第32話

 別にお茶を飲みたいわけではなかった。母と瞳子と三人一緒にいても、どうなるか予想はできたからだ。そして案の定、その予想通りに女二人の話は、大地にとっては壊れた機械のように同じ話を繰り返しているようにしか聞こえなかった。

 夜、夕食を食べ終えて一息を付いた頃、瞳子が部屋に来た。


「ちょっと海まで散歩へ行かない?」


 時計を見て、まだ彼女が来る時間ではないだろうと、瞳子の誘いを受けることにした。

 懐中電灯を二人で持つと、いつもより足元が明るく感じられる。瞳子はまた旅行の話を始めて、本題は浜辺に着いてからするつもりらしい。瞳子が前を歩き、大地は彼女がいないか周りを見渡した。人の姿はなかった。


「わざわざ海まで来なくてもよかったんじゃ」


 大地は立ち止った瞳子に言った。


「まあ、そうなんだけど。食後の運動がてらってことでいいじゃない」と言って、さっさと腰を下ろした。大地もその隣に座る。


「さてミチの事だけど、まさか大ちゃんが知ってるとは思わなかったわ」

「知りたくて知ったわけじゃないし」

「見たって言ってたわよね。辛い思いをしたんじゃない?」


 それには答えなかったし、それが答えになると大地は思った。


「まあね……秀敏さん、昔からモテて、女がほうっておかなかったみたいだし、年を重ねていい味出てるだろうから。ミチも気苦労は絶えないみたい」

「それって、今回以外にも前科があったかもしれないってこと?」

「――そうね」


 はっきりしない返事に、胸がざわついた。


「秀敏さんに電話したの?」

「え? まあ……というより会って」

「それで?」

「分らないけど多分、切れたと思う」

「そうか。ごめんね」

「伯母さんが謝る事じゃないよ」

「でも、ミチの変な行動は気持ちが悪かったでしょ?」


 大地は人形に話しかける母を思い出し、肩が重くなる。

「何て言うかあの子、昔から遠まわしに気持ちを察して欲しいというか何て言うか、たまに面倒くさい時があるから。そういう事で大ちゃんに謝ったのよ」


 そう言えば昔、母が指の骨折をした時、自分が洗い物を代わりにしていた。男の自分はそれ以外の細かいことに今一つ気付けなかった。その時母は、確かに遠まわしにわかりにくいアピールをしていた。例えば洗濯物をいつもは二階のベランダのある部屋で畳んでいたのに、リビングに持って来て話をしながら畳み始めた。別に手伝ってとは言われなかったが、母の話の端々に「怪我してると手が変に疲れるわね」「手、早く治らないと家事がやり難いわ」などと混じるので、ほとんど畳終えた後、その意図に大地は気付いた。そして次の日からは、洗濯物は大地が畳むようにした。回りくどい事をせずに、直接言ってくれればと思った事があった。もしかすると自分の母親は世の中でいう、面倒くさい女なのかもしれない。瞳子の話を聞いて大地の気分はいささか萎えた。


 瞳子の話からすると、母は自分にサインを送ってきたことになる。でも自分が人形に話しかけている姿を見て否定した時「何も心配しなくていい」と言っていた。でも本音は気にかけて、理由を深く聞いて欲しかったのだ。

 奈帆子といい、どうして女は遠まわしに訴えてくるのか。それともただ単に自分の経験不足なのか。どちらにせよこれで経験値が上がったと思えば今後、役に立つかもしれない。でもそんな女と今後会ったら、近寄りたくはないなと大地は思った。


「ところで伯母さんは、どうして知ったの?」

「それはミチから相談を受けたからよ」

「母さんがどうやって知ったか聞いた?」

「何かね『たまに煙草の匂いがするの』って言ってたわね。でも会社で吸う人もいるじゃない? って聞いたら、『秀敏さんは吸わないし、会社禁煙だから。それに男の人が吸うような煙草じゃないような匂い。それに最近、何だか違うのよ』って言ってたわね。それでもどこか店に入ったりしたら付くじゃない? でもそんなじゃないって言ってね」

「何だか違うって? 何が?」

「セックスでも変わったのかって聞いたけど、そうじゃないって言ってたから、ミチだけにしか感じることができない、何かだったんでしょうね」


 大地は何も口にはしていないのに、思わず喉を詰まらせて咽てしまった。


「大丈夫?」

「ゴホンッ……う、うん」


 自分の親がセックスをしているなんて考えた事もなかったし、何より親はどこかそんな事には無縁なような、変な固定観念があった。だから今、後頭部を思いっきり殴られたようにぐわんぐわんと音を立てている。

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