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 野波と話した三日後に、打ち合わせのためヨシヨシ生体工業へ赴くことになった。

 園藤の住まいするアパートはA市の西の端にあり、ヨシヨシ生体工業までは車で三十分ほどの距離がある。先方の採用担当から指定された通り、午前十時に支社の来客窓口を目指した。

 ヨシヨシ生体工業のある我気逢町に向かう。あまり幅のない古い国道を、市街地の反対方向へ走る。対向車線には頻繁に車が通るが、自分の後ろにはほぼ車がいない。だから景色を見る余裕があった。

 住宅の密度が減っていき、反比例して畑が多くなる。視界が開け、普段から遠くに見えていた山脈が前方から迫ってくるような錯覚を受けた。

 耕作地帯の中ほどへ差しかかった時、頭上に道路案内標識が現れた。青地に白い文字でこう書いてある。

『一人じゃないと思える町、我気逢町へようこそ』

 その横には、赤いピクトグラムが二人で並んでいた。

 園藤はX県の出身だが、我気逢町に来るのは初めてだった。だから標識の表示を新鮮に読んだ。

 ──町の紹介文は、名産品や名所、特徴的な文化をまとめるものだと思ってたけど、こういうタイプの文章もあるんだな。

 一人じゃないと思える町とは、どういうものなのだろう。昔ながらの、人とのつながりが強い土地柄だということだろうか。

 考える間に、再び景色に住宅が増えてきた。カーナビを見ると、我気逢町の中心へ近づいているのが分かった。中心を突き抜けた先にゴールの表示が出ている。会社まではもう少しのようだ。

 緩やかな上り坂となった国道の隣へ、いつの間にか川が現れていた。A市にも注ぎ込んでいる川だが、上流らしく大きな岩の目立つ澄んだ流れをしている。川を挟むようにして集落が広がっており、道路には平日の昼間の割に車通りがあった。三方を山で囲まれているものの、意外と明るい町だと感じた。眼下の川沿いにずらりと植えられた桜並木の若緑や、澄んだ水面が日光を吸収して煌めくから、そう感じるのかもしれなかった。

 町の中心にある役場の脇を通り過ぎ、しばらく道なりに進むと、頑健なフェンスで囲まれた大きな方形の工場の立ち並ぶ土地が現れた。

 ここが、目的のヨシヨシ生体工業だった。

 守衛は心得ているようで、あっさりと園藤を通してくれた。来客用駐車場へ停車してすぐ、スーツの男が近寄ってきた。園藤は慌てて車を降りた。

「お世話になります」

 男はヨシヨシ生体工業の貝塚と名乗った。差し出した名刺には人事部所属と記してあった。

「そろそろお見えかと思いましたので、待っていました。現地を見ていただいた方が分かりやすいでしょうから、打ち合わせは現地で行わせてもらいます」

 ご案内しますとにこやかに言って、貝塚は先頭に立った。園藤は言われるまま彼について行った。

 敷地は広く、整っていた。手入れの行き届いた植木や鉢植え、外からも見えた工場、業務用の大型車が行き来するのだろう舗道。そういった要素がすべて等間隔で延々と並んでおり、外をふらふらと歩く自分が余計な異分子のように感じられた。

 ジオラマを歩いてるみたいだな。

 園藤の胸中に、ふとそんな感想が浮かんだ。

 自分たち以外に人影が一つも見当たらないのだ。どこからか金属の高く鳴る音や重低音が響いてくるから誰かいるのは確かなのだが、姿が見えず声もしないので人がいるという感じがしなかった。

 ──業務時間だからかな。

 園藤が日射しに照らされた敷地を見回していると、貝塚が口を開いた。

「いやあ、急なお話なのにアルバイトを受けていただけて助かりました」

 白昼の日差しが眩しいのだろう。目を細めた彼の表情は満面の笑みを浮かべているように見えた。

「野波さんが体調を崩してしまわれて、困っていたんです。野波さんはよく働いてくださっていたので、できれば辞めてほしくなかったのですが、無理強いをするわけにもいきません。しかし、後続の方をこんなにも早く見つけて推薦してくださるとは、さすが顧問のお知り合いです」

 最後の工場を通り過ぎた時、やっと目的の建物が現れた。

 それは、コンクリート造の素朴な外観をしていた。周りの工場が巨大すぎるために少し大きめの邸宅程度に思っていたが、近くへ寄ってみるとちょっとした体育館ほどの大きさと広さがあると分かった。

「こちらが、園藤さんにお掃除していただきたい場所です」

 貝塚が玄関の曇りガラスの戸を開け、中へ入るよう身振りをした。

 足を踏み入れるなり、少しひんやりとした空気が頬を撫でた。季節外れでどこか乾いた風は、人工のものだった。

「寒かったらすみません。冷房をつけているんです」

 館内すべての部屋に冷房がついているのだという。

「まだ夏は来ていないのに、早いですね」

「機械は熱に弱いですから」

 この建物は製造ラインではないだろうに、気を遣う必要があるのだろうか。

 園藤は疑問に思ったが、すぐに思い直した。X県の夏はとにかく蒸し暑い。その暑さは、春の真っただ中に顔を覗かせることもあるほどだ。

 これほど大きな企業である。特別な機械システムを持っているために、一般人の知らないような気遣いをする必要もあるのかもしれない。

 貝塚が正面の引き戸を開けた。

「ここが、お掃除をしていただく部屋です」

 そこは、一風変わった保育室だった。外観通りの小さな体育館に似た奥に長い部屋で、床の全面に取り外し可能なマットが敷き詰めてある。部屋の右手前隅に、丸みを帯びたカラフルな積み木などの玩具がまとめて詰んであるコーナーがあり、奥には机の群れとクレヨンの箱が積んであった。

 普通の保育所と異なるのは壁面だった。奥にある二枚の扉と今彼らが入ってきた玄関を覗いて、全ての面が黒板になっているのである。窓は黒板の上の天井近くに設置されており、上から差し込む光と黒い壁のコントラストに園藤は圧倒された。

「すごく、珍しい造りですね」

 正直な感想を口にしてしまった。言ってから、失礼だったかと後悔した。

 だが貝塚は意に介さず、そうでしょうと頷いた。

「企業ポリシーに基づいております。大人になると、自分を取り巻く環境や現状を維持することに意識が向かいがちになり、生活の発展に結びつくような挑戦的な行動をするのに並々ならぬ勇気や努力が要るようになります。しかし子どもの頃に独創性やチャレンジ精神、そして自己表現力を鍛えておけば、社会で生き延びるためのセンスが磨かれるはず。ですから子どもたちにのびのび過ごしてもらうため、このような造りになっているのです」

「はあ」

 よく分からないが頷いておいた。

 貝塚は奥にある二部屋も案内した。事前に野波から聞いていた通り、小さな台所とトイレ、そして用具室があった。

「園藤さんにやっていただきたいのは、この建物全体の清掃です」

 用具室に清掃道具の入ったロッカーが設置してあった。貝塚はその道具をわざわざ出しながら、具体的にどこを掃除してほしいかを説明した。その内容をまとめるに、部屋全体の埃を落として掃除機をかければいいらしかった。

「次に、黒板の清掃です」

 貝塚は、清掃ロッカーの中にある大量のチョークと雑巾、黒板消しを示した。

「チョークの補充と、黒板の清掃をお願いします。清掃チェックリストにそろえておくべきチョークの本数を書いてありますから、この数を必ずチョーク置き場に準備してください。チョークの粉が床に落ちがちなので、雑巾で水拭きをしてください。汚れがひどいようでしたらマットの交換もお願いします」

 ああ、そうそう。

 貝塚はおもむろにロッカーの上方にある棚を漁り、デジタルカメラを一台取り出した。

「大事なことを言い忘れていました。黒板の清掃前に、このカメラで黒板の記録を撮っていただきたいのです」

「黒板の記録を?」

「はい」

 貝塚は真剣な表情だった。

「親は、自分の子どもの成長の様子を見たいのです。だから仕事で傍にいられない代わりに、記録を残すことにしております」

 社員の家庭に、随分熱心に関わるものだ。

 園藤は頷いた。

「分かりました」

「そして、これが最後のお願いです」

 貝塚はロッカーの扉に吊り下げてある大きなゴミ袋を指で摘まんだ。

「使用済みの雑巾や汚れ過ぎたマットレスなどのゴミはこの袋に入れて、そちらの扉の前へ置いておいてください。あとで職員が回収します」

 彼が指示した用具室の片隅には、両開きのスイングドアがあった。顔の高さの位置に鏡がはまっており、用具室の暗闇に包まれた椅子やら大きな玩具やらが映りこんでいた。

「シフトは」

「園藤さんには月、水、金の十八時からの当番をお願いします。二十時にはオートロックがかかりますから、気をつけて。それより遅れそうな場合はこちらの番号へ電話をください。担当の者が施錠時間を延長します」

「分かりました」

「業務が終了しましたら、忘れずに守衛へ声を掛けてくださいね。報酬をお渡ししますから」

 説明がすべて終わった。

 駐車場まで送るという貝塚の背中に続きながら、園藤は内心胸を撫でおろしていた。

 ──少し変わってるけど、危ない仕事ではなさそうで良かった。

 知り合いが持ってきた話でも、蓋を開けてみたらとんでもない内容だったということはよくある。野波がそのような手合いでなかったことにも安心していた。

 園藤は玄関で靴を履きながら、そういえばと訊ねた。

「今日は、保育所はお休みなんですか?」

「ええ。都合でできなくなってしまいまして。こういう日はお休みにしています」

「そうなんですか」

 保育士が来られなくなったのだろうか。

 園藤は預り所を使用する予定だった社員と、その子どもへ思いを馳せる。保育士にも都合があるから仕方のないことだが、きっと親はさぞ困っただろう。子どもたちは今頃どうしているのだろうか。親類など、他に面倒を見られる人の傍にいればいいのだが。

 貝塚は言葉通り、園藤が駐車場へ戻り車に乗り込むところまでついてきてくれた。

「では、明日からの勤務よろしくお願いいたします」

 深くお辞儀する貝塚に見送られ、園藤はヨイヨイ生体工業を後にした。

 ゲートをくぐるまで、バックミラーに腰を折った貝塚の頭頂部が映っていた。


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