3 浮かぶ池
3-1
桜が散り、山が若葉に身を包む頃。
振津ナツメとその家族は、おおよそ新しい土地に馴染んできていた。
弟の檜は小学校の友人と共に、日々自然の中を駆け回っている。彼はもともと関心がアウトドアに向いていたが、都会ではその趣味に付き合ってくれる友人がいなかったため、少し不満に思っていたようだった。それがここに来て同じ趣味を持つ友人と出会ったことにより、開花した。小学校の校庭で野球をしたり、友人の家の近くの林で昆虫採取にいそしんだり、川へ行って小魚の観察や水と戯れたりと、外で遊ぶ時間が増えている。
父の明士は、これまで通り仕事に邁進しているらしい。元々家庭に仕事をまったく持ちこまない人なので、会社で何をしているかは分からない。だが、以前に比べて表情が心なしか晴れやかになっている気がする。仕事から帰ってきた後、新しい家のバルコニーで外の景色を眺めながら晩酌をするようになったのには驚いた。これまで父が何かを鑑賞したり、浸ったりする様子を見たことがなかった。ナツメは、ずいぶん父も人間味を帯びてきたものだとひそかに感心した。
ナツメ自身も、この町に心が落ち着きつつあるのを自覚していた。学校生活が充実しているのが大きいが、最近は町にも愛着を感じている。来たばかりの頃は鉄道も通らない鄙びた僻地だと思っていたけれど、今は鉄道がなくとも十分だと思っている。長閑な町並みの中を、友人たちと共に他愛もない話をしながら歩いていると、以前にはなかった安らぎが心の底から湧いてくる。ありのままの自分を出して、受け入れてもらえるという安心感がある。これが田舎暮らしの良さというものかと思っていた。
唯一馴染んでいないのが、母の間知だった。母はことあるごとに文句を言った。
「スーパーが遠くて買い物が大変だわ」
確かに、最寄りのスーパーは徒歩で二十分ほど歩かなければならず、加えて家が高台にあるため、行き帰りの傾斜がきついところがあった。そのため、車に乗れない母だけで買い物をするのは手間だからと、買い物は休日に一家総出で行くようにしていた。
また、家にも不満があるようだった。
「この家、表面だけは新しくしたみたいだけど中身は駄目よ。家の軋む音がひどいもの」
それは、昼夜問わずいつでも聞こえるらしい。どこからかギイギイと軋む耳障りな音が聞こえるというのだが、ナツメは聞いたことがない。
これは弟と父も覚えがないようで、母がそのようなことを言う度に、いまいちピンとこないという顔をしていた。
「新しい家だからこそ、家鳴りがするんじゃないか」
三度目に母が家の異音について不満を口にした時、父は言った。
父が言うには、家鳴りというものは新しい家でも起こるらしい。木材、鉄骨、コンクリート壁。どんな素材でも気温の変化や時間の経過によって密度が変わり、音が鳴ることがある。新しい家などは、素材がこれから馴染んでいくところだから、住み始めたばかりの頃は家鳴りして当然なのだ。
その話を聞いた母は納得してなさそうだったが、最終的にはその説を受け入れることにしたらしかった。
家にいる時間が一番長いのは母だ。だから、家の些細なことが気になるのかもしれない。また、真面目で細かいことを気にせずにはいられない人だから、自分たち以上に新しい環境にストレスを感じやすいのだろう。
父は、あまり母の言うことを気にしていないようだった。だから、自分が母の不安を受け止めてあげるしかない。
ナツメは、母が不安や不満を口にする度に真摯に耳を傾けて慰めるようにした。自分が愚痴を聞くことで、母の精神が安定するのが、いつもの流れだったからだ。
だが、今回はそうはいかなかった。
「近所の奥さんたち、なんだか変よ。ぼーっとしてて、最近のニュースなんて全然知らないくせに、やたらご近所の話だけは覚えてるの」
「夜、馬鹿笑いが聞こえる。外から。酔っぱらった人みたいな大きな声よ。一時間くらい聞こえるの」
「誰かに尾けられてる気がする。外に出ると、私が歩くのに合わせて足音がする。外に出たくないわ」
母は、なかなか我気逢町や新しい住居を気に入ってくれなかった。
日々のことをよくナツメに語ったが、一向にこの町のいいところに目が向く気配がない。嫌なことばかり語ってくる。
一ヶ月半が過ぎてもそのままなので、ナツメは作戦を変えることにした。
──あたしが楽しんでいれば、ママもそのうち変わってくれるかも。
母が新しい環境のいいところに気づかないなら、自分が新生活で感じた楽しみを伝えるしかない。母が感化されてくれるのを期待していた。
ナツメは、毎日学校生活で楽しかったことを母に話した。面白かったエピソード、友達のいいところなど。母に話せる範囲で、話していった。
しかしナツメの思惑は上手くいかなかった。むしろ、母はどんどん負の感情を膨らませていった。
「ナッちゃんはいいよね」
試みから二週間ほど経った頃。学校の話をするナツメに、母は嫌味たらしく言った。
「ママと違って、家の外に行く場所があるんだもの。ママは家にいないといけない。ここから逃れられない。これから一生よ」
食洗機から洗い終わった食器を出しながら、母はぶつぶつと言う。
「パパと結婚した時に、仕事を辞めるんじゃなかった。いや、本当は辞めたくなんてなかった。でもパパが結婚するなら辞めろって言うんだもの。それに、子どもが生まれるならば、なるべく傍についていてあげたいって思うのが親心じゃない。たとえ、いつか親のもとから出て行ったまま帰って来なくなる子どもだとしてもね」
ナツメは、何と言ったらいいか分からなかった。
母が今まで口にしてきたのは日常の些細な愚痴ばかりだった。ここまで直球に恨み節をぶつけてきたことはなかったのだ。
父にサポートしてもらいたくとも、その日はもうとっくに自室に戻って就寝していた。弟にこんな話を聞かせるわけにもいかない。自分一人で対処するしかない。
「そんなことないよ」
ナツメは精一杯言葉を選んで言った。
「ママもまだ家の外に居場所を作れるよ。仕事でも趣味でも、何かやりたいことを始めたらいいじゃない。あたしも、これからどういう人生になるか分からないけど、ママの所になるべく帰って来るようにするから」
「そうね」
母は沈んだ笑い声をあげた。
「ナッちゃんには、まだ分からないよね」
自分の思いは届かなかったらしい。
ナツメは自室へ戻った。扉を閉めて、まっすぐベッドへ向かい倒れこむ。母の重苦しい空気にあてられ、遊んだり宿題をしたりする気力が湧かなかった。
母は変わってしまった。以前なら整髪剤を使ってぴっちりと結わえていた髪を、そのままにしておくようになった。身だしなみに構わなくなった。服はいつも同じ皺くちゃのワンピースで、新しい服を買いに行こうともしない。以前はナツメの制服姿を見て、リボンが曲がっていないかやブレザーの埃のチェックなどもしていたのに、まったくしなくなった。
母は、どうしてしまったのだろう。
ナツメは考えた。
自分は、何か間違ったことを言っただろうか。もしくはそれ以前に、母の気持ちが離れるようなことをしてしまっただろうか。
気が滅入っているらしい母のためにいろいろと気を遣ってきたつもりなのだが、努力は実を結びそうにない。
暗い気持ちの行き場がなくて、眺めるともなしにスマートフォンの画面を眺めていた。
そこへ、アプリの通知ウィンドウが閃いた。
志乃からのメッセージだった。
そういえば、母と会話する前に彼女に返信を送ったのを忘れていた。
──志乃に相談してみようかな。
ナツメはアプリを開き、志乃に今あったことを語った。
どうすればよかったのか。これからどうすればいいのか。
そのように訊ねて、画面を見つめて待つ。
すぐに送ったメッセージの横に既読のマークがつき、さして経たないうちに返事が来た。
「ナツメちゃんは悪くないよ」
まず送られてきたのはその一文だった。
それから間を置いて、また志乃のアイコンの横にフキダシが現れた。
「お母さんが不安定なのは、きっとまだここに馴染んでないからだよ。これからもとの明るいお母さんに戻ってくれるよ」
「うちのお母さん、元々そんなに明るくないような気がするんだけど」
ナツメがそう打つと、志乃はこう返した。
「大丈夫。ここにいると、みんな明るくなるから」
「そうかなあ」
「ナツメちゃんだってそうでしょ」
「確かに楽しくはあるけど」
「今に見ててよ」
そのフキダシのあと、志乃はスタンプを送ってきた。
大きな口を開けて笑う、蛙のキャラクターのスタンプだった。
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