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 学校にいる間、ナツメは志乃とひたすら行動を共にしていた。

 井磯志乃は良い子だった。前の学校の友達のような垢ぬけたセンスはないが、きわめて気立てが良い。ナツメの知らないことを教えてくれ、授業に必要な道具がない時はいち早く助けてくれる。それでいて恩着せがましい顔や得意げな様子は見せず、いつもおっとりした笑顔を浮かべている。愛嬌のある子だった。

 驚いたのは、彼女が自分の家から百メートルも離れていない近所に住んでいるらしいということだ。帰り道でなんとなくお互いの家の話になり、そのことを知った時は驚いた。その場ですぐ連絡先を交換したのは、言うまでもない。

 夜、ナツメは一人部屋でベッドに横たわり、スマートフォンの画面を見つめていた。志乃とメッセージのやり取りをしているのだ。

 彼女はメッセージの確認と返事も気が利いていた。遅すぎず早すぎず、ちょうどいい長さの文章をリズムよく送ってくれる。

 かれこれ二時間くらいやりとりをしていたが、全く飽きなかった。久しぶりに自分の話をまともに受け止めてもらえて、とても満たされた気持ちになっていた。

 ──そろそろ寝ないと。

 時計の針は、あと一時間で翌日になることを告げていた。まだまだ話し足りないが、いい加減寝ないと明日と美容に響く。

 その時、志乃から連絡が来た。彼女も、名残惜しいがもう寝ないといけないと言っていた。

 ナツメの口角が上がる。

 あまり期待していなかった新しい学校生活だったが、案外悪くないかもしれない。クラスメイトも、今のところ穏やかそうに見える。人間関係のトラブルは心配しなくて良さそうな気がした。

 明日元気に学校に行くためにも、早く寝よう。

 ナツメはスマートフォンを枕元へ置き、電気を消してベッドへ入った。

 田舎の夜は暗い。転居初日は足先まで染みそうな濃い夜に驚いたが、早くも慣れてきつつあった。遠くからカエルの声が聞こえるのも、案外気にならない。都会の喧騒に比べて、鳴き声は空気によく溶け込んでいた。

 うとうとしかけた時だった。

 ──ジャア。

 どこからか奇妙な音が聞こえて、ナツメは一気に目が覚めた。

 何の音だろう。水の音のようだが、何かが不自然だった。

 向かいの用水路ではないだろう。音はそれより明らかに近い場所で、はっきりと鳴った。

 何だろう。ナツメは耳を澄ます。

 ──ジャアッ。

 再度あの音が聞こえ、ナツメは驚きに身をこわばらせた。

 音が近づいている。その聞こえ方の変化で、とあることに気づいた。

 音は、家の中からしているのだ。

 ──ジャアアッ。

 ナツメは布団を被った。

 音が異様に近づいた。明らかに、この部屋の近くで鳴った気がしたのだ。

 ナツメは息を殺し、耳を澄ませる。廊下を歩く足音や、人の気配がないかと警戒していた。

 しかし、何の気配もしない。それどころか、先程の水音すらいつまで経っても鳴らなかった。

 ナツメは、外に出て確かめたい気持ちと恐怖の狭間で動けなかった。頭の中は、先程の音のことでいっぱいだった。

 あれは何の音だろう。液体の音であるのは確かだと思う。しかし、横向きに流れるような穏やかなものでない。一時的でもっと激しい、まるで大量の水が落ちたような音だった。

 ナツメは記憶から似た音を探す。そして例の音が、湯舟のお湯を桶で汲み、床へ勢いよく落とした音に似ていると気づいた。

 ──そうだ。お風呂の音だ。

 そう思いつけば、それ以外に聞こえなくなった。壁越しに水が落ちるのを聞いた時、このような音がしていた気がする。あれは上から水の叩きつけられた音だ。

 しかし、そうだとしても先ほどの音の正体は分からない。なぜそのような音がしたのかも分からない。

 浴室は一階で、最初に音の聞こえた東の方角とは正反対の位置にある。浴室の音ならば、音が近づいて聞こえるはずがない。

 そもそも、すでに家の面々は入浴を済ませ、寝室で眠っているはずだった。弟は自分の部屋の隣にある部屋で、両親はさらにその向こうにある部屋で布団に入っている。

 何なのだろう。

 ナツメは懸命に考えた。そのうちに、昼間からの疲労の蓄積に耐えられず、頭が回らなくなってきた。

 耐えきれず、ナツメの意識は布団の暗がりの中へ落ちていった。




 翌日、登校する前に母に昨夜のことを訊ねてみた。

 夜中に誰かシャワーを浴びた者はいなかったか。また、妙な音が三回しなかったか。

 母は、まったく見当もつかないという顔をしていた。

「なあに。変な夢でも見たんじゃないの」

 母はそこから、いつも早く寝ろと言っているのに寝ないから、と小言を続けようとした。ナツメは慌てて、気のせいだった、と取り繕って家を出た。

 通学の道で、檜にも聞いてみた。しかし、無邪気に首を横に振っていた。

「でかいカエルがいたんじゃねえの? そうそう。昨日さ、すっごいでかい蝦蟇がいたんだよ。俺、初めて見た」

 そして弟は、彼とその友達が帰り道に立ちはだかったでかい蝦蟇相手に、いかに立ち回ったかについて語り始めた。ナツメの聞いた怪しい音など気にしていないらしい。

 ──うちの人たちって、なんでみんなこうなんだろう。

 ナツメはげんなりした。自分の話ばかりまくし立てて、こちらの話などすぐに聞き流してしまう。少しはこちらの話も聞いて、共感してほしい。

「こっちの小学校のみんなは、すっごい強いんだよ」

 弟はまだ自分の話をしている。

「蝦蟇と向き合っても、蛇と向き合っても、楽しそうなんだよ。先生たちにも遠慮しないんだ。見てて先生が可哀想になっちゃった」

「へえ」

「教室にある先生の机の引き出しに蛙を入れたりしてさ」

「いつの時代の話?」

 話を盛っているのではないか。

 疑ったが、弟は真剣な顔で首を横に振る。

「本当だよ。本当に、みんなそれくらい元気なんだ」

「元気っていうか、やんちゃすぎるね」

 弟とは途中で別れた。

 中学校への通学路には、中学生たちがちらほらと歩いていた。

 一人でのんびりと歩いている生徒が多い。中には複数人で並んでいる者もいるものの、皆穏やかに談笑していて、後ろにいるナツメには彼らが何を話しているのか聞き取れなかった。

 ふと、先程弟の話していた小学校の様子が頭へ蘇った。

 中学校の様子からは想像できないやんちゃなエピソードだった。やんちゃと言えば聞こえがいいが、今時悪ふざけがすぎるようにも思う。

 ここにいる中学生たちも、小学生の頃はやんちゃだったのだろうか。

 ナツメは淡い青の制服達をしばらく観察した。彼らの温和さと、弟の言う苛烈さが結びつかなかった。

「おはよう、ナツメちゃん」

 教室へ辿り着くと、すでに志乃が登校していた。

 こちらを見つけるなり笑みを浮かべる彼女にこちらも頬が緩む。

「おはよう。昨日はありがと」

 昨日たくさんメッセージをやりとりしたお礼を言うと、彼女は謙遜した。

「ううん、こっちこそ。ナツメちゃんの好きなもののことを知れて、世界が広がった気がして楽しかった」

「びっくりしたよ。今まで推しの話をしてこんなにいい感想くれる人、いなかったから」

 二人は昨夜から、好きなコンテンツの会話をしているのだった。志乃に喋れるほどの趣味がないというので主にナツメが語り続けることになったのだが、ナツメの語る内容に志乃が逐一いい反応をするので、話が盛り上がったのだった。

「謎だわ。こんなに理解力があるのに、なんでハマってるものがないの?」

「自分から新しいものを探さないからかなあ」

 そう言って、志乃ははにかんだ。

「ナツメちゃんの話が面白いから、見てみようかなって気になったんだよ」

「ええ、めっちゃ嬉しい」

 ナツメは心の底から笑った。

「志乃ちゃんは心の友だわ」

「本当? 昨日会ったばっかりなのに?」

「だって、今までこんなに話が分かる子いなかったもん」

「ふふ。冗談でも嬉しいな」

 前の学校の友人たちよりも志乃は話が分かる。ナツメはすっかり彼女に気を許し始めていた。

 それで、思いついた。

 ──昨夜の音のこと、相談してみようかな。

 話してみることにした。

 期待通り、志乃はナツメの話す出来事を真剣に聞いてくれた。聞き終えた後、彼女はあっさりと言った。

「渡り鳥じゃない?」

「鳥?」

「たまに来て、すごく大きな声で夜中に鳴く鳥がいるんだよ。鳥は移動するから、音が近づいてきたとしても不思議じゃないでしょ」

「そうだけど」

 でも、あの音は家の中から聞こえた気がしたのだ。

 そもそもあれが鳥の鳴き声とは考えづらい。

 いくら地元の人間の言うことでも納得できなくて、ナツメは反論しようとした。それより早く、志乃が口を開く。

「私も前に似たようなのを聞いたことがあるんだけど、本当に声が大きくてびっくりしちゃった。何か変なものがいるんじゃないかと思って、怖くなってね」

 屈託なく笑っている。

 その顔を見ているうちに、いつまでも些細な物音にこだわる自分が馬鹿らしく思えてきた。何より、こんな細かいことにこだわって、疎まれてしまったら困る。今ナツメの気持ちを満足に受け止めてくれるのは志乃しかいないのだ。

「そうかもね」

 内心を隠し、ナツメは頷いた。

 志乃は大真面目な顔で繰り返し首を上下に振り、

「もう鳴かないよ」

と言った。

「何でよ」

 何の根拠もなく断言するので、つい噴き出した。

「そうだと良いなとは思うけど」

「じゃあ、思っておこうよ」

 志乃はまた微笑んだ。

「またその音がしたら、私に電話してよ。一緒にその音を聞いてあげる」


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