6-2

 逃げるようにヨシヨシ生体工業を出た。

 時刻は午後八時になるところだった。

 このまま帰るのは、なんだかためらわれた。家に、あそこで感じた恐ろしさを持ち帰りたくなかった。

 コンビニに停車し、一息吐く。

 とんでもない目に遭った。災難に遭うと腹が減る。だが、今から家に帰って夕飯を作るのは億劫だ。出勤する前は焼肉に行こうなどと思っていたが、今はとてもそんな気分にはなれなかった。

 今日も夕飯はコンビニ弁当にしてしまおう。園藤は車を降りようとして、はたと思い出した。

 ──居酒屋の店長に、野波さんの連絡先を聞かないと。

 野波から引き継いだアルバイトが厄介なものであると分かった今、彼に何があったかを必ず聞きださなくてはならない。何も知らせず、自分に仕事を押しつけたのだ。どんなに渋られたとしても説明してもらわないと気が済まない。

 家に帰ってしまったら、きっと電話するのが嫌になる。だから、忘れないうちに電話してしまうことにした。

 ミニバックからスマホを取り出し、店長に電話を掛ける。数回のコール音の後、店長が出た。

「よう、お疲れ」

 聞き慣れたしゃがれ声に、そわついていた気分が落ち着く。

「お疲れ様です。お仕事中にすみません。今いいですか」

「ああ。いいよ」

 店長は野波と年が近く、職場ではよく会話していた。喫煙所で談笑するだけでなく、休日に競馬や競輪などに行っていたらしいことも知っている。絶対彼の連絡先と近況を知っているはずだ。

「野波さんの連絡先を教えてもらえませんか」

「野波の?」

 電話越しの声が、怪訝そうに問い返した。

「どうしてまた」

「あの人から別のバイトを紹介されたんですけど、それがなんかちょっとおかしくて」

 野波に話を聞きたいのだ。

 そう言うと、店長は唸った。

「教えること自体はできるんだが、何にもならねえぞ」

「どういうことですか」

「野波は、亡くなったそうだからな」

 え。

 意図せず、吐息と共に声が漏れた。

「いつ、どうして」

「あいつが辞めて、二週間後くらいかな」

 自分がバイトに行きはじめた後だ。

「あいつが辞める前に、一緒に渓流釣りにでも行こうって約束をしてたんだけどな。約束の時間になってもあいつ、来ねぇの」

 野波の携帯へ電話したが、繋がらない。仕方なく、彼の別れた妻に電話した。

 そこで、野波の死を伝えられた。

「自分の家の風呂で溺れ死んでたらしいんだけど、それがなんか、妙でな。睡眠薬をどっぷり飲んで、足を縄で縛った状態で、全身水風呂に浸かって死んでたんだとよ」

 警察は、彼を自殺だと判断したらしかった。不可解な死に方だが、発見当時彼の部屋は完全に鍵の閉まりきった密室状態であり、自分でそうしたとしか考えようがなかったらしい。

「そんな」

 園藤は口を押えた。

 次の言葉を考えるどころではない園藤を、察したのだろうか。沈黙を挟んだ後、店長が言った。

「バイトって、もしかしてヨシヨシ生工のやつか」

 予想外の言葉に、園藤は驚いた。

「知ってるんですか」

「あいつが前に、自慢してきたからな」

 店長が語ることによれば、それはちょうど去年の今頃だったらしい。

 気前のいいバイトを紹介された、と野波が有頂天で言ってきたのが始まりだった。その内容を聞いて、彼は反対した。

「やめとけって言ったんだ。このあたりで生まれ育った奴は、我気逢町を通ることさえ嫌がる。ヨシヨシ生工で働くなんて、もってのほかだ。どんなに金の欲しい奴でも、あそこの仕事だけは受けねえぇ」

「どうしてですか」

「俺もよく知らねぇ」

 店長の声がくぐもった。電話口からライターの着火音が聞こえたところから察するに、タバコを咥えたらしい。

「ただ、死んだ爺さん婆さんから口を酸っぱくして言い聞かされてた。あそこは、人が住むのにいい場所じゃねえ。長生きしたければ近寄るな、縁を持つな、ってな」

 そんな昔から、謂れがあるのか。

 店長の年齢から考えるに、その祖父母はきっと明治や大正の生まれに違いない。ヨシヨシ生体工業の工場は戦後にはあったはずだから、その以前より、何かあったということになる。思っていたより、根が深いのかもしれない。

「お前も、早く辞めた方がいいぞ。今でも、あの会社については変な噂を聞く。今は環境が良いように感じられても、これからどうなるか分からねぇ」

「はい。早く辞めたいです」

 園藤は深く頷いた。

 本当に早く足を洗いたい。一方で、店長の言った内容も気になっていた。

「最近の噂って、どんな内容なんですか」

「あそこに勤めた人間は、人が変わっちまうって話だ」

 過労だとか病気によって壊れちまったとか、そういうのじゃない。

 店長は声を低めた。

「見た目は変わんねぇ。誰かと過ごした思い出も今まで通りだ。だが、外見、言動、思考、趣味。そういうのがガラッと変わっちまう。気味が悪いのは、社員のほとんどが、ものすごくよく似た雰囲気の、ほぼ同じ言動をするような人間に変わっちまうってことだ」

 もちろん、外見は違う。だが、話す内容や趣味、行動のパターンが皆変わらないのだという。

 気味悪がられ、周辺の地元企業はヨシヨシ生体工業と取引をしない。取引するのは、我気逢町を知らない遠方の連中ばかりだ。

「あの町、なんだっけ。一人じゃないと思える町だとか言ってるけど、近隣地域の連中は逆だって言ってるよ。住んでる連中を、みんな似たような考えのヤツに変えちまうんだ」

「なんですか、それ」

 園藤は笑うしかなかった。

「そんな、カルト集団の洗脳みたいなことがありえるんですか」

「実際、カルトな奴がいるんだろうって言われてるぜ」

 店長は大まじめに言う。

「ヨシヨシ生体工業の名誉顧問──良々木ららき威風いふう。そいつを中心とした一族と、あの町に古くから住む連中は、カルトじみた宗教を信仰してるっつぅ話だ」

 ふぅ、と煙を吐く気配がした。

「まあ、信じるも信じねぇもお前次第だけどな。じゃあ、そろそろ客が増えるから切るぜ。バイト、なんとか逃げきれよな」

 そう言って、電話は切れた。




 アパートへ帰ると、すでに老柳が待っていた。

 机の上に白地図を広げ、パソコンと地図とを交互に見ながら何か作業をしている。

 ドアの閉まる音だけを聞いて、よお、と気楽に挨拶をしたようだったが、顔を上げて園藤と目が合うなり、真剣な顔になった。

「何かあったのか」

 園藤は今日のバイトであったことを説明した。そして、野波が死んでいたこと、我気逢町とヨシヨシ生体工業には、かなり昔から怪しい噂があったらしいことを話した。

「とんでもないな」

 老柳は腕を組んだ。

「多分、これはいたずらじゃない。本当に何かいるんだ」

 園藤は重ねて訴えた。

 自分の経験した気味の悪い出来事。先輩の死。それを笑って受け流してほしくなかった。

 老柳は真面目な表情で頷いた。

「信じるよ。僕の目の前で何かが起こったわけじゃないけれど、実際に噂が流れているのならば、頭から否定するわけにはいかない」

 幽霊の正体見たり枯れ尾花とは言うが、枯れ尾花に驚いて転び、石に頭を打ちつけて死ねば、祟りという扱いになることもある。

 友はそう言って、微かに笑った。

「これでお前に何かあったら目覚めも悪いしね。僕に何ができるか分からないけれど、相談相手くらいにならなろう」

「悪いな」

 園藤はひとまずほっとした。

 自分一人で考えているだけでは考えがまとまらず、パニックになる気がしていた。大変ありがたい申し出だった。

「バイトはなるべく早く辞めたいと思ってるんだけど、簡単に済むだろうか」

「僕は、問題なく済むんじゃないかと思うよ」

 老柳はあっけらかんと言った。

「どうしてそう思うんだ」

「あくまで現状からの推測だから、確かではないけれど」

 友はそう前置きをして、続けた。

「二つ、大丈夫なんじゃないかと思う根拠がある。一つは、名前。保育所にいるもの──便宜上、子どももどきたちとでも呼んでおこうか──は、君の話を聞いていると、やけにいろんなものの名前にこだわっているように思える」

 保育所の落書きは、物の名前に関するものが多かった。

「野波さんはどういう経緯か知らないが、名前を知られてしまったんだろう? だから、子どももどきに追跡されてしまって、命を落とすことになったんじゃないかな」

 名前は呪いにおいて大きな役割を持つ。個人を表すシンボルであるから、血や髪の毛と同じように扱われることもある。

「もう一つは、反応。この手の姿の見えないものっていうのは、自分たちに反応してくれる人間に付きまとう傾向にある。非常に幸運なことに、君はとても鈍い。だから、これまでの黒板の落書きを通じての再三のアピールに気づかずに過ごして来られたわけだ」

「貶してるのか?」

「それ、今気にすることかな。最近は何かにつけて鈍感力が大事だって言われるんだから、いいじゃないか」

 何年前の話をしているのだろう。

 そもそも、園藤が聞きたいのはそういうオカルト方面の話ではない。

「そうじゃなくて。もっと実際的な、ちゃんとやめさせてもらえるかが俺は心配で」

「それはやることが決まりきってる。僕が言うまでもない」

 老柳はつまらなそうに言った。

「どんな怪しげな噂のある企業でも、労働局の名前が出れば指導や立ち入り調査を恐れて、乱暴なことはしなくなるだろ。言えば、きっとすんなり辞めさせてくれるさ」

 最寄りの労働局の電話番号を登録しておけ。

 そう言って、ぞんざいに手を振られた。

 ──こいつ。もしかして、俺を助けたいというより、オカルトのタネがあるから真剣に話を聞いてくれてたのか?

 園藤は友に疑惑を抱いた。相談相手に選んだのは間違いだったかもしれない。

 だが、他に話を聞いてくれるような人間もいない。多少情より好奇心の方が強いような奴でも、話し相手がいないよりマシだ。園藤はそう思い直した。

「いつやめると伝えるんだ」

 今日はもう業務が終わっているだろう。

 園藤は考えて言った。

「まずは明日電話してみる。土曜日は営業している日だったはずだ。担当の人がいるか分からないけれど、掛けるだけ掛けておいて、いなかったら月曜日にまた相談する」

「そうだな。それがいい」

 老柳はパソコンへ目を戻し、キーボードで何か打ち込んでいる。仕事に戻るのだろうか。

 話を終えた園藤は風呂を入れに行こうとする。

 背後から、老柳が話しかけてきた。

「お前のその件が無事終わったら、僕も我気逢町へ行ってみようかな」

「なんで」

 園藤は振り返った。老柳はまだノートパソコンを見ていた。

「噂の場所を見ておきたいだろ。ちょっと気になることもあるし」

「気になることって、何だ」

 老柳は精悍な目元を園藤へ向ける。

「それより、いい加減排水口の掃除でもしたらどうだ。雨の日は臭うぞ」

「洗剤を買ってあるから、勝手にやればいいだろう」

「家主の許可なしでできるか」

「分かった、分かった。風呂を入れたらな」

 園藤は風呂場へ続く扉へ、向き直った。

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