第37話
家族三人の安立家の車はワゴンではなく普通のセダン型だ。トランクを空にしてこなかった父のおかげで後部座席、大地の隣には荷物が詰まれている。
「すまないな大地。まさかこんな荷物が多いとは」と父が言うと母が「あなたはたまに抜けてるから」と、そんなところにも惚れていると言わんばかりの顔で言った。親ののろけ程馬鹿らしいものはない。まだ友達の惚気を聞いている方がマシだと思った。
海は次第に山に隠れて見えなくなっていく。車内は気まずい雰囲気でも尖った空気でもない。大地がよく知っている和んだ空気だった。
家について直ぐ、持って帰ってきた人形はリビングの定位置に、母の手によって置かれた。
その晩。丁度三人がリビングにいる時だった。父が突如、人形の前に立って話し始めた。
「昔の俺と君だ。俺は……ずっと色々なことから背を向けて逃げていた。すまなかった」
父は母ではなく、人形を見ながら謝った。
「いいのよ。いいの……私が悪いの。全て分っていたのに。でもあなたは……」
不穏な空気が一気に部屋を覆う。その中でテレビだけが、場違いな音を出し続けていた。
帰りの車の中はいつもの、安立家が作り上げてきた空気だった。でもそれは家という外界から遮断された中に入った途端、隠れていた家族の疑心を一気に顕にさせて膨らませた。
父と母の会話を聞いていた大地は、京都から持って帰ってきたままのモヤモヤとしたものが、より大きく、黒い塊になっていくのを感じていた。それに二人の会話は噛みあっているようで噛みあっていない。アンバラなものに聞こえる。お互い持っている闇がさらに濃くなり、反発しあっているような会話。
大地は置かれたビスクドールを見た。気持ちが悪い。でも、この二体がここにある限り、父はこれを目にする。これからの抑止力になるかもしれない。そう考えると、少しだけ気持ち悪さが半減した。それから家の中はどこか、ぎこちないものだった。それでもそれを受け入れつつ家にいるしかなかった。
夏の出来事は学校が始まれば薄れつつあったが、彼女との出会いだけはまだ色濃く残っていた。クラブでは一カ月近くのブランクが自分を追い詰め熱くさせた。
十月に入る頃には何とか一年生レギュラーに入ることも出来た。バスケも勉強も徐々に調子を取り戻し始めていた。
家は、やっと全てが何事もなかったかのように、表面上は元に戻りつつあった。それが例え虚偽だと分っていても、何れは本物になる。それで保たれればいいじゃないか。自分に限らず両親もそう考えていると大地は考えていた。
夏の痛いほどの日差しと息が詰まる程の暑さはなりを潜めて、空気は透明度を高め木々に彩りを与え始めた頃だった。過ごしやすくなったとはいえ、時に寝苦しい夜もまだあったその日、家の電話が鳴った。電話を取ったのは風呂上りの父だった。大地は風呂を上がってリビングでバラエティ番組を、母は台所で片付けの途中だった。
電話の応対を聞きながら、ああ知り合いからなのかと思ったのも束の間、父の声色が低くなりそして深刻な声で「美智子」と呼んだ。母が電話に出ると、手を口に当て今にも泣きそうな顔で父と目を合わせ始めた。ただ事ではない。大地は一瞬にしてそれを感じた。
「大地。直ぐに荷造りしなさい」
「え?」
「京都のお婆ちゃんが危篤だそうだ」
大地は、目の前でパンッと風船が弾けたように身動きも思考も真っ白になっていた。
簡単な荷造りをしている時だった。父が大地の部屋に入ってきて一言を置いていった。それを理解するまで時間がかかった。頭の中の神経が繋がらず、上手く機能していないようにさえ思えた。ようやく理解できた時は、荷造りを終えた時だった。大地はバックを締める前に、父に言われた通りに制服とあの箱を鞄に押し込んだ。
車中は夏の帰り道と正反対に暗かった。既に夜が深まっているのも心理的に作用していた。週末の高速は空いていて、父は法定速度ギリギリで走っている。道路の等間隔にあるつなぎ目からくる振動に体を揺られながら、オレンジ色の灯りを何十回と通り過ぎていく。同じ光景が続くと、何だかずっと同じ場所をグルグル回っているだけのような錯覚になってくる。そして残像を残しながら通り過ぎる光が、走馬灯というものはこんな風に見えるのかもしれないと、知らず知らず死という形を成してくるようで大地は目を閉じた。
クラブで体が疲れていたのもあってか、大地は眠ってしまった。次に目を開けた時、辺りは一面が闇に包まれていて、自分が眠っている間に事故に合って、現世ではないのではとハッとしたが、黒い闇の向こうに何個か光る物を見て海だと、祖母宅近くまで来たんだとわかった。
周りの民家は寝静まっているのに対し、栂尾の家は一際明るい。それでいて不穏な空気を漂わせていた。
開けられたままの玄関から瞳子が出てくるのが見えた。母が瞳子と抱き合い涙している。さながら映画などで見る再開シーンみたいだと、大地はぼんやりと考えていた。そして促されながら家に入ろうとした時、風に乗って波の音が聞えてきた。彼女はいるのだろうか? でも父の「大地? どうした?」の声に引っ張られるように家の中に入った。
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