第26話

 大地は涼しくなるまで部屋に籠もった。夕方、台所で適当なおかずとご飯を部屋に持ち込んで腹に押し込むと、母に声を掛けてから海に向かった。夕方の海は朱く染まり、夜、日中とはまた違う顔をしている。

 昔、冬にも来たことがあった。同じ海のはずなのに、体が感じる温度によって、全く違うものに見える。夏に見る海は、青春を謳歌する子供や若者のように浮き足だって楽しそうに感じる。でも冬の海は、彩りを失った木々のように侘しく、波打つ音は悲しげに、時に激しく泣きわめく女の声のように聞こえた。もし今が冬だったならば、自分の気持ちは泣きわめく女に引きずり込まれて、定まらない波のように不安定な精神状態になっていたかもしれない。大地は今が夏で良かったと思いながら、夏だったからこそ彼女に出会えたと感謝した。


 うとうとし始めた子供のように陽炎が揺らめき、ゆっくりゆっくりと地平線へと傾いていく。こんなにじっくりと太陽が沈んでいく様を見たことがなかった大地は、沈みきるまでその様子を眺め続けた。太陽が地平線の向こうに沈んだ後も、残光でまだ空が薄らと明るい事に妙に感動した。空が朱から群青色に変わり、金星が空に輝き始める。地上のどの宝石にもない強い意志をもったような堂々とした光。空を眺めるというのは、こんなにも飽きないものなんだと、ずっとこの変化を見続けていたいと思えるほどだとは、今の今まで気付かなかった。それよりもこんなに長く空を見た記憶がなかった。今日の天気は晴れだろうか? 雨が降りそうだな。それくらいの考えでしか見上げることがない。それか視界に入ってくる程度で、空を認識している訳じゃない。そう思うと自分はほとんどの毎日を、下を向いて過ごしていたのかとショックを受けた。

 空は色を増していった。丸びを帯びた白銀のような月が煌々と月面を照らし始めた。


「ヨッ! 少年。今日は早くからいるんだね」

「あ、どうも」

「隣に座っていいかね?」

「どうぞ」


 一昔前の先生のような口調は、彼女のお気に入りのようだ。


「もう直ぐお祭りだね」

「そうですね」

「この辺一帯の空気が、綿あめみたいにフワフワしてて、それだけで何だか楽しくなるね」


 返事をしない大地を、彼女は首を傾げながら、覗き込んできた。


「楽しくないのかね?」

「あ、いや……」


 昔は祭りがあると聞けば、気持ちが浮ついて、その日が来るのを心待ちにしていた気がする。でも今現在、祭りの準備で人の出入りが激しいせいか、全くそんな気持ちにはなっていなかった。だから彼女に「楽しくないのか」と言われて、大地は上手く言葉を編むことができなかった。


「まあ、君は色々と抱え込んでいるから、そこまで気持ちが及ばないかな?」


 それに対しても大地は答えず、その代わりに違う話を振った。


「月の橋を渡って来た人の話を聞きたいです」

「お! いいよ。それじゃあ……釣り人の話をしよう。何回目だったかな? まあ何回目かの満月の日、私より背の低い四十代くらいの男性が、長い棒を肩に担いで歩いてきたの。それで私が『何を持ってるんですか?』って聞いたら相手は『釣竿だよ』って答えたの。それで私この人、どうして釣竿を持っているのに、陸に来たんだろうって思って、その疑問を相手にぶつけたら、『いや、これ実は自分の釣竿じゃないんです。友人の釣竿と交換して釣っていたら、急に海が時化始めてね。持ったまま落ちてしまったんですよ』って男性が言うから、ああ、その友人に竿を返しに行くのかな? って思って聞いたら」


 彼女はそこで話を一旦切ると、「何て言ったと思う?」と質問してきた。大地もそれに乗って、彼女より背の低い男性をぼんやりと思い浮かべながら考えてみた。


「川釣りに行く約束をしてた、とか?」


 すると彼女は嬉しそうに口を尖らすと、「ブゥーーッ!」と言った。それは屋台のはずれクジでもらう、ストローの先の風船がしぼむ時のに音と重なった。自分より年上の人間が、恥ずかしげもなく目いっぱい口をすぼめて音を出す姿は、可笑しくて可愛らしかった。笑いを堪えていたつもりが、やはり難しかった。体が小刻みに上下しながら、口元からおかしなリズムで息が漏れている。


「正解は、彼の持っていた新しい竿を、一緒に釣りをしていた友人と一時的に交換していて、まだ返してもらっていなかったからでした!」


 彼女は、得意満面の笑顔だ。もともと彼女が大地に答えさせる気がないのだと思っていた。でも彼女はそういう気はではなかったらしい。純粋に、大地に問題として出題したようだった。その純粋な真剣さが、大地の笑いの急所に刺さった。大地が笑いの渦に引き込まれている間、彼女は意味が分からずキョトンとしたままで、またその佇まいがさらに追い打ちをかけた。彼女は怒るどころか困惑しているようだった。


「本当に面白いというか、何て言うか……きっとあなたの子供は、幸せだと思います」


 しばらく使っていなかった胃のあたりの筋肉に、鈍くて重い痛みがじんわり広がっていた。人は笑うとこんなに体が痛くなるんだと改めて感じた。


「ええっと……どういう事? 何が面白かったの?」


 何も計算されていない彼女の行動は、一時的に全てを忘れさせてくれる。今日はこのままずっとこうして彼女と夜を明かしたいと、心の底から思った。


「いいんです。それで、その続きをお願い……します」


 言葉と言葉の間に、笑いを押し込むように大地は言った。彼女は少し難しい顔をしたが、続きを話し始めてくれた。

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