第9話:HER:STORY【1】

 窓から入ってくる真っ黒な光を感じて、陽が落ちたのが分かった。

 クドウは目をさます。まだ、たっぷり眠い。

 周囲を見ると、同じ寮の子たちも、同じように、目をこすりながら伸びをしたりしている。

「もう夜~~」

「もっと寝た~~い」

「駄目駄目。先生に怒られちゃう」

「はーい」

 寮長の声に従って、起きて、ベッドをたたんで。

 

 ぞろぞろとみんなで歌をうたいながら、部屋から出て、顔を洗いに行く。

 小鳥たちのようなみんなの声がつらなって、一日の「はじまり」を祝福する。

 これが自分たちの日々。


 クドウは、赤い光に照らされた廊下の一部に立って、顔を上げた。

 月はそこにある。変わらずに、ずっと。きっとこれからも続くのだ。


「おはようと――こんにちはと、こんばんは」



「いいですか、皆さん」


 真っ白な髪と肌、眉のないきれいな赤い瞳の先生が、黒板にルーシ語で難しい文章を書きつけていく。

 この人はいつも口調も書く速度もはやいから大変だ。眠気まなこの自分たちには、一限目から堪える。

 授業は道徳。英語や数学よりも大事だと先生は言うけど、正直言って、クドウにはあまり面白いと感じない。


「ですから、私たちは、『彼ら』に抱かれるときに、その肌を傷つけないように、つめと牙を削るのです。これはささいなことかもしれませんが、とても大事なことです」


 何人かのクラスメイトが、気まずそうにマニキュアの指をかくす。互いに顔を見合わせて、くすくす笑う。


 ――何度目だろうか、この話。 

 ――もうさんざん聞いているのに。そこまで私たちはバカじゃない。


「皆さんは、彼らに尽くすことを最善と考えるように。それが私たちの至福なのです」


 先生は、じっ、と皆を見た。

 しばらくして、はい、という声が揃って聞こえた。

 満足気な彼女は、再び黒板に戻ろうとする。

 その時。


「でも、先生」


 生徒のひとりが言った。



「その相手の人が、よくない人だったら、どうするんですか」



 それは。

 たぶん、大したことない冗談のつもりだったのだろうけれど。


 ――先生の瞳孔が、小さく引き絞られて。赤いいろが、さらに強くなって。激しく、射すくめて。

 誰もが気圧されて、沈黙が流れる。

 かわいそうに、その生徒は、硬直したままになってしまった。


 しばらくして、チャイムが流れた。

「さぁ」

 先生は、手を打ち鳴らし、にっこりとほほ笑んで言った。

「食事にしましょう、ね」



 食堂は自分たちの居る場所で一番たいせつであると常々言われている。

 だから掃除の時間でも、ほこりひとつないようにしておかないといけない。

 だんだんになっている長椅子やテーブル、真正面のステンドグラスは、ろうそくの光を浴びてきらきらと輝いている。

 クドウたちはそれぞれ連なって座る。食事は全員で一斉に行うものだから、せまくるしいのが常だ。お尻同士がぶつかってくすくす笑い合う。

 すぐに先生の睨みが飛んでくるので肩をすくめ、押し黙る。

 先生の合図とともに目を瞑り、両手を肩に。眠りの姿勢の再演だ。

 しばらくして。ステンドグラスの光がより一層自分たちの場所に強く投射されたかと思うと、前方の扉がひらく。

 彼らが入ってくる。


 長いローブを従えて、まるで浮遊するように歩く者たち。

 吸血鬼だ。手には大ぶりな黄金の瓶を持っている。

 彼らが、ステンドグラスの前に並ぶ。

 先生が合図をする。

 最前列の生徒から、テーブルに置かれた皿を手に取り、彼らの前に出て行く。顔をあげず、目を合わせることなく、なるべく音を立てないように。

 それから、皿を掲げたまましゃがみこむ。

 吸血鬼たちは先生と頷き合い、その瓶から、ワインのように芳醇な濃く、赤い血を垂らす。

 皿に注がれたそれは、なるべく静止している彼女たちの心をざわつかせるのに十分だが、ここで我を忘れてがっつくようでは、ドラキュリーナの風上にもおけない。だから我慢する。

 クドウたちの番がくる。同じように、そろそろと前に出て、しゃがんで、血を受け取る。

 そのあいだに、彼女は想像する。

 自分の前に立っている彼は、いったいどんな顔をしているのだろう。ローブに覆われた表情は、何を浮かべている。

 私たちに血を与えることに、至福を感じている。あるいは。

 ……そこまで考えて、それが邪念であると気付く。気付かせてくれたのは、注がれた血のにおいだ。ある意味では、我に返ったともいえる。

 心臓の音を聞きながら席に戻る。

 先生の再びの合図で顔を上げると、そこには、艶やかな光沢を帯びた血が満ちている。

 ……喉が渇きを訴える。目の奥がちりちりと痛む。舌がぐぐぐっと前に出てきて、短くなったはずの牙がうずく。

 はやく、早く飲みたい。だけど我慢する。

 我慢する、我慢して、しばらく。

 先生と共に、皆で、いのりのことば。

 数秒後。

 クドウは、血を飲んでいる。

 喉に流れ込んでくる蜜。決してどろりとはしていないけれど、食道を通って、胃の中に落ち込んでくる時に、身体の内側を熱くしていく。こころも。

 自分たちが何者であるかを再確認させてくれる、その甘美な。ああ、私たちはこのために。私たちはドラキュリーナ。

 彼らに身を捧げることで、これだけの歓びを得られるのだ。そう悪いものではない。むしろ、自分たちが上位種であることの証拠だ。他のどの下等種にも、この幸せはあるまい。


 ああ、吸血鬼様――わたしたちは、こころとからだのすべてを、あなたがたにささげます。


 喉を鳴らす音と、小さな喘ぎの声のなか、クドウはあらためて宣誓した。

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