第29話

 頼んだ飲み物が運ばれてきても、大地も父も手を付けなかった。重い沈黙が続いた。


「なあ大地。電話の事だけどな」

「――」

「ちゃんと別れるから」

「そう」


 もっと言いたい事があるのに、喉の奥がキュッとしぼんでしまって言葉が出てこない。


「毎月一回は、こっちまで仕事で来てるんだ」

「そう」


 父がアイスコーヒーに口を付けたのを見て、大地もストローに口を付けた。


「女の人。父さんと同じくらいの歳の人だったよね?」


 炭酸が、詰まっていた喉に道を作ってくれたのか、自然と言葉が出た。


「ああ。一つ下になる」

「どうして……あんなおばさん」


 若い女だったら許せる訳でもない。ただ奈帆子の事を思い返した時、男があの瑞々しさになびいてしまうのは仕方がないように今は思えた。でも父の相手はそうじゃない。大地はそこに只ならぬ何かを感じずにはいられなかった。


「彼女とは……学生時代に付き合っていたんだ。もちろん、美智子と出会う前の話だ」

「焼け木杭に火が付いた?」

「――そういう訳じゃない。俺は母さんを、美智子を愛しているし、お母さん似のお前の事もだ、大地」


 じゃあどういう訳なんだ。その言葉が喉まで出かけたが大地は飲み込んで、次の言葉を待つ。


「付き合っていた大学当時、彼女が妊娠したんだ。でも俺も彼女も大学二年で、もし産むとなったら辞めなければいけない。家の親は父が早くに死んで、母だけだったし援助なんか頼める状況じゃなかった。彼女の家も同じような感じだった。だから話し合っておろすことにした。それから何となくギクシャクしだして結局、大学を卒業する頃にお互い納得して別れたんだ。でもちょうど今年の春頃だった。偶然。本当に偶然、取引先で再会したんだ……」


 父の言葉を聞いても納得はできなかった。何かが頭の奥に引っかかっていてもどかしい。父の瞳はグラスに向けられているが、どこか遠くを見ている。


「それだけ? 本当にそれだけが原因?」

「え?」


 父の目が揺らいだのを大地は見逃さなかった。父は何かを隠している。母の様子から見て、それだけではないような気がしてならない。彼女の横顔とどこか被るのだ。でも父はそれ以上何かを言うことはなかった。



 祭りは二日にわたって行われた。祭囃子はBGMのように一帯に響き、そのリズムは浮つく気持ちをよりフワつかせる。早く前に進め進めと急かすようだ。

 折角なので大地も神社の方へ出向くことにした。屋敷の中で大地の存在は、半透明くらいの認識になっていた。

 山側にある神社へ続く道には赤提灯が等間隔で並べられている。黒と赤の対比は、妖しいのに心を惹きつけるものがあった。村以外からも人が来ているようで、大阪の祭り程ではないが往来は多い。途中から屋台がちらほらと見えだすと、それは次第に数珠つなぎになりながら神社まで続いた。


 赤提灯は、屋台の明るさに負け、すでに存在感を無くしていた。でもそれは境内に入る手前までで、神社入り口からはまた赤提灯の誘いだけになった。この日は特別なのだろう。本殿内にも明かりが灯されている。それは周りの暗闇の中に浮かび上がった別世界への入り口にも見えた。

 まばらな参拝客のほとんどが、年配者だった。大概の客たちは出店で足を止めていて、本殿の事など全く気にもしていない様子だ。

 大地は賽銭箱に小銭を投げ入れて、手を合わせた。確か手順があったはずだと思いながら、詳細など気にも留めたことがなかったので、要は気持ちだと弁明して気にしないことにした。


 信じ深いわけではない。簡単に言えば神頼みだ。父は、相手と関係を清算するといった。でもひび割れた物を完璧に元に戻すことはできない。接着剤のような役割を自分はしたかもしれないが、それでも自分の中にある細かい隙間が埋まらない。その憂慮を少しでも減らしたい。それが大地を自然と本殿の前に立たせた理由だった。

 信じ深い年配者達よりも、長く手を合わせていた。目を閉じている間、熱心に手を合わせている若い大地を見ながら去っていく視線を感じずにはいられない。目を開けると、無意識に呼吸を浅くしていたのか息苦しく感じ、大きく深呼吸をした。


 踵を返すと、黒いベールを纏った木々の間を、蛍のような屋台の明かりが、下の方まで続いていた。並ぶ屋台を見ながら自然と誰かを探していることに気付いた。色とりどりの浴衣の中から、長い髪を纏めた姿を見つけると、目で追っている。でもそれらしき姿は見当たらなかった。来ないと言っていたのはやはり嘘ではないらしい。

 境内を出た大地は、人波に逆らうように歩かなければならなかった。屋台からの威勢のいい声が、払っても払っても寄ってくる羽音のように煩わしい。早くここから立ち去りたいと気持ちは前に進むが、体がなかなか進まない。


「大地!」


 喧騒の中から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。でもここで自分の名前を呼ぶのは大体の予想はつく。聞こえない振りをしてその場から離れようと、流れの激しい波に逆らい前に進む。


「大地! 家に行っても居なかったからさ、来てると思ったんだよ」と、拓実が腕を掴んで大地を止めた。その隣には奈帆子と巌もいた。「悪いけど急いでるから」とその腕を振り解こうとしたが、拓実が瞬時に力を入れて解けない。


「離せよ」

「何だよ。いいじゃん。な? 奈帆子」


 巌ではなく、拓実は奈帆子に同意を求めた。山小屋でも事を知っているのか、それとも何か違う思惑からなのか分らないが、大地には興味は無かった。大地は力を入れて、腕を振り解き、人込みの中を逆流しながらまた歩き始めた。背中には雑音と混じって大地を呼ぶ声が何度か聞こえていたが、祭囃子と屋台からの声で直ぐかき消されていた。

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