第23話

 夜浜辺に行くと、彼女はいた。常に月の橋の終着地点にいて、まるで彼岸から現世の境界を番人のようだ。


「こんばんは」

「こんばんは、少年」


 大地も彼女の隣に並んだ。そこは自然と自分の指定席になっている。でもそれは夜だけで、日中は彼女のパートナーの席。そう考えが浮かんだ自分に対して、彼女に惹かれているのだろうか? と自問してた。

 猫のように少し吊り上った大きな目元と、黒くて長い髪。程よい大きさの胸とすらりと伸びた手足。一般的に見ても美人ではある。しかし……全く心が動かない。

 恋愛くらいは経験している。好きな子から告白をされたのは小学高学年。胸が高鳴ったし、嬉しくて足に羽が生えたように、ふわふわと地面を歩いて帰った。中学時代の告白は、小学生の時とはまた違う、恥ずかしさと嬉しさが同居しながら、手を繋ぐという簡単な事が暫くできずにいた。意を決して手を握った時は、平気な顔で会話をしながら胸の鼓動は、全身の皮膚を震わす程だった。しかし彼女には全くそんな事は感じない。反対に居心地がいいというか、ほっとする。昔から知っているような気さえする親近感。

 大地が考え事をしながら彼女を覗きこんでいると、


「そんなに見られると、穴が開くじゃない。どうかした?」

「え? あ、いや、別に」

「そう。今日は私の話をしようと思ってるの」

「そうなんですか?」

「知りたそうな顔をしていたくせに、何か、意外って顔してるね」

「まあ」


 彼女は小さく笑ってから話し始めた。


「私には夫がいて子供がいるの。でも好きで結婚した訳じゃないのよ。家はもともと貧乏だったの。それで母が私を連れてここに逃げてきたのよ」

「夫? 逃げてきた?」


 彼女の夫は死んでいるんじゃなかったのか? と大地は思ったが、彼女の話に耳を傾けた。


「そう。逃げてきたの。父親が本当にダメな人で、私を売ろうとしたらしいの。母はそれで決めたみたい。だからお金も手元にほとんどなくて、服も鞄に入る程度。そんな私たちを受け入れてくれたのが、今住んでいる村なの。それで数年、畑を手伝ったりしながら暮らしていたら、ある家の嫁にって言われてね。何で? って思ったわ。そしたらどうやらその相手の体の一部が欠けていて、五体満足じゃないっていうの。だから嫌がって誰も嫁には来ない。そこで目を点けたのが、村の外から転がり込んできた私だったわけ」


 そこで大地が口を挟んだ。


「体の一部が欠けているって? 手とか足って事ですか?」


 彼女は急に笑い始めた。その笑い方は何度か見たことがあった。多分、その時の事を思い出して笑っているのだ。大地は彼女の気が済むまで待った。


「って思うでしょ? 片足がないとか手がないとか。でも無かったのは左の中指」

「中指?」

「そう。確かに五体満足じゃないけど、左手の中指が無いってだけだったの。逃げる前に住んでいるところでは、珍しくはなかったけど、田舎は違うんだなって感じたわ。それに結婚すれば、母の面倒を見てくれるっていうし、何よりここで腰を落ち着かせることができる。この海に近い場所で」


 彼女の最後の言葉には、力が入っていた。きっと母親だけなら彼女が何とか一人でも支えていけそうなバイタリティがあるように思えた。しかし海は決まった場所にしかない。


「でもね、一つだけ注文を付けたの。結婚はする。でも私にはずっと心に住んでいる人がいて、その人はきっと色褪せることなく生き続けるって」

「それで?」

「相手の男性は了承したわ。長子として家を存続させなくてはいけない。夫婦として生活してくれればそれでいいと」


 彼女はそこで言葉を止めた。でも子供をもうけたという事は、相手は悪い人ではないのだろうと大地は思った。


「その、旦那さんの事は好きなんですか?」

「好きよ。でも一番じゃないわ。でも良くしてもらってたわ。君が言っていたけど、結婚をしているのに私の中には別の男性がずっと住んでるわ。相手は亡くなってるけどね。でも、それでも想い続けてる。月の橋の事もね、その彼から教えてもらったのよ。でも可笑しいわよね。海が近くにある場所に住んでいたわけでもないのに。彼、ロマンチストだったからなあ」


 彼女は手を後ろについて空を見上げた。月の明るさのせいで、星が霞んで見える。

 彼女は自分の両親とは違う。大地の両親は生きていて、父の心は多分家にない。かたや彼女の相手はもう彼岸の人。それだけで意味が全く違う。


「君、自分のところと違うって思ってるでしょ?」


 彼女の瞳に月の光が差し込んで、心を見透かす力を宿したように感じた。何も言い返せない大地を見て彼女は言った。


「一緒よ。ただ相手が生きているか死んでいるかだけ。でも相手が死んでいる分、質が悪いわ」

「質が悪い?」

「そう。夫はね……無口で少し怖い感じがするんだけど、不器用な人なの。でもわかるのよね、一緒にいると。夫が私を大事に想ってくれているのが」


 彼女を見ていると、やはり無性に懐かしい思いにかられると同時に、今日の彼女はどこか闇夜に溶けて消えてしまいそうな影の薄さがあった。


「これから先も、今の旦那さんに愛情は沸かないんですか?」


 大地は聞いた。


「――家族という情はある。でも愛が付く情は……分らない。死んでしまった彼の事は間違いなく愛だけど、夫に対して同じようには今はまだ、思えない」


 彼女は彼女自身が知らないところで足掻いているように大地には思えた。多分彼女は、夫の事を愛したいと思っている。だから無意識にまだという言葉が出たのではないだろうか。でもその無意識に出た本音に、彼女自身気付いてはいない。またそれを指摘するつもりもなかった。ただ彼女の話を聞いて大地は考えていた。

 父は浮気相手に、何の情を付けているのだろうか。色情、欲情。自分が雄として奈帆子に持った情。身体と頭が急に切り離されたような感覚。父もその状態を味わって止めることができなかったのか。でも愛情を抱いていたとしたら、自分は今よりも深く父を恨み軽侮するだろう。


「君、悩むなら直接お父さんにいいな。君はもう高校生だよね? 昔なら元服というのをして、大人と同じ立場だったんだから」


「それ、昔過ぎますよ」と言って、大地も彼女も笑った。


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