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 アルバイト初日。園藤は牛丼屋で夕食を済ませてから、ヨシヨシ生体工業に出勤した。

 前回と同じように、来客駐車場から保育所まで歩く。先日整然と美しい並びで目を驚かせてくれた庭はすっかり夜に浸かってしまい、まるでまったく知らない場所に迷い込んだかのような気分になった。時々思い出したように現れる外灯の示すぼんやりとした景色と工場の明かりだけが、不安定な道行きの頼みだった。

 ──周りは森なんだ。こんなに暗くなるのも当然だよな。

 園藤は、スマートフォンの充電残量があまりないのを悔やんだ。住宅地から遠い山腹にある敷地は、外灯でも照らしきれないほどに、闇が濃い。予測して然るべきだったのに、市街地暮らしのぬるま湯に浸かって、忘れてしまっていた。

 夜闇という不安定な視界では、昼間好ましく思える規則的な建物の並びも、延々と同じ景色のまま進めない異界を歩いているようで恐ろしい。

 もしかして、進む方向を間違えているのではないか。

 ずっとそのような不安を抱えつつ進んでいたから、工場棟の終わりが見えた時はほっとした。その向こうに保育所の輪郭が現れると、さらに力が抜けた。

 保育所には煌々と灯りがついていた。中に入ってみると、誰もいない。保育士が手を入れたのか、がらんとした保育室はよく片付いており、壁が落書きで満たされている以外に人の気配がなかった。

 玄関、保育室、台所とほとんどの部屋に明かりが点いているのを確認した園藤は少し呆れた。

 清掃スタッフが来ると知っているからかもしれないが、冷房といい、つくづく贅沢な電気の使い方をする。

 しかし、その豪快さが今はありがたくもあった。濃い闇の中を歩くと余計な想像力を使ってしまって疲れる。だから自分以外の存在が点けた明るさに他人の温もりを感じて、安堵するのだった。

 園藤はすぐに掃除を始めた。高い所や壁面に毛はたきをかけ、机を雑巾で水拭きをしてから、一番手間のかかる黒板に取りかかる。

 黒板は見事に落書きで埋まっていた。おそらく絵のつもりなのだろう丸と線の集合体や、よれよれとした文字などの詰まった黒いキャンバスを、端から順番に写真に収めていく。

 ──いろんな年齢の子がいるみたいだな。

 園藤は落書きを見てそう思った。

 親戚の多い彼は、昔から子どもと接することが多かった。だから、落書きの様子を見れば。それを書いたのがどのくらいの発達段階にある子どもかを察せるようになっていた。

 意味のない線と丸の集まりや、かろうじて人らしき輪郭を持っているもの、図形の形すらすらしていないよれよれとしたチョークの痕跡などは、きっと幼児の中の幼児達の作品だ。

 一方で、輪郭のはっきりしているものは、児童に近づきつつある幼児達が作者なのだろう。そういった落書きの多くは、正体の知れない独創的な生物を描いていることが多かった。

 しかし、中には絵心のある子もいるようだ。時々現れるつたなくも可愛らしいデフォルメの動物達や、花を持った笑顔がフキダシで『おしごと おつかれさま』と喋っている絵には思わず笑みがこぼれた。

「可愛いな」

 自分一人きりの空間に気が緩み、つい心の声が漏れる。

 これを描いた子は、仕事に行っている親を思いながら書いたのだろうか。他にも『おとうさん』『ぼく』『まってる』などの文字があちこちに散らばっていて、字を書く練習をするような年頃の子どもが複数いることも察せられた。

 我が子を迎えに来た親たちは、きっとこれを見て和んだに違いない。

 そんな想像を働かせると、記録を残しておきたいという貝塚の言葉が思い起こされて自然と共感の気持ちが湧いた。確かに、この落書きをすぐに消してしまうのはもったいない。

 園藤は漏れがないよう丹念に黒板の写真を撮り、その後クリーナーでまっさらの状態に戻した。

 それから掃除機をかけてマットの汚れをチェックし、水回りを磨き上げた。

 最後に掃除で出たゴミを用具室の扉前に置き、手元の時計を見ると時刻は十九時三十分になろうとしていた。

 まあまあの時間で仕事をこなせたのではないだろうか。

 去り際に自分の清掃の成果を見渡し、園藤は清々しい気持ちになった。

 ──なかなかいい仕事じゃないか。

 清掃の仕事は総じてきついと聞いていたが、ここはひどい汚れがなくてやりやすいように思う。濃い夜の闇が怖いという欠点はあるが、子どもの成長という健康的なものも見られるからチャラだ。

 何より、これで報酬がいいのが素晴らしい。

 保育所を後にし、車に乗って守衛室に声をかけた。すると、制服の男が園藤の名の書かれた封筒を出してきた。

 渡された封筒の中身を確かめると、事前に聞いていた通りの額が入っていた。守衛の差し出した領収証にサインをし、園藤は帰途に着いた。

 ──次来るときは、小さい懐中電灯でも持ってこようかな。

 園藤は、早くも次のシフトに前向きな気持ちを覚えはじめていた。


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