第17話

 一通り吐き出した後、海風が強く吹いた。少し冷静さを取り戻した大地は、彼女にした発言は八つ当たりに過ぎないと思った。しかし彼女の言葉は一般的では無い。自分が欲しかった答えを彼女が言ってくると思ったのに、そうではなかった。だからと言って、頭がおかしいと言うのは言い過ぎた。でも浮気を肯定するような人間には謝りたくない。大地は下を向きながら葛藤していた。


「ごめんなさい。君の言う通りよ。でもね……上手くいかない事もあるのよ。多分人はね、色んな事を考えて無理矢理気持ちに折り合いを付けようとするのよ。それが君の言う二股だったり浮気だったりするのかもしれない。でもね、中にはそうしなくちゃいけない人間もいるのよ」


 大地が顔を上げると目が合った。彼女は続けた。


「人形になれたら、どんなに楽だろうね」


 彼女が泣いているように大地は見えた。もしかしたらこの人も、信じている人に裏切られた事があるのかもしれない。でもそれでは彼女の言葉にそぐわない気がした。


「あたなの言っていることは、支離滅裂ですよ」

「そうね。君の言うとおりよ。それに私自身が支離滅裂に生きているようなものかもね」

「どういうことですか?」

「それはまた今度にでも。今日はもう解散しましょう」


 彼女はそう言って、海岸の先へと歩き始めてしまった。大地は夜の中にぼやけていく彼女の背中を、ぼんやりと眺めていた。



 昨夜、風が強かったとは言え、月も出ていて晴れていたのに、朝は曇りがちの空だった。遅めの朝食を取ったあと、部屋に籠もっていた大地は机の上に置いたままの箱を見て、昨日持って行くのを忘れてしまったと後悔していた。彼女はまた今度と言ったが、しばらく海に行く気はなかった。

 教科書を開けても、文字が頭に入ってこずに全く進まない。大地は顔を机に預けながら、箱の開閉を無心で繰り返した。その時、部屋の襖が開いた。


「大地、ちょっといいかしら?」

「なに?」

「今日なんだけど、お昼から時間取れるわよね?」


 母の言葉は、もう決定事項のようだった。


「ナホちゃんのお母さんに、勉強を見てもらえないかなって言われてね」


 母は自分が断らないと確信している。その期待を裏切ってもよかったが、それに何の意味があるのだろうか。大地は仕方なく答えた。


「わかった。で、どうすればいい?」

「よかった。一時頃に来るからお願いね」

「母さんは?」

「お婆ちゃんと話でもしているわ」


 そう言って部屋を出て行った。耳も遠くなって痴呆が入っている祖母に、一体何の話をするのか気になった。多分、自分と同じように、一方的に母が祖母に話すだけだろう。しかし何を? 大地は開けたままになった箱の中に挟み込まれている貝殻を見ながら、母が祖母に話す内容に気を取られて、そればかり考えていた。

 昼食を食べ終え居間を出ようとした時、玄関から声が聞こえてきた。母が「はいはーい」と返事をしながら廊下を走っていく。きっと奈帆子だろう。それにしてもまだ一時にもなっていない。どちらにせよ、部屋に筆記用具を取りに行くために居間を出た。途中、母と奈帆子とすれ違った。


「大地、どこへ行くの?」

「筆記用具」


 返事をするように奈帆子が言った。

「なら大ちゃんの部屋でいいじゃん」

「何で?」

「え? だって」


 中途半端に言葉を切った奈帆子は、母をチラっと覗うように見た。自分が奈帆子に欲情しない自信はある。しかし広くないあの部屋で二人きりというのは気まずい。神社へ行く途中に会った拓実と巌のように、同じ時間を過ごしてきた訳でもない。奈帆子にはそういった距離感がないのかと大地は思った。母は、大地と奈帆子を見て言った。


「そしたら大地。ナホちゃんを居間に通しておくから」


 母の目に、年頃の男女を密室には……という戸惑いが一瞬見えた気がした。それがどういう心境から出した言葉だったのか、大地は勘ぐってしまう。大地はそのまま返事をせずに部屋へ戻った。

 和室と和室の仕切りになっている襖が開けられたままの居間は、解放感があった。寝転がると、そのまま続く隣の部屋まで転がっていきたい気分になる。

 勉強を始めて一時間以上経ったが、二人の間に会話は全く無かった。奈帆子は持ってきた教科書を広げながら、手持無沙汰にシャーペンを回してみたり、意味もなくノートに円を描いたりしていた。そんな様子が大地の視界に入ってくるが、相手が何も聞いてこない以上、自分から話しかけることもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る