているのか。どうやったら回避できるのかが分からない。

 自分には何かが足りない。そう思えばこそ、不安が増すばかりだった。何を見て、何を信じたらいいのか分からなくなる。

 自分でも、不安定に揺れているのが分かっているのだ。子どもを育てていると、妙に彼らが不安定な時があって、そういう時は自分が不安定になっていることが多い。暮らしに懸命になり、仕出かすまいと警戒するあまり、己の苛立ちや不安に気づけなくなっていた。

 もっと優雅な母親になっていたはずなのだ。

 真面目にやっているはずなのに、どうもズレる。

 振り返れば思い出したくないことばかりでつらい。そのせいか、頭はぼやけがちになる。ぼやけがちになると、日々の仕事でミスをする。ミスをすると、またこんなはずではなかったのにと苛立つ。

 ──前は精々ライン工的な仕事しかできん。

 父の言葉に、母は憤慨した。もっとできることがあると言った。

 しかし、今の間知はどちらでもいい。自分に何ができるかという問題を気にしている余裕はない。できるようにならなければならないことの方が多いからだ。

 自分の見ているラインが、何か間違っている気がする。

 どこか別の場所へ逃げ出してしまいたいという、猛烈な衝動に駆られることが多い。パートへ向かう道、家へ帰る道、子どもを迎えに行く道。どの道を通っていても、不安を覚える。

 このまま、乗っている道をまっすぐ行ってしまえば。

 前方にある曲がり道を、ひたすら曲がり続けたら。

 だが、そうした先はどこへ着くのだろう。

 人はよく、自分の人生を然るべき形や収まるべき形があるかのように言う。かつての間知もそうだった。

 だが、今は分からない。何かに乗せられている気がするのだが、何に乗っているのか、どんな形をしているのか、どこへ行くのか、分からない。

 今乗っているこれは、どこから来てどこへ向かうものなのだろう。確かめたことがない。

 この先には何があるのか見えないので、考えてみる。

 他人のラインを覗こうとするが、どこまでも続いていてよく分からない。

 あまりの見えなさ、見づらさに、この人が好きじゃないな、なんて考えて見るのをやめてしまう。

 こんなことをしていても何にもならない。著しい虚無感がとぐろを巻く。

 何かが見えている気がしない。

 私は何を目指せばいい。

 子どもをどんなふうに育てている?

 どうしてあげるのがいいのだろう。

 バラバラなのがいいらしい。みんな違ってみんないいなどという、どこかで耳にタコがつくほど聞いた言葉が頭に蘇る。

 ならば私などいらないのではないか。

 私がここにいる必要はあるのだろうか。

 私はどこへ向かえばいい。

 もし生産ラインのようなものがあるならば、間知だけ皆と乗っているラインの性質が違う気がした。

 どうにかして逃げ出したい。

 移動しながら逃亡先を考えるのだが、どこも思い浮かばない。考えあぐねているうちに、家へ着いてしまう。

 ただただ、こんなところにいるはずではなかったのに、と思う。

 延々とそう思ってしまう自分が、嫌いだった。



「自分に望みがないと思っていたから」

 間知は沈んだ顔で話している。

「私は他人に夢を見た。だって私はダメなんだもの。他のすごそうな人に頼るしかないじゃない」

 そして、夢はなくなった。

 きれいで無垢な愛はないと知った。

 確かなものなどどこもないと分かってきた。

 そういう状況なのだから、たとえ些細なものしか持っていなくても自分だけが確かなのだと気づいた。

「気づいた時には、遅かった。私の人生の大半は他人のものになっていた。今さら自分のために生きるには遅い。私はこれからも、他人の人生のおまけとして生きていくしかない」

 母は顔を両手にうずめた。

「私は間違った。自立の仕方も、結婚も、子どもを産んだことも。そんなことが、この私に人並みにできるわけがないのに」

 ナツメは何も言えなかった。

 母は、自分の何もかもが間違っていたと言った。

 子どもを産むと言う選択も含めて、間違っていたと。

 ナツメにはそのように聞こえた。

 ──ママは、私のことを愛してないんだ。

 無言のまま時が過ぎる。

 やがて間知が顔を上げる。こちらを見て、はっと息を呑んだ。

 頬がこそばゆい。手をやったナツメは、やっと自分が泣いていたのに気づいた。

「ごめんなさい」

 母は消え入りそうな声で言った。その顔は白く、血の気が失せていた。

「ごめんね。そんなつもりじゃなかったの。私が悪いの。ナッちゃんを泣かせたいわけじゃなくて」

 私は。私は。

 母の唇がわなないた。

 それ以上は言葉にならなかった。

 母は急に立ち上がり、リビングを飛び出した。

 背後でリビングのドアが、次に玄関の扉が閉まる音が、さして間を置かずに聞こえた。

「姉ちゃん」

 いつやって来ていたのだろう。

 振り返ると、檜がリビングの入り口から心配そうにこちらを覗いていた。

「大丈夫?」

 涙が溢れだした。

 ナツメは声を上げて泣いた。弟は、黙って傍に寄り添っていた。


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