第22話:ツァイトガイスト【3】

 けっきょく、流れる雲は、頼子の気持ちとは裏腹に、変わらない速度だった。

 彼女の眼には、あの日から、誰も彼もが書き割りに見える。灰色の、のっぺりしたヒトガタが、なにかをしゃべったり動いたり、時に喧嘩して、愛をかわしたりしている。

 だけれど、何を言っているのかは分からないし、分かる必要もないと考えている。

 つまりは、いつも通りということではないのか。

 そう、朝と昼と夜は、いつも通り過ぎていく。

 そのなかで、頼子は久遠と共にいた。


 たべもののはなしをして。

 映画の話をして。

 せんぱいの好きな音楽の話を、なんとかがんばって、言って。

 無理しなくていいのよと言われたけれど、せんぱいのために苦労するのは好きだ。一緒に居られているということを実感するから。

 だから、いつも通りなのはいいことだ、なんの「きざし」もない、それでいい。

 ……じゃあ、あれはやっぱり気のせいだったのか。

 あの男。

 「きゅうけつき」。明らかに、せんぱいの過去のなかにあるそんざい。

 それが目の前に現れたときに感じたのは、自分の領域に異物が入り込んでくるような、生理的な気持ちの悪さだった。

 せんぱいは、謎めいていて、気後れするぐらい美しくて、誰のことも一顧だにしない。そんなひとだ。

 そうであってほしい。

 あんな思わせぶりな男に動揺するような、そんな「俗っぽい」すがたのせんぱいは、きっとまぼろしだ。

 あの時せんぱいは焦っていた、何も言わなかった。

 見たことがない。見たくもない。

 あんな姿を、これからも見ることになるのか。


 頼子は、久遠が自分に告げていない事実があるということに憤るより、それによって、自分の知らない彼女があらわになることをはるかにおそれた。


 その不穏は、やがて身の回りの世界に、徐々に浸食をはじめる。


 日々、久遠とともに歩く、振り返る。

 なにか、急激なさむけのようなものを感じて振り返る、気配、あの吸血鬼。

 気のせいだった、電柱の柱だった。

 ストリートのウィンドウショップ。

 マネキンの影にも、あのすがたを時々見たりする。蜃気楼のように。

 それから、自分の傍を通り過ぎていく、あのカキワリ人形たちの、ザッピングする動画サイトみたいな言葉のサラダのなかに、ときおりノイズみたいに混じるような気がする、「きゅうけつき」の文字列。

 それからそれから――久遠は、ぼうっとするときが増えたような気がする。

 こちらが声をかけるまで、立ち止まって遠くを見て、無言でいることがある。

 そんなとき、決まって久遠はくすりと微笑して、髪を撫で、「なんでもないわ」と言ってくれる。

 やはりそれはうっとりするような瞬間であるが、恍惚が引いていった時には、ぞっとする。

 ――このままじゃ、いけない。


 いやだった。

 それに頼るのだけは。本当は、彼が去っていくときも、なんの感慨も浮かばなかった。

 古い映画みたいな別れのやりとりも、頼子にとっては陳腐にしか感じなくて、あの時は一刻も早く、久遠に寄り掛かってしまいたかった。

 彼の言うように時代は変わったのだから、あらためて顧みる必要なんてないし、絶対にやりたくもない。いまはじぶんがせんぱいのそばにいるのだから――。

 でも、そうも言ってられないから、頼子は、あの時サジから預けられた「荷物」を押し入れから取り出した。


 それは一冊のノート。

 ぼろぼろの糸綴じ。書かれている文字は明らかにヨーロッパのもので、読めないはずだったが、不思議と、読解することができた。それも、頼子の力なのだろうか。

 とにかく、すがる思いで、あの老人が、まだ少年であったころから書きためていた、「吸血鬼とドラキュリーナについての省察」を読み始めていった。


 それには、驚くことがたくさん記述されていた。

 吸血鬼とドラキュリーナがほぼ同時期に、なかば唐突に世界史のなかにあらわれて、人類とは別の種族として君臨したこと。

 彼らが苦手としている日光やニンニクについての情報はなかば誇張されていて、人類が彼らを貶め、自分たちの種族としての地位を守るために喧伝していたということ。

 種族としての歴史が長いために、内輪でのあらそいは絶えなかったが、それでも大規模な抗争に発展することはなく、いまだに地上に存在し続けていること。その秘訣となる呪法については、未だに筆者であるサジは理解に至っていないということ。

 そして、なにより。気をつけねばならない、という注意書きとともに。従者として、頼子に贈られた言葉。

 過去から未来への忠告だった。


 ――気をつけろ。ドラキュリーナは吸血鬼に惹かれてしまう性質を持つ。

 ――いつ、彼らの魔の手が迫ってくるか分からない。その時が来れば、いずれ私のあとで現れる「きみ」は全力で、彼女を彼らから、遠ざけねばならない。


「……せんぱいに、会わなきゃ」

 頼子は立ち上がっていた。

 いまは夜だった。月は赤くない。人間の色だった。

 まだ人間の自分も眠気には勝てない。だから今の間は離れている、だけどもうそんなことは言っていられない。


 昼間のかっこうをして、住まいを飛び出して、会いに行く。

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