第19話

 夕食時になって居間へ行くと、やはりというべきか奈帆子がいた。母と奈帆子の会話を聞いていると、どうやら夕食の手伝いをしていたらしい。大地は奈帆子を邪険に扱っていたから、気まずくなって帰るのでは思ったが、何食わぬ顔をして座っていた。それはそれで腹は立ったが、奈帆子と楽しそうに話している母を見ると、帰れとも言えなかった。

 母と奈帆子は時折笑いを交えて食事をし、大地にも話を振ってきた。でも会話に加わるつもりはなく、味わうのも忘れて食事を口に掻き込んだ。そのあと部屋を後にした大地は、そのまま祖母の部屋へ向かった。

 今日は自分たちの食事が早目だったので、奈帆子の食事が終わり次第、祖母が食事をすると母が言っていた。


「婆ちゃん腹、減ってない?」


 まだ陽が落ち切っていない外は、朱色の空が鮮やかで、海にまでその色を落としていた。


「海は繋がっているのにねえ」と突然祖母が話した。

「え? どういう事?」

「大丈夫。大丈夫」


 話はかみ合わず、祖母は海を見ながら独り事のように言う。祖母の状況は分かっているが、自分が今ここに存在していない、いや本当に安立大地という人間は、この世に存在するのだろうか、と馬鹿な事を考えてしまう。

 大地はそんな否定的な考えを体から吐き出すように、大きく息を吐いた。


「大地、お婆ちゃんのところにいたのね」


 振り向くと、母がいつの間にか後ろに立っていた。


「ナホちゃんを家まで送ってあげて」

「え? まだ明るいし、あいつを襲う奴なんていないだろう。それに俺、家知らないし」

「そういう事言わないの。はい。何かあったらミヤちゃんに顔向けができないでしょ。はい。ついでにおすそ分けもあるから」


 母に隠れて見えていなかったが、部屋の入口に凭れかかっている奈帆子が見えた。


「はい、お願いね。母さん、お婆ちゃんにご飯食べさせないと」


 母は座っている祖母に声を掛け、支えながら早々に部屋を出ていった。

 奈帆子が立ち去る様子はない。大地が送ってくれるのを待っているようだ。それにしても神経が太いなと大地は思った。部屋の窓を閉めた大地は、廊下の奈帆子に「送るから、鍋もって」と手渡した。奈帆子は「うん」とだけ言うと、大地の後ろをついて歩いた。

 奈帆子の家を知らない為、足取りを合わせるように大地は歩いていた。並んで歩いている二人の間には隙間があるのに、影は重なり合っている。外はまだ蒸し暑いが、風があるので激しい不快感はない。奈帆子も大地も口を開かないので、自然の出す音だけが響いていた。足は海側ではなく山手のほうへと進んでいく。

 何軒かの家の前を通り過ぎると、畑も見えてきた。


「家、まだなのか?」

「え? うん。もう直ぐ……」


 昼間の偉そうな奈帆子とは違い、元気がない。自分の言葉で傷ついたのだろうか。少し大地の良心が痛んだ。


「ごめん」

「え?」

「婆ちゃんの部屋での話、聞いてたんだろ?」

「まあ、そうだけど」

「だから」

 また会話がなくなる。しかし奈帆子が急に立ち止った。

「どうした?」

「――」


 まだ怒っているのか、自分の謝罪の仕方が気に入らなくてヘソを曲げているのか。どちらにせよ大地は、面倒な女だと思っていた。


「何? まだ何か怒ってるのか?」

「そうじゃなくて……」


 何を言いつまっているのか分らないが、大地はさっさと送り届けて家に戻りたかった。黙って俯いたままの奈帆子を無視して、大地は歩き始めた。さっき家はもう直ぐと言った。きっと先にある瓦屋根の平屋だろうと勝手に目星をつける。


「あの大ちゃん!」


 大地は立ち止って、奈帆子の方に振り返った。


「何? あの家?」

「私、あの……」

「何? 会った時から好戦的だったのに急に大人しくなって。俺、早く家に帰りたいんだけど」

「今度のお祭り、二人で行かないかな?」


 思ってもいない相手からの誘いに、耳を疑った。でも直ぐに気を取り直した大地は、キッパリと誘いを断った。

 帰り道、一体何の目的があって奈帆子は自分を誘ったのか。いくら考えても答えは出なかった。

 家に戻った大地は、居間に直行した。そこで目にしたのは、母があの人形を座椅子に座らせて、テレビを見ながら話しかけている姿だった。何が起こっているのか、瞬時に理解できずに大地はただ背筋が凍りつくのを感じていた。


「あら、お帰り大地。少し前にお婆ちゃんのご飯が終わって、休憩しているのよね」


 母は、人形に同意を求めるように話している。何かが脳裏をかすめたが、頭が痺れたように上手く働かない。口の中が一気に干上がってしまい、砂を口に含んでいるようでざらつき始めた。


「ずっと部屋で一人は可哀そうだから、居間に連れてきたのよ。この子、お笑いが好きなんだけど、笑点が一番面白いっていうのよね。どう思う? 大地」


 人形は話さない。と言いたくても、言葉が上手く出ない。


「どうしたの? 大地」


 口の中で一生懸命水分をかき集めて、やっとの事で喉を湿らした。


「人形相手に、何してるんだよ。人形に面白いも面白くないも関係ないだろ。どうしたんだよ。母さん」


 その時母は、人形を見ながら悲痛の面持ちのまま、薄暗い笑みを浮かべていた。


「大地は、何も心配しなくていいわよ。でもね、少しだけ我慢して欲しいの。母さんの事、しばらくは放っておいて」

「どういう意味だよ」


 大地の問いに母は答えなかった。ただその背後に、黒いベールで包まれているような暗がりを見た気がした。

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