第8話:頼子のはなし【5】
いま、彼女は、一人の男の首筋から唇を離した。
口の端から、鮮血のどろりが糸を引いていて、淫靡にぬめっている。
男が、まるで紙みたいに倒れこむ。そして地面と一体となる。何人目だろう。もはや頼子の目には、ひとかたまりの肉塊にしかみえない。
「試験なんて、いらないです。あたしには。あたしはとっくに覚悟が出来てます」
「駄目よ。手順を踏まないと。焦らないで」
「駄目ってのは、あたしのことです。あたし、もう待てないです。はやく、はやく――」
あの時、サジ、と呼ばれた男性が前に進んできて、制止する。
冷厳な瞳。少し気圧される。
「落ち着きなさい。それに――試験は、もう始まるのだから」
「――え」
気配、振り返る。
いけにえのおとこ。えさのおとこ。何人目かの。
その姿をみとめて、目を見開く。
あの男だった。
年中、いやらしいにおいを発して、母を怒鳴りつけていた、あの男。
それがいま、どろりと濁った眼のまま、下着姿のまま、両腕をだらりと下げて、最後尾のエサとして、向かってきていた。
「この人は――」
「オトコなら、例外なく、私の支配から逃れられない」
それ以上、問いを重ねる暇もなく。
男は、吸血鬼の眼前までたどり着き、その首筋を、あっさりと差し出した。
果実のひとくちめのような、少し水っぽい音。
血を吸い込んでいる。男の。
その顔が、蒼ざめていく。
「まさか、死――」
「それはない。目立つだろう」
サジはなんでもないことのように言った。一体どれだけ、この人の「従者」をやっているのだろう。
「……ん」
吸血鬼は喉を鳴らし、顎から少しだけこぼしながら、飲んでいく。薄く目を開き、恍惚の表情で。
男は枯れ枝のように力を失ったまま、彼女に身を委ねている。
――なんというものを見ているのだろう。
――そして、こんなものが試験だというのなら、あまりにも。
そう、言おうとした。
男は倒れこむ。
吸血鬼が唇を拭う、深く息を吐き、余韻を味わう。
それから、改めて、こちらに向けて。
「今からよ」
またひとつ、気配。
振り返った。
「あ……あぁ」
そこに居たのは、母だった。
さいごに家の中で見たままの姿で、こちらを見て、愕然としていた。
◇
「どうして」
「……ああ、あああああ…………」
母は哀れなほど目を見開いて、カサカサの口をパクパクさせながらこちらを見ている。
こちらがわを。足ががくがくと震えて、そのまま倒れそうになる。
ぱさり。
かわいた、軽い音を立てて、男が吸血鬼の傍らに倒れ込んだ。
「お母さん、どうして来たの」
「ああ、ああああああ」
母は正気を失ったような声を出している。いや、本当に失っているのかもしれないけれど。
心臓がバクバクと音を立てる。これが分水嶺だと、「試験」だと分かる。
彼女たちが、自分に何を問いかけてるのかも、理解できる。
――選ぶ。ここで。
「お母さん。お母さんは、どうしてここに来たの」
「ああ、あああ」
「ねえ答えてよ。バカみたいだよ。ねぇったら」
「ああああああ、あああああああああ」
「むかし、そんなんじゃなかったじゃん。お父さんも居た頃、そんなんじゃなかったじゃん。ねぇ、昔のお母さんに戻ってよ……」
しかし母は、顔をドロドロにして、哀れなほどか細い声で泣き叫ぶだけだ。顔には浮腫が見える。髪はあぶらぎって、ぐしゃぐしゃになっている。
「あたし嫌だよ。ほんとは何にも選びたくない。誰を敵にもしたくない。ほんとはもっと友達が欲しい。みんなと仲良くしたい……お母さんのせいだよ」
「……」
「だから、こんなこと……聞きたくないんだよ。本当だよ。ねぇ、お母さん」
深呼吸する。母のところを見る。
そこはビルの影になっていないから、夜の光が入ってきている。自分と母の間に、明確な影のラインができている。
振り返る。
吸血鬼がいる。従者がいる。
言葉を待っている。
――瞬間、彼女らが……微笑んでいるように見えた。無数の手が、こちらに招いているようにも。
つばを飲み込んで、再び前に。
そして言った。
一瞬で多くの時間が流れた。
一歩、前へ。境界を踏み越えて。
「お母さん。おかあさんは、どっちを、さがしにきたの」
その言葉。
吐いた瞬間、母の顔がかわった。はっと、酩酊から目覚めたようになって、歪んだ笑みが浮かんで。
両腕を、こちらに差し出しながら。
「それはもちろん、――」
だけど、分かり切っていた。その先は。言わなくてもわかった。
いまの頼子には、その女が、醜い肉の塊にしか、見えなかった。
「うそつき」
吐き捨てて境界を戻った。同時に、母の目の前に、気を失った男の身体が投げ出されている。ひどく軽い音。
そして、それにすがりつく母が、見えた。見ていなくても、分かった。
――ずしゃ。
水をたっぷり含んだ野菜をたたき割ったような、そんな音。
つんと、鼻を刺すような、嫌悪感をもよおすにおい。
べっとりと、何かが自分の頬をよごしている。
見るまでもない。触るまでもない。
誰が死んだのか殺されたのか。その斧で。
力が入らなくなって、その場で座り込む、震えがとまらない。後ろは振り向かない、それをすれば本当に終わりだ。
いまは心の底から願っている。
――自分が、すがるものの出現を。
「……試験は合格だが、その後が肝心だ」
老いた従者は、後ろからこちらに回り込んできて。
首に、ひんやりとした刃を感じた。
「サジ……!」
「クドウ。分かってくれ。私の、つまらないプライドだ」
彼は続ける。
「従者のさいごは悲惨なものだ。誰にも認識されないようになった存在が、文字通り、ごみ同然になって見つかる。そんなさいごを、君は迎える覚悟があるか。それは何十年も先の話かもしれないし、いま、この瞬間かもしれない。それでも――」
……何を言っているんだろう、このひとは。
そんなの、もう、自分には。無意味な問いかけだというのに。
「……!」
だから、わらってやる。
刃のほうに身体を預けて、ほんの少し首筋が切れるのを見せつけて、この男をわらってやる。
あんたの出番はこれでおわりだ、じいさん。
「君は……!」
狼狽えた顔が愉快だった。そのうえで、後ろの彼女と目が合う。
……黙り込んでいる、その所作すら美しく。だけど、もう、それでいい。言葉などかわさなくとも、今この瞬間より、自分は。
「答え、出たわね」
「そのようだ……」
従者が斧をしまいこみ、後方へ引き下がる。対照的に、頼子は、前に進んだ。
彼女の眼前に。
そして自然と、これまでどこかで覚えてきたかのように、ひざまずいて、可能な限り厳かな口調を心掛けて、言った。
「いま、このときより――あたしは、ヨリコであって、頼子でなくなります。この命が尽きるまで、あなたの従者となります」
吸血鬼がゆっくりと頷いたのを感じたとき、至福の瞬間が訪れて、胸の内側の空虚が、何もかも満たされていくのを感じた。
それは天にも昇る気持ちだったけれど、自分は天国には行けないのだから滑稽だ。とにかく、今この時から、自分は何もかもがしあわせだ。
吸血鬼が頼子だった少女に祝福をほどこしたその後方で、首のない彼女の母親の死体が、奇妙な形でねじれたまま倒れていて、そこに、月の光が投射されている。
◇
月明かりの下で、彼女たちは契約をかわす。
「これより君は、何者でもなくなる。ただ彼女の影として生き、死んでいく」
「いいんです。全部、ぜんぜんいいです」
「……そうか」
かつての従者――サジは、大きなかばんを、頼子に託した。
「必要なものはすべて、そこに入っている。使い方は……まぁ、実際に触っている方が覚えやすいな」
「それくらい、やってあげなさいよ」
「言ってくれるな、クドウ。私にはもう、その力はないよ」
肩をすくめる。
身を翻す。
「……さようならだ、クドウ。私の吸血鬼」
「えぇ。さようなら、サジ。私の従者」
それ以上何も言うことはなく、男は、コートの襟を立てて、夜の闇へと消えていく。
頼子は慌てて、彼に向けて頭を下げた。
やがて、もう、見えなくなった。
「……さて、くどう、先輩……で、いいですか、呼び方」
「そうね。これからは、そのほうが都合がいいかもしれないわね」
二人の後ろには、学校がある。これまで頼子が通っていた場所。
そしてこれから、吸血鬼――クドウも、通うことになる場所。
すでに彼女は、いつの間にか、真っ黒な学生服になっている。長い黒髪とマッチして、やっぱりきれいだな、と頼子は思った。
「おうじさまは、あなただったんですね」
「何か言ったかしら、頼子」
「あ、いや、なんでもないです、はい。じゃあ、とりあえず、入りましょうか。ええっと」
「……分かるはずよ」
頷く。緊張するが、大丈夫だ。
これが初仕事。
「ええっと……『どうぞ、いらっしゃい』」
その言葉に。
久遠の時を生きる吸血鬼は、笑みを浮かべて――校門に手をかけた。
ぎいっ、と音がして、いつの間にか鍵が外れた。
二人で一緒に、入っていく。吸い込まれていくように。
これよりそこが、彼女の根城だ。
校舎の背後には、赤い月が、狂ったようにかがやいている。
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