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X県の我気逢町は、決して地方の中心都市ではない。中学校の教師に転校先を伝えても首を傾げられるような、大人にも耳馴染みのない土地らしかった。
だが父は、その支社で働くことは会社の人間にとっての栄誉なのだと言った。何でも、事業の発祥の地なのらしい。
母はネットの地図を見て、町の北と西へ山が迫っているのを確認すると、虫がたくさん出るような田舎だったら嫌だわと顰め面をした。
「カブト、取れるかなあ」
弟の
まだ見ぬ自然に早くも浮足立っている彼に、母は短く釘を刺した。
「取ってもいいけど、自分でお世話してよね。ママはお世話しないから」
そう言っているが、きっと弟が世話を忘れれば代わりにやるだろう。以前ハムスターを飼っていた時もそうだった。決まった時間にナツメや檜が世話をしないと、母は何も言わず代わりにやってしまう。生き物は苦手だという母だが、それよりも「一日にやること」のリズムを崩されるのが何よりも嫌いなのだ。
引っ越しの準備は滞りなく進んだ。家財道具は引っ越し業者のトラックに詰め込まれ、X県へ送られた。その後を追うようにして、一家は住み慣れた都心のマンションを出立した。
父親の運転する車に揺られながら、ナツメは移り変わる窓の外の景色を見つめた。
見慣れた建物はすぐに消えた。高速道路に乗ってからの景色の変わりようはすさまじかった。最初は肩を寄せ合っていた家々が、次第に距離を置いていく。都会のみっしりと詰まった街並みに慣れているナツメには、郊外のまばらな家影やがらんどうの空、次第に増していく緑の面積が、とても寒々しく感じられた。
「俺、こんなに遠くまで来たのは初めてかも」
弟は初めての景色に興奮しきりだった。運転席のカーナビを覗き込んでは、新しく映りこんだ地名を読み上げようとする。
──檜は、何も悩みがなさそうでいいなあ。
ナツメは弟を羨んだ。
彼女はこれからの生活が不安だった。一度も行ったことのない土地で暮らすからというのもある。ナツメは生まれてこの方都会暮らしで、家族旅行も含め、X県のような田舎へ行ったことがなかった。
だがそれ以上に彼女を憂鬱な気分にさせたのは、転校先を告げた時に友人グループのメンバーが揃って浮かべた、明らかに同情したらしい表情だった。
「離れていても友達だからね。グループでいっぱいやりとりしようね」
最後の登校日に、友人たちは口を揃えてそう言った。渡された寄せ書きにも、全員そう書いていた。
グループメンバーでお揃いの髪飾りをつけたり、色違いのシャーペンを買って使ったりしてきたように、皆で同じように優しくナツメに接した。
──あたしは、みんなの結束の小道具になったんだ。
ナツメはそう思った。
彼女らはきっとこれからも、ナツメのいないところで、お揃いを共有して友情をはぐくんでいくのだろう。
どんなにナツメが努力したとしても、その輪の完全な一部になることは、もうできない。
グループの一員から、皆で仲良くしてあげるべき可哀想な転校生に変わったのだ。
──せっかく、気に入った私立の学校に入学したのに。
──受験も塾も頑張ったのに。
──高等部まで、あの学校で過ごすつもりだったのに。
──やっとできた友達なのに。
──今までの生活から、離れたいわけじゃないのに。
車窓から広漠たる空を眺めていると、その青に引き寄せられるように未練が溢れてきた。
無邪気に地名を読み上げる弟の声にかぶせて、ナツメはひっそり鼻を啜った。
母に感傷を察されて過剰に気を遣われるのも、父に大したことではないと流されるのも嫌だった。
X県に入り、サービスエリアに寄った。目的地である和気逢町の新居にはもう二十分も走れば着くらしいのだが、その前に腹ごしらえをしようという話になっていた。
サービスエリアは大きくはなかったが、空気が新鮮だった。
両親は土産の品を見に行ったり手洗いに行ったりするというので、その間ナツメは檜と共にサービスエリア内にある小さな公園で待つことにした。
公園には申し訳程度の滑り台とベンチ、そしてサービスエリアからの眺望を簡単に説明した看板があった。
その看板によれば、この場所は小高い丘の上にあるらしい。また、公園の端から見下ろせる町は、これからナツメ達の住む我気逢町だということだった。
公園の端に無料で使える望遠鏡があったので、姉弟はレンズ越しに景色を観察することにした。
望遠鏡を覗き込んだ先には、ネットのジオラマ地図で見た通りの眺望が広がっていた。
山々が北西に峰を連ね、なだらかな裾野の末端から住宅地が始まっている。家々が身を寄せ合う小さな町の中心には川が一筋流れており、南西の田畑が広がる地帯へ流れ込んでいた。地図によれば、田園地帯を東へ下っていくとX県の県庁所在地であるA市へ辿り着くらしかった。
ナツメたちのいるサービスエリアがあるのは、南の山の端近く。高速道路はこの先この町を迂回して北西に伸びていくようだ。
「すげえ。自然がいっぱいある」
檜は声を弾ませ、両手でしっかりと望遠鏡を握りしめながら山間の町を見ている。
よくもまあ無邪気に引っ越しを楽しめるものだ。
早々に田舎の景色に飽きたナツメは、感心と呆れの入り混じった気持ちで弟を眺めていた。すると、檜が小さく声を上げた。
「なあ、今の見た?」
「何?」
「あそこで、何かがぴかって光った」
檜は望遠鏡から目を離し、町を指さす。
「どこ?」
「町の真ん中」
「どこが真ん中なのか分からないよ」
「川にかかってる大きな赤い橋のあたり」
弟に言われて初めて、川の途中にかかった橋の存在に気付いた。
「橋が光ったの?」
「そうじゃないよ。橋のそばの、川のふちのあたりが光ったみたいだった」
「ええ。そんなの見えないよ」
「姉ちゃん、また目が悪くなったの?」
「望遠鏡に視力は関係ないでしょ」
最近、スマートフォンの見すぎで視力が下がっているのは確かだが。
「水かガラスの反射じゃないの?」
「そうかなあ」
檜はしきりに首を捻っている。
「俺は魚だと思うんだけど。川魚だったらいいなあ。川で釣りをしてみたいって、ずっと思ってたんだ」
そこから弟の関心は、自分の口にした釣りという用語に移ってしまったらしかった。父親の趣味で釣り堀に連れていってもらったのが印象深かったことや、川や海での釣りは背が伸びないとさせてやれないが、いつか川釣りに連れていってやると言われたことなどを語りはじめた。
一方、ナツメは再び望遠鏡を覗き込んでいた。弟の言う光るものには興味がないが、自分の視力の低下が妙に悔しくなったのだ。そこで、眼科医に視力を保つには遠くを見て目を休めることが大切だと言われたのを思い出し、川を眺めることにした。はたして望遠鏡を覗くことが目を休めることになるのかは分からないが、遠くを見ることには違いないので、多少の目のストレッチにはなるだろう。
町には、人影がほぼないようだった。道路を通る車の方が多く、ここからでもよく見えるような、大きな道を歩く人は誰もいない。
──空き家ばかりだったら嫌だな。
人影を求めて、ナツメは我気逢町を見渡した。
すると、一つ頭が突き抜けて高い建物が目についた。家々の頭上に、細く背の高い尖塔が見える。外壁は白く、蒼い屋根の下にくすんだ色をした鐘が下がっているところを見るに、教会だろう。
鐘の傍に人影がある。目を凝らしたナツメは、あっと声を上げた。
「どうしたの」
弾かれたように望遠鏡から離れたナツメに、檜が怪訝そうに言った。
すぐには返事ができなかった。もう一度望遠鏡を手に取り、おそるおそるレンズを覗いた。
尖塔の人影は、まだそこにいた。
「パパがいる」
「え?」
教会の尖塔に、父親によく似た後ろ姿があった。髪の刈り方や、グレースーツの体型。佇み方や雰囲気まで、そっくり同じだった。
しかし、父は今頃、土産物の売店かトイレのどちらかにいるはずだ。それに、ほんの十数分前まで一緒に食事していた人間が、あんな遠い場所へ移動することができるだろうか。
よく似た誰かなのだろう。そう考えるのが正しい。
だがナツメは、そう思う一方で、あれは父親に違いないという奇妙な確信を抱いていた。
顔を見れば、別人だと分かるかもしれない。
ナツメは教会の上にいる人から目を離せず、凝視していた。
すると、鐘の方を向いていた男が首を巡らせた。
ばちりと目が合った。
その人は、間違いなく父親の顔をしていた。
「わっ」
ナツメは悲鳴を上げ、望遠鏡から離れた。
「何? 何か見えたの?」
檜が割り込み、望遠鏡を覗き込んだ。半ば放心していたナツメは慌てて弟を止めようとした。
「何もないじゃん」
だが、弟は拍子抜けしたように言った。
「姉ちゃん、何を見てたの?」
「え?」
ナツメはどう返したものか迷った。不用意なことを言って弟を怖がらせたくないが、自分の見たものの正体も気になった。
「教会の上に、人がいない?」
おそるおそる聞いてみた。すると、弟ははっきりと首を振った。
「いないよ」
そんな馬鹿な。
ナツメは望遠鏡を覗こうとした。
「二人とも」
母親が呼びに来た。
「そろそろ行くよ」
檜が母親のもとへ寄っていく。
ナツメは少しためらったものの、意を決して望遠鏡を覗いた。
レンズの中には、先に覗いた時とほぼ同じ姿の教会が映っていた。ただ、父の姿はなかった。
「ナツメ」
母の急かす声がする。
ナツメは母と弟のもとへと駆けた。
「パパはどこ?」
「とっくに用事を済ませて、車で待ってるよ」
母が指さす先には、駐車場に停めた車の運転席に座る父の姿があった。教会にいた父と違って、こちらは私服だ。
──そうだ。服が違った。
それなのに、どうして自分はあれを父だと思ったのだろう。
なんだか無性に、嫌な気持ちがした。
──やだやだ。バカみたい。
ナツメはかぶりを振り、胸に立ち込めるものを振り払う。
おそらく、偶然そっくりな格好の人がいたのだ。よく見れば細部が父親と違うことは分かったはずだが、視力の悪化と引っ越しでナイーブになった心情が、変な認識を導いてしまった。きっと、そういうことだ。
一家が車に乗ると、父は危うげなくハンドルを操り、サービスエリアから出口へと向かった。
料金所を出て、一般道へ入る。正面に、青い看板が立っているのが見えた。
そこには、こう記されていた。
『一人じゃないと思える町、我気逢町へようこそ』
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