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 引越し先の社宅は、父の勤め先にほど近い、町の中心より少しだけ高い所に佇む一軒家だった。ベース型をした二階建てで、赤い三角屋根とつやつやしたアイボリーの壁が可愛らしい。外壁に黒ずんだところはなく、家の中へ一歩踏み入ると、真新しい塗装の匂いがした。

「ここ、あなたの会社の創業時からあるって言ってなかった?」

 不思議そうな顔をする母に、父はそうだと答えた。

「何度か建て替えたそうだよ」

「どうして?」

「さあ。あまりに古い構造の家だと手入れが難しいからじゃないのかな。汚れた社宅だと社員のモチベーションも下がるし、企業のイメージにも悪影響が出るだろう」

 檜は、壁にひっつくようにして匂いを嗅いでいる。

「新車の匂いがする」

「リフォームしたからさ」

 父は弟の頭を撫でた。

 一家はこれまでずっと、マンション暮らしをしてきた。だから、一軒家で最初に迎える夜は、非常に新鮮だった。人が帰ってくる時間帯になっても、隣家の物音がしない。両隣の家とは空き地を挟んでいるため、お互いの立てる音を気にしなくていいのは、とても気が楽だった。

 二日間の休日は、引っ越しに伴う諸々の作業でめまぐるしく過ぎていった。そして、あっという間に月曜日がやってきた。

 今日からついに、新しい学校へ行かなければならない。

 ナツメは二階の自分の部屋から、校舎を見つめた。新しい学校は新居から近く、徒歩で十五分ほどの位置にある。薄い水色の豆腐に似た校舎は、温度のない顔で彼女の視線を受け止めていた。

 転入試験を受けに行ったことがあったから、どんな場所なのかは知っている。それでも、新しい学校生活を思うと、どうしても憂鬱になってくる。

 ──浮いたらどうしよう。

 新しいクラスメイトに馴染めるか、不安だった。

 ナツメは、我気逢中学校にどんな生徒がいるかを知らなかった。転入試験を受けに行った時、校舎にはまったく生徒がいなかった。春休み中だった。

 引越しも転校も初めてである。不安との付き合い方が分からなくて、ずっと途方に暮れていた。

 その気持ちをどうにかしたくて、今日まで周囲に相談してきた。だが、皆どこか他人事だった。

 母は、ナツメがたまにぽつりと不安を漏らせば慰めるようなことを言ったが、どれも根本的な解決にはならなかった。代わりにお菓子や洋服を目の前に吊り下げ、ナツメを宥めようとする。いつもの母のやり方は変わらなかった。

 そもそも、母に自分を慰めることなど不可能だ。ナツメが東京に残りたいと言った時に、快く聞いてくれなかったのは母である。だから、母にはそこまで期待していなかった。

 一番期待していたのは、前の学校の友達だった。去年、初めての中学校生活で直面した苦楽は、どれも彼女たちと分かち合ってきたからだ。今回も、心の拠り所になってくれることを期待していた。

 ナツメは、メッセージアプリを使って彼女たちに助言や励ましを求めた。

 最初のうちは、皆ナツメを気遣うようなことを言ってくれた。ナツメの話に相槌を打ち、大変だね、ずっと友達だからねと言っていた。

 しかし、それだけだった。具体的に何かアドバイスをくれるわけでもなく、最終的には塾があるからアプリを開けなくなる、母親がスマホを見るなと言うから見られなくなる、などと言っていなくなった。そう言っていなくなった子はいい方で、ほとんどの子は何も返事をしなくなった。いつもならばくだらない話のために皆深夜までやりとりしているのに、その日に限って夜が更けるにつれ誰も来なくなった。

 ──新しいグループを作って、そっちで話しているのかも。

 いつまで経ってもグループメンバーの既読の印がつかない自分のメッセージを見つめて、ナツメは思った。理由は、あまり考えたくなかった。

 ナツメは、友人たちにメッセージを送るのをやめた。

 弟には、自分の苦しみをどうにかしてもらおうなんて、期待していない。代わりに、彼には自分のような不安はないのだろうかという疑問を覚えた。弟の無邪気に新天地を楽しむ様子を見ていると、自分と根本的に生き物としての作りが違う気がした。もしかしたら、本当は彼なりに不安を押し殺しているのかもしれない。けれど、ナツメの目にはそういった様は見えなかった。

 父は何も言わなかった。今日もいつも通り、ナツメが朝起きてくる頃に出勤していった。少しは励ましてくれたっていいのに、と恨みがましい気持ちを抱いた。

 ナツメは生まれてはじめて、孤独というものを身に染みて意識した。家族や友達と言えど、自分の都合が第一。誰もナツメの苦しみを我がことのように捉えて寄り添おうとする者はいない。そんなものだ。

 ナツメはこめかみを押さえる。昨夜なかなか寝付けなかったせいか、朝から頭が痛かった。万全でない体調と心理で、気分は最悪である。

 部屋の窓の外、遥か彼方から予鈴が届く。ナツメは溜息を吐いて、鞄を背負った。




 我気逢中学校の二学年は四学級あり、ナツメはそのうちの四組に所属することになった。

 担任は齊賀という若そうな男だった。若そうなというのは細くも筋肉のしっかりついた身体つきからそう推測しただけで、実際の年齢を聞いたわけではない。

 彼はいつも目が死んでいた。転入試験で初めて会った時からそうだった。その光のない眼差しが、彼の年齢を曖昧にさせていた。

「分からないこと、困ったことがあったらいつでも聞いてくれ」

 齊賀はそう言ってからうっすらと笑みを浮かべ、

「まあ、俺も去年ここに赴任したばかりだから、よく分からないことが多いんだけどな」

と言った。

 頼りにしていいのかダメなのか、よく分からない。

 齊賀との会話はそれだけだった。すぐに朝のホームルームへ向かうため、担任に連れられて職員室を出た。

 この学校で過ごすために必要なことは、前の住居にいた頃にオンラインの通話ツールを利用してやりとりし、すべて聞いていた。だから今日は、さして会話をする必要がなかった。

 ナツメはひょろりとした背広の後ろ姿についていく。教室のある区間に近づくにつれ、廊下をうろつく学生服の数が増えていった。

 この学校の生徒は、男女共に不思議な色の制服を着ていた。ブレザー、ズボン、スカートのすべてが、緑がかった薄い青色をしている。水色に近い明るさなのだが、水色ではない。不思議な奥行きを感じる色彩は、強いて言うならば、以前歴史の資料集で見た薄浅葱という色に似ている気がした。

 薄ぼんやりと明るい制服に身を包んだ生徒たちの中で、自分は前の中学校のセーラー服を身に纏っている。そんな頭があるせいか、すれ違う生徒たちの目を気にせずにはいられなかった。早くも自分が浮いてしまい、それが不和に繋がったらと思うと、怖かった。しかし、転校に合わせて発注した新しい制服がまだ届かないのだから、仕方ない。

 生徒たちは見慣れない転校生が近づいてくることに気付くと、まっすぐにこちらを見つめた。彼らは束の間、ナツメを丸い目で凝視したが、通りすぎる頃になると、その前に会話していた友人の方へ顔を戻した。通り過ぎてから振り返ってみても、こちらを盗み見たりひそひそと会話したりする様子がなかった。ナツメにさして興味を持っていないような気がした。

 ナツメ達が教室にたどり着いた時、ちょうど朝のホームルーム開始を告げる予鈴がなった。

 教室に入ると、クラスメイトが一斉にこちらを見た。一気に三十ほどの視線に晒され、身が竦む。

 齊賀が始業を告げると、生徒たちはすみやかにそれぞれの席に戻り、当番の声かけのもと朝のホームルームを始めた。

 担任教師の言うことを聞き素直に動く彼らを見て、ナツメはひとまず安堵した。

 穏やかそうな学級と見て良さそうだ。齊賀がナツメを紹介しても、悪意のある目配せを交わしたり、嫌なくすくす笑いで私語をしたりするようなことはなかった。廊下にいた生徒たちと同じように、珍しいものを見かけたというような雰囲気で、僅かに目を見開いているだけだった。

 ──なんか、ぼんやりしてる人たちだなあ。

 転校生というのは、こんなに反応されないものなのだろうか。

 ナツメは、ほんの少しだけ不満を覚えた。妙な注目のされ方はしたくなかったが、かと言って反応が薄いのもつまらない。心の奥底で新鮮な反応を期待していたところがあった。

「振津ナツメです。東京のF学園中等科から来ました」

 ナツメが自己紹介を終えると、生徒たちは拍手をした。

 ぬるい拍手に、やんわりとした笑顔。

 彼らを見つめ返しながら、インターネットの検索窓に田舎の中学生と打ち込んだら、まさにこの子たちのような中学生が出てくるだろうなどと考えた。髪や眉の形は、手の入っていないありのままの姿だった。

 ナツメの席は教室の最後方、窓際から二列目になった。

 朝のホームルームが終わると、隣の席の女子が話しかけてきた。

 肌のやや浅黒い、小鹿のような面差しをした女の子だった。

「私は井磯志乃いいそ しの。これからよろしくね」

「よろしくね」

 志乃は初対面の相手とする会話──呼び方の確認、どこに住んでいるのか、部活動に所属していたか否か他──を一通りした後、にこにことして言った。

「ナツメちゃんって可愛いね。都会の女の子だからかな。なんか垢ぬけてて羨ましいわ」

「ええ、本当? 嬉しい。ありがとう」

 志乃は教室前の壁に掲示してある時間割を指さした。

「次の時間は移動教室なんだ。良かったら、一緒に移動しようよ」

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