第20話

 部屋に戻った大地は、すぐさま瞳子の携帯電話を鳴らした。しかし電源が切れているのか、留守番電話にしかならない。

 どうして母は人形に話しかけるのか。もしかして……とさっき頭を過った可能性を考えた。でもそれを母に確かめる勇気はない。もし確かめて返ってきた答えがイエスなら、自分がどのように振る舞えばいいのか、分らなくなる。大地は、霧がかった先の見えない巨大迷路の中に取り残されている気分だった。



 彼女に会うのは三日ぶりだった。あれから意地になって浜へ足を運ばなかった。でも色々一人で考えていると、熱を持った機械のように頭がぼうっとしてショートを起こしそうだった。波音とたまにかかる飛沫。ベタ付くけれども、海が運んでくる風に体を当てたくなった。

 浜辺に行くと、やはり彼女はいた。目にするときはいつも同じ場所にいる姿が、祖母と重なって見える。祖母も月の橋の逸話を知っているようだったから、待つという意味では同じかもしれない。


「どうも」

「お、少年。来たね。三日ぶりかな」

「まあ、そうですね」

「それで?」


 ついさっきまで話していて、続きは? と聞いてるようだった。大地は、やはり彼女もここの育ちなんだともう驚きはしなかった。むしろホッとしていた。


「前の話は訂正します。俺の父親、女と浮気してるんですよ。たまたま見ちゃって。本当、なんであんな人ごみの中、たまたまあの時間に出くわしたのかって……だって数秒でも目をそらしてたら、数分その場所に到着するのがずれていたら見なかったわけじゃないですか……」


 大地は、恥も面目も何も考えず続けた。


「凄く親しそうにしていて多分、今日に始まったばかりじゃないなって思った。そうなるとどれくらいの期間、母さんを含め自分たちは欺かれてたんだろうって考えたら、虚しくなるし情けなくなるし……それに母さんが気付いたらと思うと、自分がどんな態度をしていいか分らなくなるしさ。そしたら今度は、母さんが人形に話しかけてるし。少しずつ……」


 大地はそこで言葉を切った。彼女はじっと自分を見ている。言葉を切った大地に彼女は、「まあ座ろうか」とその場に腰を下ろすと、その横をポンと叩いて大地を促してきた。引き寄せられるように、大地も座った。

 ちょうどそこは、月の橋の最終地点だ。じっと座ったまま、自分も彼女も話さなかった。でも気まずさは、ここにはなかった。反対に、この静けさを心地よく感じていた。その感覚は何かと重なるのだが、一体何だったかは浮かんでこない。まあそれは後で思い出せばいいと、大地は止めてた話を続けた。


「少しずつ、何かが変わっておかしくなってるのを止められない。止めたいのにどうすればいいか本当にわからない」


 それはまるで、風に吹かれる砂漠の砂が形を変えているはずなのに、どんな風に砂丘の形が変わっているのか、目で確認する事が出来ずに立ち尽くし、どの方向に進めばいいか分からない旅人のようだった。そのうち水が無くなって、大地自身が干からびていくような危機感を持ちながら、水場を探していた。


「男女には」


 彼女は目の前にある、海の上で不安定にある光の中から言葉を拾うように、ゆっくり話を始めた。


「男女には、他の人には推し量ることができない感情があるのよ。それは血を引いている子供さえ分かるものじゃないと思う」

「どうして? 親子なのに」

「君は親とは血が繋がっているけど、夫婦はそうじゃないからよ。もともと夫婦は血の繋がらない他人。他人同士で一緒になっているから、そこに出来る感情は複雑で、でも単純だと思う」

「複雑で、単純?」

「そう。複雑なのに単純で、単純なのに複雑」


 言葉を入れ替えているだけなのに、まるで違った意味に言葉が心に響く。彼女は続ける。


「君は、何もしなくていいし、何も考えなくてもいいんじゃないかな。自分の親のことだから心配だし、お父さんに対して怒りもある。でも君は何もできない。出来なくていいんだよ。でも、もし、お父さんなりお母さんから助けを求められる事があったならその時、行動すればいいんじゃないのかな。それに――女は勘が働くものよ」


 大地は笑っている彼女と目を合わせた。

 波の音のせいなのか、それとも月の光の癒やし効果でもあるのか、彼女の言葉に大地はほっとしていた。何もしなくていい。もしかしたらそう言ってもらいたかったのかもしれない。自分は所詮無力だと。

 父と母は、自分が知らない時間を二人で過ごしてきている。他人同士が積み重ねてきたものは、息子である自分とは全く別のものだ。それを理解することは出来ないと、大地は感得した気分になった。

 潮風を肺一杯に吸い込んで吐き出した。味がするはずが無いのに、塩っぱく感じる。その時ズボンに入れていた物が、太ももに当たるのを感じた。大地は家から持ってきた箱を取り出した。


「そうだ。これ、何の貝だか知ってますか?」

「どれ?」


 彼女は大地の手から箱を受け取ると、目の高さでまじまじと見始めた。


「何だか爪みたい」


 大地はその言葉にギョッとした。確かに形はそう見えなくも無いが、言われるまで気づかなかった。


「普通の桜貝よ。これがどうかした?」

「え? ああ、隠すように蔵に置いてあったから。何かこの辺の風習と意味でもあるのかと思って」

「ふうん……そうか、蔵に」


 彼女は貝を見つめたまま、泣いているような嬉しそうな複雑な顔をしている。


「この辺りにそんな風習はないわ。でも隠すように置いてあったなら大事なものじゃないかな。君が然るべき時が来るまで、持っていればいいと思う」

「然るべき時って?」


 彼女は意味ありげに笑う。

「何か、知ってるんですか?」

「さあね。でもね、この箱からは何かを感じるわ。私、そういうのあるから」


 からかっているのか本気なのか、でも月の橋を渡ってきた人と話をしたと言っていたし……と大地は思い出して、乾いた笑いが口から漏れた。薄ら寒くなった気分を変えるため、違う話題を出した。


「そういえばお祭り、来るんですか?」

「行かないわよ」

「え? 子供は?」

「子供は……行くと思うわ。でも私は行けない」


 誘うことも、どうして? とも聞きたかったが、月の浮かぶ地平線を一心に見つめている彼女の横顔を眺めていると、大地は切り出すことが出来なかった。


「あの、どこに住んでるんですか? 知り合い聞いても、この辺じゃ無いみたいだったし。それより名前は?」

「住んでる場所と名前ってそんなに大事? 私も君の名前を知らないけど、何か不便でもある? 私は今のこの関係が気に入ってるの。それより私は君の事を信用しているし」


 そう言われてしまったら、大地は何も反論が出来なかった。

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