第6話

 高校での生活も馴れ始め、新しい友人、新しい仲間とのクラブ活動と充実した日々を大地は過ごしていた。ちょうど梅雨が明け、真っ青な空が連日続いた土曜日。試合の帰り道だった。準決勝まで進めず、誰もが肩を落として早めに帰路に着くことになった。京都からJRに乗って大阪駅で解散だった。大地は気分転換に、新しいバスケットシューズを見て帰ろうと繁華街に出た。何件か回って帰ろうとした時、雑踏の隙間から見覚えのあるシルエットが何気に目に入った。大地は人の流れに逆らいながらその背中を追った。


 距離が縮むにつれて、顔もはっきりと見えてくる。胸の鼓動が激しく内から大地を殴りつけているようで、息苦しさを感じた。数メートルの距離を保ちながら、後をつけて辿りついた場所はラブホテル街。父はスーツを着こなしたキャリア風の同年代くらいの女とホテルの中へと消えて行った。


「今日は休日出勤なんだ。試合、頑張れよ」と出て行った父。母はご苦労様と父に声を掛けて見送っていた。子供の大地が見ている限り、夫婦仲は良かった。ギスギスした不穏な空気など微塵も感じた事はない。裏を返せば、父はそれほどに上手く浮気を隠していたという事になる。そしてきっと母は知らない。でも自分は知ってしまった。


 その日、家に戻り「お帰り」と玄関まで母が出迎えてはくれたが、どうしていいか分らずに無視をした。一度そういう態度を取ってしまうと、呪いが掛かってしまったかのように、口が上手く動かなくなり、二言三言の簡単な会話しかできなくなっていった。何も無かったように楽しそうに話す両親。そこだけスポットライトが当たり、自分は薄暗い舞台袖でその光景を見ながら混じれない疎外感を持つようになっていた。


 裏切っている相手に平然としながら接する父の姿に嫌悪し、何も知らずにいる母が哀れで仕方がなかった。

 夏休み中、自分たちの留守をいいことに、相手の女性とやりたい放題しているのだろう。家族に罪悪感を持つことなく。それなのにどうして、被害者である息子の自分が、母に父の浮気を言えないことで、罪悪感を持たなければいけないのか。あまりにも理不尽だと大地は思った。自分が黙ってさえいればいい。今まで通りに過ごせる。父もいずれは浮気相手と切れてくれる……はずだ。それまで自分が我慢すればいい。家の中の酸素が薄くなって窒息しそうになっても。



 そう思っていても、まだ成長しきれない大地の心は捌け口を探していた。


「なあ婆ちゃん。父さんが女と、ホテルに入っていったんだよ。腕を絡ましながら歩く女に、鼻の下を伸ばしただらしない顔でさ。でも俺、母さんにそんなところを見たって言えないんだ。知らない方がいいことだってある。って言うけど、そうだと思う。でもそれが本当に正しいのか分らないし、かと言って母さんに教えたら、きっと泣くと思うんだ。なあ婆ちゃん、俺、正直辛いよ――」しかし祖母は海を見たままで、返事はなかった。

 三十分と言っていた母と瞳子が帰ってきたのは、出て行ってから一時間以上経ってからだった。


「ごめん。ちょっとお茶しちゃってね。はい大ちゃんにお土産」


 手渡されたスーパーの袋の中には、アイスクリームが三つ入っていた。


「じゃあミチと私は夕飯の準備始めるから。お留守番ありがとうね」


 小さい子供じゃないんだと言いたかったが、心の中だけで止めておいた。

 瞳子が部屋を出て行ってから、貰った袋の中から棒付きのアイスを取り出して口に入れた。


「婆ちゃん、アイスいる?」


 何となく話しかけてみたが祖母は海を見たままだった。もう一つアイスを食べてから、残り一つは食後にと思い腰を浮かすと、それまで置物のように座っていた祖母が動きだした。


「婆ちゃん、トイレ?」


 祖母の周りだけ、緩やかに時間が流れているように、ゆっくりとした動きでそのまま立ち上ると、部屋のテレビをつけて前に座った。海を見ていた時とは違い、体の中に残っている少ない生気が、目に宿っているように大地には見えた。


「何を見るの?」


 祖母は子供のように目を輝かせ、掌を胸の前で組み、嬉しそうな顔をしながら画面を食い入るように見ている。そういえば時代劇を毎日見ていると瞳子が言っていたのを大地は思い出した。部屋にある年季の入った掛け時計を見ると、ちょうど五時になったばかりだった。


「ヒデジさんヒデジさん」とテレビに向かって祖母が話しかけている。確かに恋人の

名前を呼ぶようだった。テレビから流れる時代劇は有名で、大地も名前だけは知っていた。俳優は今も健在で、最近ではバラエティ番組にもよく出ている。

「婆ちゃん、ヒデジじゃなくてこの人は“ヒデキ”」と大きな声で教えてあげたが、不思議そう顔をしながら大地を見ると、首をかしげながらまたテレビに目を向けてしまった。


 大地はここにいても仕方がないと思い、かなり柔らかくなり始めたアイスを冷凍庫に入れるため一旦、台所へ向かった。

 台所にはダイニングテーブルと同じくらいの大きさの台があり、食器棚には数えきれないほどの皿や碗が並んでいる。祭りや集会がある時に使うらしく、またその時々によって使い分けていると以前大地は聞いていた。

 大人十人が余裕で入れる広さの台所は薄暗く、ひんやりとしていてこの屋敷の中で一番涼しい場所ではと思えた。二人は話しながら手を動かしていたので、大地は何も言わずに冷凍庫にアイスを放り込んだ。


「あら、大ちゃん」


 音に気付いたのか、二人が同時に自分の方に振り向いた。髪型も服装も違うがやはり姉妹で、母がもう少し年を取れば、瞳子のような感じになるのかもしれない。


「アイス、後で食べようと思って」

「そうなの? 若いんだから一気に食べちゃいなさいよ」と瞳子が溌剌と笑いながら言う。その隣で母は、どこか力ないような笑い方をしていた。精気のない病人のようで、大地は一瞬ひやっとした。


「そう言えば伯母さん。婆ちゃん、時代劇を見始めたんだけど、俳優の名前を間違ってたよ」

「ああ、『ヒデジ』って言うんでしょ? 何度もヒデジじゃなくてヒデキだって教えたんだけど、あの通りでしょ? お婆ちゃんがヒデジって言うならヒデジでいいかと思って、もうそのまま」

「そうなんだ」

「夕食は六時からだから、楽しみにしてて」


 二人の隙間からは、捌かれた魚の血が見えた。大地は一旦自分の部屋に戻って、何をする訳もなく畳の上に寝転んだ。

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