3-3

 翌日から、父は帰って来なくなった。

「パパからひと言だけメッセージが来てたのよ。なんて書いてあったと思う?」

 母はヒステリックに笑って、ナツメにひびの入ったスマートフォンの画面を見せた。

「金だけは送る、だって。まったくあの人らしいわ。金を作ることだけが父親の仕事だと思ってるのよ」

 アプリの画面には、母の言葉通り父からの簡潔なメッセージが届いていた。その上下を、母の打ったおびただしい呪詛の羅列が埋めていた。

 母とナツメたち姉弟の三人暮らしが始まった。表面上は、これまでとさして変わらない和やかな団欒を過ごしていたけれど、ナツメはいつも内心恐々としていた。母が、またいつ父に見せたような爆発を見せるか分からなかったからだ。

 あの一件以来、母は時折前より遥かに濃い不満を呟くようになっていた。不規則に噴き出す負の念は、まるで大噴火を控えた余震のようで恐ろしく、気が休まらなかった。彼女を不用意に刺激しないためにも、姉弟はなるべく素直な明るい良い子として立ち振る舞うよう心がけた。

 学校に行っている時だけが、安らぎだった。いつもよく遊んでいる志乃を含む仲良し五人組は、ナツメから現在の家庭状況を聞くと、心底同情した様子を見せた。

「ナツメちゃん、大変だね」

「家族のみんなに気を遣って、すごいよ」

 瑛美が慰め、幸三が称える。

「あたしだったら耐えられない」

「相談なら、いつでも俺たちが聞くから」

 浄美が恐ろしそうに眉を下げ、信二が励ます。

「遠慮しないでね。ナツメちゃんが苦しんでるの、見てられないもん」

 志乃は優しくナツメの肩を叩いた。

 話を聞いて、他のクラスメイト達も口々に慰めてくれる。いたわりの声の数々に、ナツメは涙が出てきそうになった。

 母は変なことを言うけれど、やっぱりこの町に越してきたのは幸運だったのだ。きっと彼女は、積もり積もった父への不満と引っ越しのストレスから気がおかしくなっており、勝手に被害妄想を膨らませているだけなのに違いない。この優しいクラスメイトたちの生まれ育った町が、どうして自分たちを監視したり見下したりするだろう。

「きっと、すぐにもとのお母さんに戻ってくれるよ」

 クラスメイトがそう励まして送り出してくれるから、どうにか家に帰ることができる。

 ナツメはなるべく早く家へ帰り、母の家事をそれまでより積極的に手伝うようになった。以前なら日が沈むまで友人と遊んでいた檜も、日が沈むよりずっと早く帰って来るようになった。六月になって日が伸びたから、早く帰って来たように見えるというわけではない。檜の帰宅時間は、本当に早くなった。学校の終業後まっすぐ家へ帰ってきて、そのままずっと家にいることもあるくらいだ。

「二人とも、やけに帰ってくるのが早くなったわね」

 母は家にいる時間の長くなった姉弟を見て、そんなことを言う。

「前は夕飯直前にやっと帰って来るようだったのに。どうして?」

 本気で言っているのだろうか。

 ナツメは母を疑った。分かって言っているのならばたちが悪い。しかし、今の母の精神状態ならば仕方がないのかもしれない。

 母が不安定で心配だからと正直に言えば、また彼女が負の情念の奔流に押し流される可能性が高い。だからそこには触れず、別の理由を答えた。

「最近、雨が多いから」

 新居に、引っ越してから初めての梅雨がやって来ていた。五月になって急に暑さが増してきたと思ったところにやってきた長雨は、我気逢町全体を蒸し風呂に変えた。

 X県の夏はひどく暑いのだという話は、学校で聞いていた。その話通り、毎日温さが纏わりつくような感覚に苛まれ、冷房を求めるようになった。

 以前住んでいた町の夏も暑かったが、我気逢町の暑さはそれとは別種だった。前住んでいた辺りは、梅雨でも我気逢町ほど雨が続かなかった。代わりに周囲をコンクリートと人に囲まれていたので、梅雨から夏にかけてアスファルトの照り返しと溢れすぎた人の体温、そして蒸発する雨水で、五右衛門風呂のような酷暑に苦しんでいた。

 一方で、我気逢町の蒸し暑さは、肌をふやかすような生ぬるさが特徴だった。人口密度が低く、自然で溢れているから、雨が長く続くと、木や土や動植物から跳ね返った雨粒が空気を満たし、消えないのだ。濃厚な自然の気配が肌に迫り、そこに夏の暑さが加わって、人を超えた何かしらの大きな生命の温もりに包まれているような錯覚に陥る。

 ニュースで梅雨入りが告げられてから毎日、空はどんよりとした鈍色に隠された。日の光の差さぬ、時間の感覚があやふやになるような日々。しかし、不思議と気分は落ち着いていた。なぜならば、雨が降っている間は、母が異音や異常な視線を訴えなかったからだ。外の蒸し暑さや不明瞭な視界、終わりない雨音に意識が持っていかれているのか。はたまた、雨音にすべての異音がかき消されるのか。理屈は分からないが、母の愚痴が収まる分にはなんでも良かった。

 けぶるような雨の中、母子三人はクーラーの効いた新居に籠る。

 雨が降っている日の夜は、静かな団欒に身を置くことができる。リビングで母が家事をし、弟が宿題をする横で、ナツメも一緒に課題をしたりスマホを見たりして過ごす。

 そういった時間を過ごしながら、ナツメはすべての調和の取れた薄暗く静かな湖の底へたゆたっているような心地になるのだった。




 梅雨入りしてから間もなく、クラスに変化があった。

 朝のホームルーム開始を告げる予鈴と同時に、齊賀がふらりと教室へ現れた。梅雨の暗い窓と共に見る担任教師は、今日も一段と幽霊じみて見えた。

「明日は保護者承諾書の締め切り日だ。忘れないように」

 いつも通り直近の連絡事項を告げた後、齊賀が手にしたボードから顔を上げてクラスを見渡した。

「それと、今日から良々木ららきが戻ってくる。良々木にとっては今年度初めての教室になるわけだから、みんなよろしくな」

 齊賀はナツメの斜め前の空席へ視線をやった。その席は、転校初日からずっと誰も座っていなかった。

「ただ、今日は遅刻してくるらしい。良々木が来たら、誰か職員室の俺のところへ式で読む作文の原稿を持って来るように伝えてくれないか」

 それが、ホームルーム最後の連絡だった。

 ホームルームが終わり、齊賀が教室から出て行った後、ナツメは志乃に話しかけた。

「良々木さんって、会ったことあるの?」

「うん」

 志乃は頷いた。

「私と同じ小学校の出身だから、よく知ってるよ」

「そうなんだ」

 いつから学校に来ていないのだろう。

 ナツメが訊ねると、志乃は今年度になってからだと答えた。

「去年も出席ギリギリだったんだよね。小学校の頃は優等生って感じだったんだけど、すっかり変わっちゃって」

 元気にしてるのかなあ。

 志乃は空の席を眺めてのんびりと言う。

 あまり交流がないのだろうか。

「あ」

 誰かが声を上げた。教室の数人が、同じ方向へ顔を向けるのが見えた。

 ナツメも流されるようにそちらへ視線を向けた。そして、はっと息を呑んだ。

 教室の後ろのドアから、人目を引く少女が入ってきた。背が高く、すらりとした身体つき。長く伸ばしたひっつめ髪の下、露わになっている顔は仮面のように美しい。手足の長さや目鼻の彫りの深さはどこか日本人離れしており、周囲の素朴な学生たちの間に佇んでいると余計輝いているように見えた。

 彼女を見つめているうち、ナツメは胸の内に自分を恥じる気持ちが湧いてくるのを感じた。

 引っ越してきてからこれまで、自分の周囲にいる学生たちを田舎臭いだの垢ぬけないだのと思っていた。

 だが、彼女の輝くような美貌はどうだろう。あれと比べてしまえば、自分の方がはるかに乳臭い。美的感覚の洗練された都会に生まれ育ったはずなのに、これはどういうことなのだろうか。

 彼女は周囲の視線に反応することなく、こちらへ向かって歩いてきた。彼女に気づいた志乃が声を上げた。

「おはよう、ララちゃん。久しぶり」

 席に鞄を置く彼女に、志乃が寄っていった。

 うち砕けた様子と愛称から、彼女こそが先ほど齊賀の言っていた生徒──良々木なのだと察した。

「おはよう」

 良々木はにこりともせず返した。

「元気だった?」

「まあ」

「先生から伝言だよ」

「職員室に顔を出せって?」

「うん。あと、五時間目の進路行事のためのレポートを届けに来い、だって」

「今日の重役出勤ってあたしだけ?」

「そう。ララちゃんだけ」

「珍しい。小学生の頃なら、あと五人くらいたはずなのに」

「やだ、ララちゃんったら。もう中学二年生だよ」

「そうだった」

 良々木は教室を見回して、もう一度鞄を背負った。

「一限の先生に、今の話を伝えておいてくれない?」

「分かった」

 志乃の了承する声を受け、良々木は入ってきたばかりの教室を出ていった。

 ナツメは自分の席に座ったまま、呆けたように彼女らのやりとりを見つめていた。

 良々木の背中が教室のドアの向こうへ消えるのを見届ける。その後、志乃にそっと囁きかけた。

「今のが良々木さん」

「そう」

 志乃はいつも通りの笑顔で頷いた。

良々木朱姫葛ららきすぴかちゃん。美人さんでしょ?」

 ナツメは頷いた。

「小学生の頃は、もっと可愛かったんだよ。大人しくてにこにこしてて、無邪気だった。中学に上がる前くらいから、あんな感じになっちゃったんだよね」

「なんで?」

「さあ」

 朱姫葛は中学生になってから、高頻度で遅刻してくるようになった。その度、去年も同じクラスだった志乃が担任からのメッセンジャーとなって彼女と話してきたという。

「それより、さっき先生が言ってたこと覚えてる?」

「え?」

 突然違う話を振られて、ナツメはきょとんとした。志乃は困ったような笑みを浮かべた。

「式の保護者承諾書、明日までだって話」

「ああ。そうだった」

 思い出すと、志乃は安堵したようだった。

「ナツメちゃんのお母さんが渋るようなら、私のお母さんに協力してもらうこともできるから、夜電話してね」

 始業のチャイムが鳴った。教室の前にある扉から担当教師が入ってくる。

「あ、いけない。先生が来たから行ってくるね」

 教卓へ駆けていく志乃の背中から目を逸らし、ナツメは溜息を吐いて授業の準備を始めた。

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