第18話
母からは勉強を教えてやって欲しいと言われているが、本人にそんな意欲はないらしい。たまに奈帆子からの視線を感じながら、自分の課題を黙々と進めた。
「少し休んだらどう?」
お盆にお菓子と飲み物を乗せて、母が部屋に入ってきた。
「ありがとうございます! ちょうど小腹が空き始めて」
「そう。よかったわ。大地も少し休憩をいれなさい」
「ああ」
「母さん、少し出てくるわ。近所の人が野菜を分けてくれるっていうから」
「わかった」
「じゃあナホちゃん。大地、こう見えても頭はいいから、分らないことは聞いてね」
「はい。じゃあ少し休憩してからまた、大ちゃんに教えてもらいます」
全く質問もなにもなかったくせに、あたかもやり取りがあった風にいう奈帆子に大地は呆れていた。玄関の戸が閉まる音がして、母が出て行ったのを確認してから大地は声を掛けた。
「外面いいんだな」
「まあね」
奈帆子は頬杖をつきながら、テーブルのお菓子を口に放り込んだ。
「で、勉強をする気もないのに、どうして来たんだ?」
「――」
奈帆子は無言でお菓子を頬張ったまま、答えようとはしない。初めて会った時からそうだったが、奈帆子は何故か自分の事が気に入らないらしい。それは別に構わないが、嫌なら断ればよかったではないか。自分を嫌がっている相手の面倒を見る程、自分も心は広くない。
大地は話しかけるのも馬鹿らしくなり、そのまま問題に集中した。しかしふと、彼女の事が頭に浮かんだ。話す気が無さそうな奈帆子に聞いても返事はないだろうと思いながら、一応大地は聞いてみることにした。
「あのさ、この辺りに、髪が長くて子供がいる二十代前半の女の人って知ってるか?」
奈帆子はチラッと自分を見ると、興味がなさそうにジュースを飲んだ。それにしても脚を崩すのはいいが、短いスカートで足を立てているので、下着が見えそうだった。着ているタンクトップのワキの隙間からは、薄いブルーの下着が見えていた。よく見ると、見かけによらず胸もある。自分には悪態だが、相手が違えばこんな奈帆子でも媚びるのだろうか。でも大地にはそんな奈帆子が想像できなかった。
「二十代前半位っていうのは数人いるけど、長い髪はいない。どうして?」
「いや。見かけたから、どこの人かと思って」
「大ちゃん、長い髪が好きなの?」
「何で?」
「――別に」
奈帆子は、短い髪を人差し指に少し絡ませて遊び始めた。
「勉強しろよ。しないなら帰ったほうがいい」
奈帆子は少し口を尖らせると、今日初めて真面目に教科書に向きあい始めた。
休憩後、気持ちを入れ変えたのか、奈帆子は大地に分らない問題の質問を何度もしてきた。そうするうちに時間はあっという間に過ぎた。あらかた終わったところで、いつ戻ってきたのか母が部屋に入ってきた。
「ナホちゃん。今日、家で夕食を一緒にどうかしら?」
「え? いいんですか?」
「ミヤちゃんからの頼みだし。いいわよね? 大地」
「ミヤちゃんって?」
「私のお母さんよ」と奈帆子が言った。
「好きにしたらいいんじゃない」
大地は母を見ず、教科書を片付けて部屋に戻った。夕食まで少し時間がある。テレビは居間にしかないが、行けば奈帆子がいる。大地はこのまま部屋にいるのも息が詰まる気がして、祖母のところへ行ってみることにした。
祖母は相変わらず海を見ていた。窓が開けられた部屋は解放感があって、この屋敷のなかでやはり一番いい部屋だと改めて思った。
大地は持ってきた文庫を手に、祖母の隣に座った。祖母は大地を見てニコッとすると、また直ぐに海を眺めはじめた。大地はその隣で本を広げる。風に乗って聞こえてくる波の音をBGMにしながらの読書は、地元では味わえない贅沢な気分にさせてくれる。穏やかな時間が流れていた。
大地が何度か体勢を変えながら読んでいた本は、佳境へと近づいていた。
「あ、いたいた。大ちゃん」
その声で、柔らかく感じられていた時間が、一気に角ばったものになった。
「ねえ、大ちゃんの部屋を見せてよ」
座りなおした大地は、本から目を反らすことなく言った。
「何で?」
「だって、見てみたいし」
「数週間間借りしているだけの部屋だから、何もないけど」
「それでも見てみたいんだけど」
いつの間にか隣に座った奈帆子は、足を庭に出してブラブラし始めた。健康的に焼けた肌に引き締まった奈帆子の足を、大地は綺麗だと思った。
「何?」
「いや。だいたい男の部屋に入りたがるって、不用心もいいところだと思うけどな」
「大ちゃん、私をそういう目で見てるんだ」
まじまじと奈帆子を見ると、ほとんど女としての体は出来上がっている。だが、自分を欲情させるような雰囲気はやはり奈帆子にはない。ただ性の捌け口だけならどうだろう。一瞬過った考えに、大地は気分が悪くなった。
「悪いけど、この部屋から出て行ってくれないか?」
「どうして? いいじゃない。この部屋見晴らしはいいし、風も気持ちがいいもん」
大地は声のトーンを落として、もう一度同じこと言った。奈帆子はぶつくさ文句を言いながら、部屋を出て行った。
胃の中がぐるぐるして気持ちが悪い。彼女との話を思い出して、自分も浮気する人間と同等だと思った。それがたまらなく我慢ならなかった。その時、無意識に作っていた握りこぶしを、柔らかくて温かいものが包んだ。
「大丈夫。大丈夫」と言いながら、大地の手を祖母が撫でていた。大地の手は、祖母が両手で覆ってもはみ出してしまう。でもその掌はしわしわで柔らかくて、温かった。祖母が自分を孫だと分ってやっているようには見えない。それでもその優しさは、大地の擦れてしまった心を解してくれた。
「婆ちゃん、ありがとう」
「大丈夫、大丈夫」
祖母は飽きることがないように繰り返した。
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