第7話:頼子のはなし【4】
呆けたまま帰宅できていれば、それが一番良かったのだと思う。
しかし、その時彼女を出迎えたのは。
床に座り込んで、まわりに空き缶やその他雑然としたごみを散らしながら、膝を抱えて呻いている母の姿だった。
髪はぼさぼさで、腕にはあざがある。
――汚いなぁ。
そう思った。そのまま通り過ぎて自分の部屋に入り込んでもよかった。
「あの人。出て行っちゃったわ。また別の女のところにいる、きっとそうよ」
母がそう言った。無視をしようとする。
「……頼子」
手が伸びて、掴んできた。
瞬間、感じるもの。不快感、それとも。
「頼子、頼子ぉ」
「ちょっとお母さん、離してよ」
「ごめんねぇ」
母は顔を上げた。
真っ赤に、泣き腫らしていた。とうぜん、汚いと思った。
だけど、それだけじゃなかった。
「ごめんねぇ、母さんこんなだから、こんなだから、あんたにひどい迷惑をかけて、ああ、もう、死んで償えたらいいのに――」
「……お母さん」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。それは不快な気持ちから来たものではない。
頼子は、ほんの少し、言葉をやさしくすることに決めた。
「お母さん。ひどい顔だよ。もう眠ったほうがいいよ。ね」
「ごめんね、頼子、ごめんねぇ、駄目なお母さんで……」
下唇を噛む。
すがりついてくる母親をなるべく優しくふりほどいて、自分の部屋に入って、かぎをしめる。
そのまま扉に背中を預けて、ずるずるとしりもちをつく。
深くため息。髪の毛をぐしゃぐしゃとかきむしる。
――貴女の大事なものが何か、選ぶ時がやってくる。
だったら、迷いはない。
「きっとそう、そうに違いないもの」
何度も何度も、自分に言い聞かせた。
◇
それから数日が経過した。
――あの男は、戻ってきた。何事もなかったかのように。身体中にいやなにおいをぷんぷんさせて。
そしてまた、母と口論し、殴り合いをしている。
そんな様子を横目で見れば、自分に大切なものなどなにひとつありはしないと実感できる。
学校に行ってもそれは同じで、自分にはあのにおいがうつっているから、誰にも相手にされない。
言いたくもないような仕打ちを何度だって浴びている。
だけど、それを問題にするわけでもない。心配をしてくれているらしい担任も、けっきょくこちらの抱えている事情が想定以上に面倒だとわかると、それ以上何もしなくなった。
だからすべてを諦めている。それが肝心だ。
――だから、自分には大切なものなど、なにひとつ。
そうだと思っていた。
ある日の夜、眠れなかった。
体を起こすと頭が重くて痛かった。
あたしも、おさけをのむようになったら、こうなるのかな。なんて、考えて。
部屋を出て水を飲んでからリビングを見ると、母は、帰ってきたままの姿で寝息を立てていた。
――そういえば。夕飯、食べてなかった。でも不思議と、おなかはすいてない。それどころじゃないと思ってる。どこかで。
少しだけ、悩んだのち。
母に、ブランケットをかける。
身じろぎする、疲れ切った中年女性から離れて、窓から空を眺める。
それは赤かった。
この間のように。
血の色をした円が空に浮かんで、そのまわりの黒色を照らしている。
なまあたたかいかぜが吹き込んでくる感覚。夜そのものを塗りこめて、異界に変えてしまう、その色。
――ああ。これは、食事のときなんだ。あのひとの。
思い出す。あの時の光景を。
……すると、どうだ。やはり、頭をとろけるようなしびれが襲って、全身を甘やかな痛みが包む。
――あのきれいなひと。男たちをエサにして。無抵抗で。殺すこともできただろうに、追い返して。
――なんの感慨もなさそうに、あんなことを。
――あんな、まっかなくちびるをして。
――やっぱり、きれいだ。あの人、やっぱりきれいだよ。お母さん、きれいなひとって、なんであんなにも、素敵なんだろう。
もう、振り返らなくてもいいかな、そう思うと、肩の荷が降りたような気がした。
今日は、このあいだのように、頭がぼうっとしない。
こんどは、一度も振り返らずにドアを開け、外へ出た。
やっぱり男たちは亡霊のように並んでいて、あの場所へ吸い込まれていく。
――会いたい。もう一度あなたに。試験って何。そんなものなくたって、あたしは、あなたに証明できる。あたしのことを。
その気持ちだけで、彼女は彼らに連なって、進んだ。
――二度と、友達が出来なくたっていい。
――二度と、陽の光の下を歩けなくても、おしゃれができなくたっていい。
――何か、絶対のものがほしい。それに、自分のすべてをゆだねてしまいたい。
――そしてそれが、あなたであってほしいの。
辿り着く。
闇のなかに、足を踏み入れる。
「ああ……来たのね」
「来ました」
彼女はそこにいる。
そこにいて、やはり血を啜っていた。
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