3-2
母はおかしくなっていった。
几帳面さと真面目さは月日が経つにつれて度合いが強くなっていき、鬱陶しいほどのヒステリーと頑固さへと転じた。被害妄想が増大し、感情的になった。母が不安な己を鼓舞しようとすればするほど、不安定な精神が歪に尖り、繊細な感受性を守ろうとする。合理的な意見でさえ、己を言いくるめようとする方便に聞こえるようだった。
「この町ときたら、本当にどうしようもない」
彼女はいらいらとした様子で、くり返し呟いた。
「家族もどうしようもない。何もかもどうしようもない。世間にはバカばかり」
行き場の分からない怒りが強くなるほど、母はぼやきをあちこちにぶつけた。ネズミ花火のようだった。
能天気な弟も、母の異常を察してか息をひそめて過ごしている。さすがの父も、母の神経質が尋常でないと気づいたらしかった。
引っ越しから二ヶ月あまりが経ったある日。仕事から帰り夕食を取った後、俯きがちの母に父は言った。
「最近どうしたんだ。調子が悪いようなら、医者にでも行ったらどうだ」
「調子が悪いようなら、ですって」
母は顔を上げた。
ばさついた髪の隙間から色褪せた唇が覗き、歪む。
「今さら何を言ってるの。誰のせいでこうなったのか、分かってないのね」
「俺の転勤のせいだと言いたいんだろ」
父はかぶりを振った。
「君には感謝している。俺の都合に合わせて働いてくれて、ありがたいと思っているよ」
「そうでしょうね。私はあなたにお願いされたから、家庭に入った」
母は歯を剥き出して笑った。
母はすっかり窶れてしまった。身綺麗にしていないと気が済まなかった二ヶ月前からの変貌ぶりは劇的で、くすんだ顔色、濃い影の落ちる眼もとは、まるで幽霊のようだった。
虚ろだった眼差しが、父の言葉を受けて急にぎらぎらとした輝きを放ち始めた。
嫌な予感がする。
ナツメはぼんやりしている檜を連れて、リビングを出た。
ドアを閉めた直後、叩きつけるような激しい詰りが聞こえてきた。
「私は仕事を辞めたくなんてなかった! あなたが辞めろと言うから、家のお金は自分一人でまかなえるって言うから、仕事を辞めたのよ」
弟の手を引いて階段を上がる。
ナツメは言った。
「今日は部屋で静かにしていた方がいいかも」
檜は頷き、自分の部屋へ入っていった。
ナツメも自室に戻り、勉強机の前に腰かけた。今日は明日までにやらなくてはならない課題がある。気は乗らないが、終わらせておかないといけない。
机に向かい、課題のワークを出して向き合う。白いページと向き合い、文章に集中しようとする。
それでも下から、金切り声が聞こえる。
勘弁してよ。ナツメはげんなりした。二階と言えど、彼女の部屋は一階と繋がる階段の正面にある。だから、声が伝わってきてしまうのだ。さすがに一階にいた時ほどのボリュームはないが、剣のように尖った声は空気をたやすく切り裂き、内容までこちらへ伝えてくる。
ナツメは目の前の白いノートに字を書き、気を紛らわせる。
あなたは家計を回すのに必要な最低限の金しか、家族用の口座に入れてくれない。あとの金はすべてあなたのもの。一銭たりとも、私や子どものためには使ってくれない。
これで、たまには私たちに美味しいお菓子でも買ってきてくれるならば、まだ納得できるわ。打ち込んでる趣味があったり、仕事仲間と遊びに行くのに使ったりする方がまだ分かるわよ。仕方のない人だなって思える。
なのに、あなたときたら、残りの金を一切使わない。どうするのかと思ったら、自分だけの口座に入れて、増えていく残高を見るのを楽しむだけ。数字が好きなのね。昔からそうだったわ。子ども達のこと、数字でしか聞かないんだもの。身長は何センチか、体重の変化はどうか、平均に足りないんじゃないか、ちゃんと食べさせているのか、何を何グラム食べさせているのか。最近はテストの点数の把握だけ。子ども達が何をして過ごしているか、遊んでいるか、勉強しているか、そういうことを話しても反応が薄くてつまらない。
あなたは、あなたの思う家庭に必要な最低限の金を計算して、それ以上を絶対に渡さない。足りないって私が言うと、お前のやりくりが悪いなんて言うだけで、どんな事情があっても一切お金をそれ以上出してくれない。
覚えてるわよ。ナツメのお遊戯会の集金でお金が足りなかった時のこと。あなたはお前の金で賄えと言った。私は耳を疑ったわ。私の稼いできたお金は、結婚した時に家族の通帳に全部入れた。そうしろと言ったのはあなただった。
私がそのことを言ったらあなたは、お前の金銭管理が甘いのが悪いって言ったわね。責任を取って、お前の持ち物を質に入れてどうにかしろなんて言う。
だから、パートを始めた。
あなたを信頼して銀行を辞めたのは間違いだった。見る目がなかったわ。結婚なんて詐欺よ。私みたいに、子どもができて、離婚することができないでいる女がどれだけいるのでしょうね。
子どもがいるから、夫の稼ぎがなければ生きられない。
起きている間はとにかく動き、働き続けなくてはならない。
忙しさの合間を縫ってパートで働いても、かつて正社員だった頃ほどの稼ぎにならない。すべて家のために溶けていく。
あなたは私に、お義母さんのようになれと言う。確かにお義母さんはすごいわよ。フルタイムで正社員として働きながら、家のこともして。女が家庭に入って当たり前の時代にああいう風に生きられるのはすごいと思うわ。
それと比べたら、私は本当にしょうもない。頭はそんなに良くない、度胸もない、弱い人間。少しでも状況を変えるために努力すればいいのに、できない。
子育てだって、うまくいっている自信がないわ。子どもが可愛いのはもちろんよ。でも、しっかり育てなくちゃ、うまくいかなかったら自分のせいだっていう義務感がつきまとって離れないの。それに、子ども達は年々大きくなって、親のいないところで様々なものを吸収してくるでしょう。身につけてほしくないものがあったとしても、完璧に防げない。どんなに手を尽くしても、完璧な子育てはありえない。子どもを見ていると、親としての自分の至らなさを突きつけられるようで、苛立ちが募ることも多いわ。
自分でも分かってる。お義母さんと比べて出来が悪く感じるのも分かるわ。
でも、その私を妻に選んだのはあなたなのよ。
いいえ、あなたは私を自分が教育しなくちゃと思ってるでしょう。私に対して、ここが間違っている、こうすればいいと指摘して導いてると思ってるかもしれないけれど、違う。それは導いてるんじゃなくて、意見と仕事の押し付け。うるさいな。何が分かってる、よ。私達の苦しみの何が、あなたみたいな器の小さい人に分かるっていうの。
そうよ、小さい。ケチくさい男。自分の仕事を限定して、それさえ完璧にこなしていればいいと決めつけている、しょうもない男。あなたのルールが当たり前で、それを周りも守ると思って疑わない。お義父さんとお義母さんは力があるからあなたに合わせられたんでしょうけど、私は無理。
失敗だった。こんな町に連れてこられて、息の詰まる仕事は全部やらされて。
どうしてあなたみたいな人を選んでしまったのかしら。そういうところもちゃんとできなかった自分が、嫌になる。
母の、まさに我が身を裂くような言葉は、呪いのようだった。
苦しみを訴える肉親の声を聞かずにいることは不可能で、ナツメの手はいつしかノートの上へ置くだけになっていた。
「この町が嫌い」
母は叫んだ。
「みんな同じ顔をしてる。そろいもそろって腹の立つマヌケ面。そのくせ、こっちの様子は探偵みたいに抜け目なく窺ってるんだもの。うんざりする」
少しの用があって外に出れば、近隣の誰かに出くわして長話になる。
何を話すのかと思えば、こちらの素性を聞くものばかり。
そのまま行き先についてこようとすることもある。
道を歩くと、誰かがついてくる気配がする。
夜に外を見れば、通りかかった人間と目が合う。
「絶対なの。窓から見下ろすと、必ず誰かと目が合う」
彼らは私たちを監視している。
母はそう訴えた。
「どうせ、この騒ぎだって聞いてるんだわ。私たちの品定めをしているのよ。あなたは何も思わないの? この町はなんだか変。息が詰まる」
父の声は聞こえない。
どんな顔で母の声を聞いているのだろう。ナツメは父の返事が聞こえるかと耳をそばたてながら、母の言ったことを思い返した。
この町の人間が、一家を監視している。
ナツメには分からない。そんな気配は感じたことがなかった。自分の周りは友好的なクラスメイトばかりだ。それ以外の町の人間がこちらを窺っていたことも、誰かがつきまとってくることもない。
──ママは本当にどうかしちゃったのかも。
ストレスが溜まって幻聴が聞こえているのかもしれない。病院にかかった方がいいという父の助言はもっともに思えた。
突如、母の声が一際大きくなった。
「ちょっと、待って」
扉の軋む音。入り乱れる二人分の足音。聞きなさいよという叫び声。
「こんな時間にどこへ行くの。だんまりしてないで、何か言ってよ」
母の叫びに重なって、玄関の戸が閉まる重い軋みが聞こえた。
母が何か叫びながらドアを開けて外へ出た。表から車の発信音が響き、遠ざかる。
──嘘でしょ。
ナツメは自分の耳を疑った。
父が家を出たらしい。この夜中にたった一人で、取り乱した母とナツメ達を置いて出て行ったのだ。
ナツメは頭を抱えた。
両親の関係が崩れた今、家を支える役目を負えるのは自分しかいないと分かっていた。
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