第14話

 父の浮気を知ってから、今まで見ていたテレビで笑う事も、友達と話していても、お気に入りの面白い漫画を読んでも、全てが空虚で無味な事に思えていた。それなのに今は、同じく無意な事が可笑しくて仕方がない。彼女は初めこそ不思議そうに大地を見ていたが、しばらくすると釣られるように一緒に笑い始めた。

 深夜、浜辺で笑い合う二人を誰かが見れば、おかしな人間がいると通報されてもおかしくはない。でもどんなに大声で笑っていても、声は波にかき消されて歩道までは聞こえないだろうし、人も通ることはないだろう。大地は声を出して笑い続け、最後は長距離を走り終えたような、気持ちのいい疲労感が残った。立ったまま大地は膝に手を置き、まだ笑っている彼女を見上げた。彼女は笑いながらも、不安定な波の上にかかる橋を見ていた。


「そういえば」

「何?」

「あるんですか? 会った事?」

「誰に?」

「橋を渡ってくる人」

「あるわよ」

「そうなんですか?」


 大地は何の違和感もなく、彼女の答えを受け入れた。そんな迷信が本当に起こるはずもないし、ましてや死んだ人間が戻ってくるなんて鼻から信じてはいなかった。でも今は、ごく自然に当たり前のように思えた。


「知ってる人?」

「ううん。初めて橋を渡って来た人は知らないおばさんだったよ。それでね」


 と彼女が思い出し笑いを始めた。大地は続きが聞きたくてうずうずしながら、彼女の思い出し笑いが静まるのを待った。でも彼女の笑いは、なかなか治まらない。痺れを切らして「それで?」と大地は聞いた。


「ああ、それでね……ふふ」


 それでも笑いが止まらない。何か余程面白いことはあったに違い。そうなると早くその話を聞きたいという欲求がこみ上げてくる。


「早く教えて下さいよ!」

「ごめんごめん。あのねそのおばさん、私にこう聞いてきたの。『厠はどこでしょうか?』って……だってここまできて厠って……そりゃあ初めは、月の橋の話は本当だったんだ! って喜んだわよ。でも、まさか厠の場所を聞かれるなんてね。それでね私、教えてあげたの。『おばさん死んじゃってるから、厠の必要はないんじゃないかな?』って。そしたらその人ね『孫が夜に一人で怖いって言うからね、付いていってあげる約束をしてるのよ』って言うの。それは大変だと思って、早く行ってあげてくださいって答えたら、頭を下げながら浜に上がってきたの。そしたら……」

「そしたら?」

「消えちゃった」

「え?」

「浜に上がってきた瞬間、煙が風に流されるように消えちゃった。あのおばさん、ちゃんとお孫さんのところへ行けたのかなあ」


 彼女のあっさりした言い方と、相手が煙のように消えてしまったのに、関心が孫のところへ無事に行けたのかと心配する姿に呆気をとられた。自分なら、まず目を疑うだろう。現に今、話を聞いた限りそう思った。しかし彼女の関心は、橋を渡って来た人の思いが叶えられたかどうかだった。昨日会ったばかりの彼女だったが、その考え方、物事の捉え方が新鮮であり興味を引くのも事実だった。それに彼女は今どき珍しく、本当に純真な心を持っているとさえ思えた。疑う事を知らない、それは詐欺などが横行している社会ではかなり危険に思える。しかしその詐欺を仕掛けてくる相手でさえも、彼女の持っている心で変えてしまう事が出来てしまえるように大地は思った。


「行けたと思いますよ」

「そうね。そうよね」


 彼女が海を見ながら言うので、大地も彼女の視線の先を合わせるように海を眺めた。



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